第7話 脱出

 リタとシオンがその水没した洞窟に行き当たったのは、3度目の食事を摂ってから何時間も歩いたと思われる頃だった。

 様子を見てくると言って水中に没したシオンは、それほど時間をかけることなく戻ってきた。

 ぷはっとシオンが水面から顔を出したのを見て、リタは内心ホッとする。

「どうだった?」

「コウモリがたくさん飛んでいたわ。出口はもう遠くないと思う」

 シオンがゆっくりと水中から身体を引き上げた。しとどに濡れた身体には衣服がじっとりと張り付き、髪からはポタポタと水が滴り落ちて岩の床を濡らしていく。

「ここ、入ってきたところよりも短かったわ。水面もすぐそこだったし」

「短いって、具体的にはどのくらいなんだ?」

 怪しむようにリタが質問する。

「私だけなら1分もかからないわね。リタを連れてだと、1分と10…いえ、20秒はかかりそう」

「そんなにかかるのか!?」

 リタは絶句した。要するに、それだけの時間、息を止めていなければいけないということを意味している。

「別の道を探してみる?」

 シオンが気遣わしげに提案する。

「…いや」

 リタは首を振った。

「気は進まねえが、やるしかねえ」

 ここまで、道が枝分かれしているところには何度か遭遇した。しかし、いずれも足場が極端に悪かったり蛍光石が埋められてなかったりと、一見して出口に通じる可能性が低い道ばかりだった。それに、食糧も尽きかけている。ここよりも条件が良い出口が都合良く見つかる可能性に賭ける気にはなれなかった。

「分かったわ。私も、出来る限り短い時間で泳ぎ切るようにするから」

 シオンはそう励ますように言って、背嚢の中身を整理し始めた。食糧やマキモノなど、特別濡らしたくない荷物を手早く防水布で包んでいく。その他の荷物は、衣服と一緒に後でマキモノを使って乾かすつもりなのだろう。

「でもさ、万が一溺れちまっても、妖術符号を使って生き返らせることができるんだろ?」

 だからと言って、気軽に臨死体験をしたいとは全く思わないのだが。

 冗談めかして訊ねたリタに対し、しかしシオンは予想外の返事をした。

「あれはね、もう無いの」

「え?無いって…妖術符号って、半永久的に使えるんだろ?」

「そうよ。でもね、『蘇生ノ術』の妖術符号だけは別。あれは、一度きりしか使えないのよ」

 荷物をまとめる手を止めずに、静かにそう告げる。

 たった一度きりの妖術。

「そんな大事な術を、俺に使ったのか?」

 愕然とするリタに、シオンは何も答えなかった。無言のまま背嚢を背負うと、ザブンと水の中に入る。

「先に荷物を置いてくるから、ホムラと一緒に待っててね」

 そう言い置いて、返事を待たずにさっさと水中に没した。

「キュウ」

 取り残されたホムラがそわそわと水際で動き回っている。

(そういえば、こいつは水の中は平気なのか?)

 水面に前足を浸してバチャバチャと遊ぶホムラをなんとなく目で追いながら、リタはこれまでのことを思い返す。

(あいつ自身のことは、何も知らねえな)

 妖術符号のことはこちらが聞くまでもなく進んで教えてくれたし、ここにたどり着くまでの道すがら、どんな国や都市を訪れたのか、そこでどんな風に盗みを働いたのかという話を聞かせてくれたりもした。

 しかし、シオンの過去や故郷の話となると、これが全く聞かされていない。

 リタは、助けた理由を訊ねたときに返ってきた言葉を反芻する。

『話し相手が、欲しかったから』

 聞いたときは本気にしなかったが、もしかして、シオンがその本心を吐露した唯一の言葉だったのではないか。

『故郷にはもう、居場所が無かったから』

 意味深な言葉だけを漏らして、肝心なことは何も教えないシオン。軽薄で無警戒な言動に惑わされてきたが、実のところ、リタ以上に固く心を閉ざしているのではないか。

 そこまで思考を巡らせたところで、リタはハッと我に返る。

(どうしてそんなことを気にするんだ?ただの賞金首じゃないか)

