第26話 我慢の限界


 音も無く大きな扉が開いてその向こうの異質な空間へとイヴリールを誘う。


 床に梯子のような白線が引かれ、緑色と黄色と赤色の丸い灯りが並んでいる奇妙な柱が立っていた。

 金属の大きな塊が四つの丸い物によって持ち上げられた物や、空を突き刺すかのような高さの細長い物が幾つも連なっている風景はイヴリールの目には異様に映る。


 こちらの世界とは明らかに違う景色にこれが美羽の居た世界を簡単に再現した物なのだと気づく。


 入口と窓らしき物があるのでその細長い物が建物だと分かるが、これほどの大きさの建物にどれくらいの人族が生活しているのだろうか。


 セロ村の百ちょっとの住人の中でもイヴリールには息苦しかったのに、これほどの建物全てに人が住んでいると考えると、とてもじゃないがおかしくなりそうだ。


 美羽が他人と比べては欠点ばかりを数えるのも人の数が多すぎるからかもしれない。


 ゆっくりと進んで行くと背の高い建物は減り、床がいつの間にか剥き出しの土になっていた。

 湿気を含んだ土の匂いと青い草の香りが漂い、心が穏やかに満たされていく。


「セロ村の家」


 馴染んだ景色が不意に現れイヴリールは目を丸くする。


 立ち止まって周りを見渡せばぐるりを囲んでいるのは見慣れた森では無く、灰色の背の高い建物だがその中央に、こじんまりと建っているのはタバサとイヴリールが住んでいた小屋。


 そして美羽と一月過ごした我が家だった。


 細かな部分が曖昧にぼやけてはっきりしないのは目の不自由な美羽が見ていた景色だからか。

 玄関に近づき自分が知っているよりも不確かな形の把手を握って開けると中は普通の部屋だった。


 イヴリールに用意された物より広くテーブルを挟んで長椅子が向かい合って置かれており、奥の方にもう一枚扉があるのでその向こうが寝室なのだろう。


 誰にも邪魔されないのを良いことにさっさと奥へ進みそっと扉を開けた。


 薄明るい部屋の中で灯りも点けずに生成りのゆったりとした夜着の膝を抱え、寝台の上で敷き布の皺を眺めているその顔は一週間前より痩せて見えた。セロ村で被っていた紺色のスカーフをちゃんと髪を覆っている姿にどこか安堵する。


 見えるようになったはずなのに変わらず刻まれている眉間の皺に気付きイヴリールはずかずかと寝台に歩み寄り、美羽が反応する前にその場所に優しく触れた。


「ふぇ?うわわ!なんで!?」


 初めはきょとんと見上げて小首を傾げたが、目の前にいるのがイヴリールだと分かると途端に声を上げて仰け反り寝台の上で尻を着いた状態で下がる。


「なんでって会いに来たに決まってんだろ」


 あまりにも動揺の激しい美羽に呆れながら理由を述べた。


「でも私はイヴを呼んでないのにっ」

「呼ばないから来た」


 平然と答えれば美羽は頓狂な声で「勝手に!?」と叫んだ。その驚愕の顔をじっとりと半眼で睨む。


「どうして俺がお前に会うのに誰かの許可をもらわなきゃならないんだ!いつからお前はそんなに偉くなったんだ?巫女に選ばれて紳士的な白竜に傅かれ、男前ばかりの竜族に言い寄られて勘違いしてんじゃないだろうな?」

「勘違い、したくもなるでしょ!名前に様をつけられて、イケメンは優しいし、なにもしなくても美味しいご飯は出てくるし、丁寧に扱われるしね!この中から好きな相手を決めて子どもを作ってくださいなんて、選択権委ねられれば誰だって有頂天になるし、偉くなったような気分にもなるの!」


 ぐっと言葉に詰まった後で素直に認めると捲し立てる様に言葉を続ける。頬を紅潮させ顔を歪めて声を荒げる美羽は初めて会った時のまま変わらぬ姿でイヴリールの前に居た。


「普通だったらイケメンが私に近づいて来ることなんか絶対有り得ないし、そのイケメンが私と伴侶になって子どもを産んで欲しいなんて思ってくれる奇跡は起こらないんだから!凡人の中の凡人だって十分自覚のある私が人生最大のモテ期に浮かれても別に、構わないでしょ!」


