君と道が交わった 上


「うわぁ、すごいねぇ」

 

「だな」

 

「一番高い場所はどこかな」

 

「あの塔じゃねぇか」

 

「ほんとだ。入れるかな?」

 

「知らねぇ」

 

 俺の前で高揚している白い毛玉。三十番、もといミオは、辿り着いた観光地に意気揚々としている。安くて黒いローブを羽織った俺達は、個性豊かなこの場所で少し浮いている気がした。

 

 ミオが別の世界の澪から貰った道具で鎖を切って数か月。元ご主人様の金品をいくらかくすねて街を飛び出し、細々と旅をする今日この頃。

 

 二十五番、もといニゴと名乗る俺は、空いた腹を満たしたいとぼんやり考えていた。

 

「ミオ、まずは宿探さねぇか。それで飯食いたい」

 

「あ、そうだね、ごめん。行こっか、ニゴ」

 

 小さい耳を揺らすミオは笑って角を掻く。コイツはすぐに謝るし、縮こまるんだ。頭もいいし決断力もそこそこあるのに。

 

 ミオは「宿~、宿、」と呟きながら歩き出したので、俺はため息をついて横に並んだ。

 

「お金もちょっと稼ぎたいね」

 

「働かせてくれる所、あるといいな」

 

「だね」

 

「宿は誰かに聞こうぜ。観光地だし、何個かあるだろ」

 

「うん、賛成」

 

 俺とミオは道を行く様々な種族を横目に見る。頭がまん丸い奴を見ると体が緊張するのだが、俺の手足はもう自由だ。ミオにだって鎖はないし、枷もない。壊して、ちゃんと置いてきた。

 

 それに、ここは有名な場所。騒ぎを起こしてもしも住人に怪我でもさせたら、それこそ命がない。だから俺達を捕まえようとか、売り飛ばそうなんて考える奴はいない筈なんだ。

 

 大丈夫、大丈夫……息しろよ、俺。

 

「ニゴ」

 

 ミオの声が俺の顔を上げさせる。血に汚れていない毛を揺らしたミオは、俺のローブを掴んでいた。

 

「あの清掃員さんに聞いてみようか」

 

 白い指がさすのは一人の住人。道路に落ちたゴミを拾う、俺達とは全く違う頭の奴。

 

 首はちょうど真ん中くらいで輪切りにされたようになり、そこから一本の棒が生えている。棒の先は物を挟める作りになっているようで、一枚の白い紙がついていた。

 

 多分、街の外で見たら驚く奴。それでもこの街ではあれこそが普通。ここは異形の頭を持つ者達の街なのだから。

 

「そうだな」

 

 俺の返事がミオだけでなく、相手にも届いたのかもしれない。白い紙は振り返り、俺達に笑顔を向けた。弧を描いた三本の線が、俺達に笑顔を認識させる。

 

「何かお困りですか?」

 

「ぇっと、はじめまして。僕達は旅をしている者なんですけど、宿はどこか教えて頂けませんか?」

 

「はじめまして。なるほど、旅の方だったんですね!」

 

 肩を弾ませた白い紙が俺達を手招きする。清掃道具を抱えた住人は、ついて来いって言いたいのだろう。俺とミオは顔を見合わせて、少し警戒しながらも住人を追った。

 

「宿はいくつか良い所があるんです。よければご案内しますので、少しだけ職場に寄らせてくださいね」

 

「そんな、ごめんなさい。仕事の邪魔ではなかったですか?」

 

「大丈夫です! 街に来てくれる方は大歓迎! 仕事よりもご案内できた方が皆さん楽しいですし」

 

 振り返った白い紙はやはり笑顔。黒い線が敵意はないのだと示し、俺達の肩から力が抜ける。

 

 住人は、弾けるような声で笑っていた。

 

「改めまして。ようこそ異形頭街いぎょうとうがいへ!」

 

***

 

「観光案内をしてきても大丈夫でしょうか?」

 

「いいよ~、いってらっしゃい、上質紙さん」

 

 白い紙の奴の名前は上質紙。紙ではなく上質紙と呼んで欲しいと道中で言われ、連れてこられたのは清掃会社。上質紙の勤務先であるそうだ。

 室内には頭が電球の住人やゴミ箱の住人と、目を奪われる光景が広がっている。それ、どこで周りを見てるんだよ。会話は? 謎すぎる。

 

 着替えた上質紙は俺とミオを連れて、異形頭街を歩き始めた。

 

「宿のご希望はありますか? 夜も賑やかな区域がいいとか、二人で一つの部屋に泊まれる場所がいいなど」

 

「二人で一つの部屋がいいです」

 

「あと、夜は静かな方が嬉しい」

 

「でも、お金はあまりないので……」

 

 ミオが鞄を触って視線を泳がせる。行く先々で数日暮らせるくらいの稼ぎをして、それで宿代と必要最低限の物を賄う日々だ。有名な観光地で良い宿なんて高いんだろう。それくらい俺とミオだって分かってる。

 

 首を傾げた、というか、頭を傾けた上質紙はやはりどこか陽気だった。

 