 ただの、賞金首。

 本当にそうだろうか。

(…違う)

 リタはゆっくりと首を振る。

(賞金首じゃなくて、シオンだ)

 もう、シオンを捕らえることはできない。そんな気持ちはとっくに消え失せている。

 何故なら。

「ぷはっ」

 シオンが水面から顔を出した。さっきと同じように水中から身体を引き上げると、すぐそばで待っていたホムラに声をかける。

「ホムラ、少しの間だけ筒に入ってて」

 ホムラはシオンの指示に素直に従い、するりと筒の中に姿を消した。シオンが懐から何かを取り出す。

「すぐに開けてあげるからね」

 優しく声をかけてやると、手に持ったそれを筒の口に嵌め込んだ。

 カチリ。音がした途端、筒の表面に妖術符号がボウッと浮かび上がり、すぐ消えた。

「これでホムラは大丈夫。水が侵入しないのはもちろん、中の空気が尽きないようにする効果もあるのよ」

「そうか」

 リタに向かって楽しげに説明をするシオンに相槌を打ってやる。

 シオンは立ち上がり、いつの間にか腰に結わえていたロープの端をリタに差し出した。

「念のため、これを付けてくれる?どんなことがあっても、ちゃんとリタを連れて行ってみせるから」

 リタはロープを受け取ってしっかりと腰に結びつけると、シオンの顔をじっと見つめた。

 シオンが怪訝そうな顔をする。

「どうしたの?」

「シオン」

 リタは改まった口調でシオンに呼びかけた。

「いつでも良いからさ、師匠っつーのが誰なのか、教えてくれねえか?」

「なっ、何よ…藪から棒に…」

 シオンが困惑した表情を見せる。後ずさりしようとするが、リタとロープで繋がっているせいで距離を取ることができない。

 リタは畳み掛けるように一気に話す。

「俺だけ自分のことを喋ってばかりで不公平じゃねえか。シオンも少しくらい自分のことを話せってことだよ!」

「わ、分かったわ、ちゃんと話すから」

 シオンは押し止めるようにして両手のひらをリタに向けてくる。

「…約束だぞ」

 リタはくるりとシオンに背を向けた。つい今し方の自分の発言が急に恥ずかしくなってくる。シオンと出会ってからというもの、こんなことばかりじゃないかと心の中で叫ぶ。

「そうと決まれば、さっさとここを抜けるぞ」

「待ちなさい」

 水中に飛び込もうとしたリタをシオンがロープで引っ張って止める。

「その前に注意事項を聞いてちょうだい。でなきゃ溺れてオダブツなんだから」

「うっ…分かったよ」

 「オダブツ」の意味は分からなかったが、シオンの言わんとすることは何となく分かる気がする。

「分かればよろしい」

 シオンはポンポンとリタの背中を叩くと、水際に腰掛けるように促した。

「来たときと同じように、私がリタを抱えながら泳ぐから。リタは、長く息を止めることだけに集中して。苦しくなったら、少しずつ口から空気を出すと良いわよ」

「了解」

「それから…」

 リタを見つめてグッと拳を握り込む。

「あとは、私を信じて」

「…分かった、信じる」

 ふっと笑って、シオンの握り拳にそっと手を被せる。シオンは少しだけ驚いた表情を見せたが、すぐに嬉しそうな笑顔を浮かべた。

「それじゃあ、せーので水の中に入るから、その瞬間に大きく息を吸い込んでね」

 リタはこくりと頷いて水面に顔を向けた。緊張で身体が強ばるのを感じる。

「行くわよ…せーの!」

 リタは目一杯肺を膨らまして息を吸い込むと、ギュッと目を瞑って水中に飛び込んだ。


***


「ゲホッ…うぅ…」

「リタ!しっかりして!」

 せき込みながら目を開けると、ひどく取り乱した様子のシオンが目に飛び込んできた。

「ゴホッ…シオ、ン…?」

「ああ…大丈夫そうね…」

 リタの無事を確認すると、シオンは安堵の表情を見せる。

「うう…」

 呻きながらも、むくりと身体を起こして周囲を見渡す。

「ここ…蛍光石が、無いんだな…」

 青い蛍光石の代わりにシオンのカンテラが周囲を照らしている。どこかからコウモリのつんざくような鳴き声が聞こえた。

「良かった…とりあえず服を乾かすわ。リタはもう少し休んでて」

 シオンはいそいそと背嚢の中に手を突っ込む。

「なあ、シオン…」