 言い終えた後興奮で荒い息を吐きながら、目に涙を溜めてイヴリールを睨み上げる。悔しそうにも、苦しそうにも見える美羽はとても浮かれているようには見えなかった。


「例えそこに恋愛感情が無かったとしても、女としての価値を認められたようで嬉しかったんだから」


 不意に瞳を揺らめかせて膝の上に額を乗せる。

 なにかを堪える様に震える肩が弱々しくてイヴリールを落ち着かなくさせた。


 本当は怒鳴りつけるつもりも、責めるつもりも無かったのに、顔を合わせれば今までのように口から出てくるのは思いやりの無い言葉ばかり。


 優しくしたいのにできなくて、想いを伝えたいのに素直になれなくてもどかしい。


「……俺がお前の願いを叶えてやる、美羽」


 呼びかけると美羽の身体がビクリと跳ねて反応する。震えは止まったが顔を上げる気配は無いので、そのままでもいいかと諦めて口を動かす。


「俺を選べ。そうすれば最短で帰れる」


 元々好意を持っているイヴリールと、祝福を受け入れた美羽ならば子を宿すことは簡単だ。


 こうしている間も貴重な時間は失われていっている。

 少しでも早く戻りたいのならばそうするのが一番だ。


「…………アムくんから何も聞いてないの?」


 なんの感情も籠っていない声が美羽の俯いたままの口から出される。


「俺以外なら誰でもいいっていうのは聞いた」

「それならどうして!そんなこと言うの!?」

「好きだからに決まってんだろ」


 顔を上げて非難するように叫んだ美羽に、自分の想いを率直に伝えられたのは我ながら意外で。


 なんの飾り気も、計算も無くするりと口から零れ落ちていた。

 考えるより舌が勝手に動いて言っていたような感じだ。


 戦い方同様色々と難しいことを考えるよりも、頭を真っ白にした方が素直な気持ちを言えるのかもしれない。


 本能で、本心で行動できる。


 突然の告白に美羽は一瞬固まり、黒い瞳を目いっぱい開いた。半開きになった唇をぴくりと動かしてからまたしても大声で喚き散らす。


「う?ええっ!や、なにそれ!嘘でしょっ!?ちょっと、イヴ。自分が何言ってるか分かってんの?」

「十分理解してるから、少し落ち着け」

「これが落ち着いていられるか!からかうのなら別の人にして!男の子に告白されるとか、免疫ないんだからっ」

「だから、落ち着けって」

「ほら、あれだ。同情でしょ?帰る方法が子どもを産むっていう条件なのが可哀相で、哀れに思えたんだよね?イヴって無愛想で口悪いけど、本当は優しいし。だからだよね?」

「うるさい。ちょっと黙れ」

「って!ちょっ、む、ぐぅ」


 取り乱して喋り続ける美羽を黙らせる方法として効果的で実用的な方法を取る。寝台に乗り上げて細い肩を掴んで引き寄せ、動き続ける唇を自分の唇で塞ぐ。

 柔らかな感触のあと勢い余って美羽の前歯が当たったがこれでもう喋ることは出来ない。


 レンが嗾けたように唇を奪ってしまうことになってしまったが、少しの間もおとなしくしていられない美羽が悪いのだ。


 イヴリールの言葉を聞こうともせずにべらべらと話すから──。


「ん──!」


 言葉を発せないがこれはこれでうるさい。

 両手をイヴリールの胸に当てて押してくるが、これは拒絶では無く驚いた反射のような物だ。


 痛みが襲わないことがその証し。


 左手を肩から美羽の項に移動させ撫で上げると、びくりと肩と背中を震わせるのを見て鼓動が早くなった。

 下唇を軽く噛んでから舌で上唇をなぞると美羽は喉の奥で小さな吐息のような悲鳴を上げる。


 明確な拒絶が無いのを良いことに、更に深く口づけながら右肩を押して体重を乗せ押し倒した。


 身体の下に感じる温かさと柔らかさに頭の芯がぼうっとする。


 翻弄されるままの美羽が口づけに応えることはなかったが、目元を赤らめて必死で呼吸しようと喘ぐ様子はイヴリールの血を滾らせた。


 夢中で貪っていると余程耐えかねたのか「むうん──!」と顎を振って右手をイヴリールの額に当てて押し退けようとする。


 同時に脳が揺れる程の衝撃。


「くっう!!」


 流石に高揚していた物全てが消え失せて、激しい痛みに顔を顰めた。敷き布に頬をつき、痛みが遠ざかるのを冷や汗をかきながら待つ。


 だが当然美羽は待たない。


「なに、なにを、一体何をしてくれてんのよっ!いきなりキスとかあんまりにも唐突過ぎるし、意外と上手いし!イヴって遊んでるタイプじゃないと思ってたけど、正直びっくりしたし、がっかりしたよっ!」


 口づけの間奪われていた言葉を次から次へと繰り出してくる。


 上手いと褒められたことは嬉しいが遊んでいるという評価は不本意で、しかも上手いと判断できるのだから他に美羽は口づけをしたことがあるのだと思うと面白くない。


「そりゃイヴみたいなイケメンは女の子沢山寄ってくるだろうから経験豊富なのかもしれないけど!私は違うの!同情でこんなことされたら勘違いするし、好きとか言われて簡単に信じちゃって後で後悔するのは嫌なの!」


 後半の方は涙声で、のろのろと視線を上げると真っ赤な顔で涙を流しながら大きく息を吸った所だった。


 薄い夜着の胸元がまるで誘っているように上下する。


「イヴみたいな男の子が私なんかに本気になるはずなんてないのに、期待しちゃったら自分のこともっと嫌いになるよ!惨めになる!悲しすぎる!そもそも竜族ってみんな格好良すぎて、そんな人達が私にまるでお姫様みたいに接してくるって状況が受け入れ難い!そんなタイプじゃないの!私は凡人で、目立たない、いつも選ばれない方の人間で――ってちょっと!?どこ触ってんのよ!」


 泣きじゃくりながら不満を口にしていた美羽が、やわやわと胸を揉んでいるイヴリールの左手に気付き眦を上げた。


 脂肪だけの柔らかさでは無く、それなりに弾力のある触り心地が掌いっぱいに溢れている。もっと触っていたかったが、ぺしりと手の甲を叩かれたので渋々涙で濡れた頬に移動させた。


「泣く必要ないだろ。俺は本気だ。同情でもないし、好きだと簡単に言ったりもしない。いっそのこと存分に勘違いしてくれた方が俺としては都合がいい」

「ちょ……イヴってそんなこと言うようなキャラじゃないでしょ?」

「キャラってなんだか分からんが、好きでもない女をこんな所まで追ってなんか来ないし、面倒臭いのに候補者からその権利を奪うために戦ったりしないだろ。普通は」


 それでもまだイヴリールの想いを疑って受け入れないのならば行動に移すまでだ。

 肘から下を寝台に着いて上半身を起こそうとしている美羽の首元に顔を埋める。


「ひゃあ!イヴ!イヴ――!!勘弁してっ。これ以上はちょっと冗談じゃすまないからっ」

「…………そりゃ冗談じゃないからな」

「ふわぁ!?」


 ぺろりと首筋を舐め上げて耳朶と顎の付け根に吸い付くと美羽は身を捩って悲鳴を上げた。掌で横髪の生え際を撫でて指を引っかけて髪を覆っているスカーフをずらすと「い、イヴ!」と上擦った声で阻止しようと手首を掴んでくるが無視して強引に外す。