「なあに?」

「もう、水はこりごりだぜ…」

 薄らぼんやりとした頭で、しみじみと噛み締めるようにそう言った。


***


 洞窟の出口を塞いでいた大岩をマキモノで浮かして動かすと、晴れ渡った空の青がふたりの目に飛び込んできた。

「出た…」

「出たわね…」

「キュキュイ!」

 ふたりが立っていたのは開けた丘陵の中腹だった。その斜面は大小様々な石に覆われ、その合間に乾燥に強い草木がポツポツと生えている。

 リタはふらふらと2、3歩進んでからその場に立ち尽くした。洞窟を無事に抜けきったことによる安堵と達成感が疲労となって全身に行き渡り、今にもその場にへたり込みそうになってしまう。シオンも似たような状態なのか、何も言わずに眼前の景色を眺めている。

 やがて、背後からシオンが声をかけた。

「とりあえず、休憩しましょう…」

「そうだな…」

 少し離れた場所に手頃な岩場を見つけて落ち着くと、リタの炎でお湯を沸かし、その湯でシオンがコーヒーを淹れた。

 リタはふうふうと冷ましながら少しずつコーヒーを啜っていく。香ばしい薫りと強い苦味のおかげで頭が少しだけシャッキリしてきた気がする。

 シオンが少しだけコーヒーを口に含んで顔をしかめた。

「これ、やっぱり苦手だわ…」

「それじゃあ、どうして淹れたんだよ」

 すかさずリタが突っ込む。

「だって、リタと同じものが飲みたかったんだもの」

 シオンが口を尖らせる。そして、何かに気がついたように右前方に目を留めると、すっと指差した。

「ねえ、あれって…」

「ん?」

 リタがシオンの指差した先を目で追うと、遠目にも大きいことが分かる屋敷が見えた。

「あれは…ウォルター・ザ・ウォーターの屋敷じゃねえか。こんなところに繋がってたんだな」 「びっくりねえ」

 ひたすら脱力しながらぼんやりとコーヒーを啜る。

「キュイ」

 辺りを気ままに走り回っていたホムラが、シオンの膝の上に登って毛繕いを始めた。

「こいつ、こんな色をしてたんだな」

 ホムラの毛皮は、燃えるように赤い夕焼け空と同じ色をしていた。洞窟内では青い蛍光石のせいで正確な色合いが分からなかったが、陽光の下に出られた今、やっと知ることができた。

「綺麗だ」

 リタは素直に感想を述べる。シオンは自分ごとのように顔をほころばせた。

「ね、まるでリタみたいでしょ?」

「それはどうなんだ…」

 反応に困ってポリポリと頬を指で掻く。

 そのままゆったりとした時間がふたりの間に流れる。

 リタが二杯目のコーヒーに口をつけたところで、ふいにシオンが口を開いた。

「師匠というのはね、幼くして独りになった私を拾って、育ててくれた人なの」

 突然始まったシオンの自分語りに、リタは驚いてマグから口を離す。

「そして、偉大な妖術使いでもあった。あれほどの妖術使いは、もう二度と現れないでしょうね」

 シオンは視線を前に向けたまま、淡々とした口調で語っていく。

「師匠は病気で亡くなったわ」

 ほんの数瞬、シオンの目蓋がわなないた。

「師匠が間もなく死ぬだろうことを知ったとき、私はひどく取り乱したわ。何をよすがに生きていけばいいのか、私には分からなかった。そしたら師匠がね、マキモノを差し出して私にこんなことを言ったの。『世界は広い。きっとどこかに、お前にとっての安住の地がある』ってね」

 ここまでひと思いに話すと、冷めかけたコーヒーの残りを一気に流し込む。

「うぅ、やっぱり苦い」

 しかめっ面で舌を出すと、空になったマグを両手で弄びながら話を続けた。

「ホムラとはね、そこそこ長い付き合いなのよ。旅に出る前に野生に帰そうとしたんだけど、どうやってもついてきてしまって」

 優しくホムラの背中を撫でてやると、ホムラは細長い身体を気持ちよさそうにくねらせる。

「どうして話してくれたんだ?」

「だって、約束したじゃない。今話しておかないと、もう話せないでしょ」

「あ、ああ…」

 リタは曖昧な返事をする。

 確かに『いつでもいい』とは言った。しかし、その時の自分がどこまでの未来を想定してそう言ったのかは、改めて考えるとよく分からなくなる。

(俺は、シオンとの未来を想像しているのか?)

 リタは戸惑う。町を出てこことは違う何処かへ旅に出るという、漠然とした想像は確かにしていた。ならば、そこにシオンがいる未来はどうだろうか。  リタは想像してみる。

(…嫌では、ない)

 むしろ、独りきりの旅よりも、遥かに良い。

 きっと楽しい。きっと助け合える。

(でも、シオンはどうなんだろうな)

 リタはそっと、ホムラと遊ぶシオンを盗み見る。居場所を簡単に手放すべきではないとシオンは言った。リタがついて行きたいと言ったところで、果たして頷いてくれるだろうか。

 上空で何かの猛禽類の甲高い鳴き声が響いた。会話が途切れたまま、時間が過ぎていく。リタはコーヒーをチビチビと飲みながら、とりあえず何か会話の糸口になるようなものが無いかと視線をさまよわせていた。

 遠くスミス氏の屋敷、その庭先と思しき場所に目を留める。

(そういえば…)

「シオン、気球って聞いたことあるか?」

「あるけど…突然どうしたの?」

「ほら、あそこ」

 リタが屋敷を指差す。

「屋敷の横になんかあるだろ。あれがそう」

 リタはシオンを見た。

「ていうか、気球を知ってるのか」

「ええ、大都市で遊覧しているところを、一度だけ見たことがあるわ」

「ふーん。魔法無しで飛ぶって、本当なのか?」

「みたいね。なんでも、布袋の中の空気を暖めると宙に浮かぶんですって」

 シオンは気球の原理を簡単に説明した。

「それだけ?」

 リタが疑わしげに聞き返す。余りにも単純過ぎて却って信じにくい。

「それなら俺でも…」

 リタは途中で言葉を切った。

(そうか)

 まるで火花が弾けるように、ひとつのアイデアが頭の中に閃く。

 これなら。

「シオン」

 リタはすっくと立ち上がった。

「ウォルター・ザ・ウォーターの気球を盗むのを、手伝ってくれないか」

 ふわりと一陣の風が吹き抜ける。真上から射していた太陽が西に傾こうとしている。

「…私は、いいけど」

 リタの思わぬ申し出に呆気にとられていたシオンが、ようやく口を開いた。

「だけど、リタは賞金稼ぎでしょ。盗みなんて、そんなの」

「シオン、俺は思うんだ」

 リタが晴れやかな表情で語る。

「賞金稼ぎと賞金首、確かに追う者と追われる者の違いはある。でもよ、どちらも同じ、ならず者だ」

 短い金髪が陽光を反射してきらめく。綺麗な髪だとシオンは思った。

「シオン」

 リタの青い目が真っ直ぐにシオンを射抜く。

「一緒に、気球に乗って空を飛ぼう」

 シオンはすぐには答えなかった。屋敷を見て、膝上のホムラに目を移し、束の間目を閉じる。そして、ホムラを両手に包み込むと、リタと同じくその場で立ち上がった。

「分かった」

 迷いのない目で真っ直ぐにリタを見返す。

「盗みのことなら、任せてちょうだい」

 しかし、すぐに顔を曇らせた。

「とはいえ、誰にも気づかれずに気球を盗むといいのは中々の難問ね。第一、布袋を膨らませるのに時間がかかるし。それに…」

 スッとリタが人差し指を立ててシオンに突きつける。

「そんなこと、何の問題にもなりゃしねえよ」

 グッと腕を折り曲げて親指で自身を指し示す。

「俺は、火竜サラマンデルのリタ様なんだぜ」

 ひゅうっと、その呼気に炎がちらついた。

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