 短い黒髪が敷き布に散り、顔を上げて美羽を覗き込めば微妙な表情で睨んでくるが直ぐに目を反らされた。


「別に私の居た所では巻いてない方が普通だから、恥ずかしくないし!」

「そうだな。じゃあどうして俺を真っ直ぐ見ない?」

「そ、それは!イヴが変な目をして私を見るから!」

「変な目って……どんなだよ」

「言えるかー!仮にも私は女だよ!忘れてるみたいだけど!」

「忘れるわけ、ないだろ」


 女じゃなかったら押し倒しはしないし、口づけもしない。

 忘れているのだと決めつけて現状からどうにか逃げ出そうと足掻いているのは美羽の方だ。


 甘い雰囲気を消そうと必死に口を動かしている。


「美羽、聞け」

「うう、えあう。はい」


 奇妙な言葉でどもった後で素直に返事をして黙る美羽を見下ろしながらイヴリールは説得を試みた。


「竜族と人族の間には好意がお互いに無いと子どもは出来ない。俺以外なら誰でもいいと言ったが、他の竜族の中にそういう相手がいたのか?」

「そんな、だって、まだ、良く知りもしないのに好きとか……そういうの」

「いないんだな?」


 確認の為に再度問い詰めると美羽は悔しそうに頬を歪めて「これから好きになるかもしれないでしょ!もう、なんなの」と声を上げる。


「こちらの世界の一日が、お前の世界での二日だ。帰りたいのにそんな悠長なこと言ってていいのか?これから好きになるよりも、多少は情のある俺を選んだ方が確実で速く帰れるぞ」

「か、帰りたいけど!どのみち子どもを産むまで帰れないんだったら、相手を見極める為に一週間や一カ月使っても大して変わらないよ!」

「なあ、聞いてもいいか?」

「……なによ」

「どうして俺じゃ駄目なんだ?」

「それは……」


 言い淀んで美羽は唇を噛む。眉間に皺を刻んで作る渋面は見慣れすぎて、それすら愛しく思えるのだから不思議だ。


「俺の気持ちが信じられないんだな?」


 返答は無かったがそれも原因のひとつなのだろう。


「竜族は好きな女から否定や拒絶の態度や気持ちをぶつけられると、精神的にも肉体的にも痛みを感じる生き物なんだ。嫌がることを無理強いできないようにできてる」


 怪訝そうな瞳が下から見上げてくるのを熱く見つめながら「覚えてるか?母さんとアムと一緒にチェリを食べてた時お前泣いただろ?」と問うと美羽は小さく顎を動かして頷いた。


「あの時俺がお前の眉間の皺を伸ばそうとしたな?」

「うん。すっごい痛くて、私泣いてんのになんでこんな酷いことすんだよ!って手を払い除けたら、イヴの手がビクッて大きく跳ねて、え?うそ、あれ、もしかして?」


 青くなって美羽は思い当たる現象に慄然としたようだった。


「それだけじゃない。あの後の祝福の時も最初は拒絶されて舌は麻痺して酷い痛みで血の味はするし、頭が揺れていて、吐き気までしたぐらい強烈だった」

「え?え?そうなの?それはちょっと……覚えてない」


 あの取り乱した状態ではイヴリールが受けた精神的肉体的痛みには気付けなかっただろう。ごめんと謝る美羽に苦笑して額を指差す。


「さっきも相当きた」

「さっきって?」

「口づけてた時のやつ」

「あ、あれは……息苦しくて、このまま流されちゃいけないって思ったし!」

「分かったか?俺がどれくらいお前のことが好きなのか」

「いやいやいや、有り得ない!有り得ないからね?イヴ勘違いしてんだよ。きっと」

「ふざけんなっ。竜族は本能で生きる獣だぞ?俺が勘違いとか、するわけないだろ!いい加減認めろよ」


 この期に及んで勘違いで済ませようとは。

 これ以上の説明も説得も無駄なのか。


「祝福を受け入れておきながら、今更俺に好意の一欠けらも無いなんて言わせないからな!」

「うぇえええ!?なにそれ!祝福ってそういう下心ありの物な訳!?」

「一生に一度だけ、大切な相手に与えることのできる力だ。それを受け入れる側にも少しは思いが無きゃ成功しない」

「なによー!授ける方の竜族には損害は一切ないって言ってたくせに!嘘つき!くそっ、本当に上手い話には裏がある!ただより高いもんは無いだよ、こんちきしょう!」


 さっと顔を赤くして罵りながらも美羽は結局祝福を断らなかった自分自身の浅はかさを責め、隠し通そうとしていた秘かな想いをイヴリールによって暴かれて両手で目元を覆った。


「俺は随分我慢した。だからこれ以上は無理だ。分かるな?」




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