「心配しないでください。ここはどんな人も受け入れている街ですよ。旅人さんやお金が少ない方だって、来てよかったと思えるように準備して下さってるんですから、皆さん」

 

「そう、なんですか?」

 

「そうですよ」

 

「なら、少し金を稼げるような場所とかもあったりするのか?」

 

「短期労働! えぇもちろん! どなたの所がいいでしょう、宿を決めた後に周ってみましょうか」

 

 ミオの耳が真上を向く。コイツの耳は鎖で繋がれていた頃より頻繁に動くようになったと思う。良かったな。

 

 俺達の揃った「よろしくお願いします」を聞いた上質紙は、鼻歌でも歌いそうな雰囲気だ。異形頭に鼻があるのかどうかは知らないが。

 

「もし差し支えなければ、お二人の旅の理由などをお伺いしても構いませんか?」

 

 上質紙の問いに俺の喉が詰まる。そこに首輪はないのに、締められた気分になる。

 

 弱い俺が顎を引いたのと、ミオが手を握ってくれたのは同時だった。

 

「僕達、色んな空を見る旅をしてるんです」

 

 明るい声に息ができる。迷わない姿勢に安心する。

 

 顔を上げた俺は、笑っているミオを見つめた。足を止めない上質紙は、やはり鼻歌でも歌いそうだ。

 

「あぁ、なんて、素敵な理由なんでしょう」

 

***

 

「美味しいねぇ、ニゴ」


「あぁ、美味いな」

 

「それはよかったです」

 

 俺とミオの要望通り、二人部屋で夜は静かな宿が取れた。俺達はその流れのまま、昼食兼短期の働き口に連れて来られている。

 

 胃を刺激するパンの香りと元気な呼び込みの声。焼き立ての昼食は俺とミオを満たして、勝手に顔が緩んでいた。上質紙も機嫌よく服のボタンを外し、胸にあるチャックを開けている。異形頭は胸に口があると聞いていたが、見たのは初めてだ。縦の口とは新鮮だな。

 

 俺は野菜と肉が挟まったパンを頬張り、ミオは野菜だけのものを口に詰め込んでいた。

 

「こちらはバスケットボールさんが経営するパン屋さんです。異形頭だけでなく観光客の方にも人気なんですよ。力仕事や接客など、短気でも手伝ってくれる方がいると助かると以前お聞きしました」

 

「そうだったんですね」

 

「はい。ね、バスケットボールさん」

 

「あぁ! パン作りは筋肉と愛があればいい! 頼むぜ二人共!」

 

 上質紙の隣に立って、筋肉の盛り上がった腕を見せてくる異形頭。首の上に丸いボールが付いているが、あれがバスケットボールと呼ばれるものなのだろう。俺もミオも、奴がバスケットボールさんであることは記憶した。


 にしても、パン作りって筋肉と愛があればできるのか? 愛ってなんだ? その二つがあればこんなに美味いものが作れるのか? 分からねぇな。

 

「体躯から見て、ニゴの方には材料の運搬やパンを並べたりするのを手伝ってもらおうか! ミオはレジ打ちや接客をしてくれると助かるな!」

 

「頑張る」

 

「頑張ります!」

 

 トントン拍子で俺達の話が決まっていく。異形頭達は不思議だ。得体の知れない奴を簡単に雇うし、容易に懐に入れる。そこに恐怖や不信はないのだろうか。俺だったら、相手がどんな奴で、どんな思考で、どんな行動をする奴か暫く観察したいんだけど。

 

 上質紙とバスケットボールはまだ読めない。頭が異形である分、こいつらの顔色が窺えない。これだけ良くしてくれるのだから悪い奴ではないと思いたいのに、まだ俺はそこまで簡単にはなれていないらしい。

 

「ニゴさん? どうかされましたか?」

 

 柔らかい上質紙の声がする。俺はパンを握り締めていたと気づき、自分の両手首が重たい気がした。ミオは心配そうに俺を見ている。

 

「なんでもない。ありがとう」

 

 絞り出した声が情けなくて、俺は残りを食べることに集中する。香ばしいパン。綺麗な水。腹を満たすのは栄養がしっかりある食べ物だ。

 

 腹が減りすぎて気持ち悪いことはなくなった。殴られた体が痛んで眠れないこともなくなった。呼吸に緊張することも、扉が開く音に怯えることもなくなった。

 

 何を恐れる、ニゴ。お前はもう、二十五番じゃないだろ。

 

「ニゴ」

 

 俺のローブが引っ張られる。白い毛を揺らすミオは変わらず隣にいて、穏やかに笑ってくれた。

 

「頑張ろうね」

 

「……あぁ」

 

 口角が上がったと自分でも分かる。ミオがいる。俺は一人じゃない。俺は自由で、隣にはミオがいて、毎日綺麗な空を求めて旅をしてる。それが今の俺なんだ。

 

 上質紙とバスケットボールが顔を見合わせた気がする。バスケットボールは体に似合わず、可愛いカップに淹れた紅茶を出してくれた。この異形が持つとカップもお盆も捻り潰されそうだけど、動きはとても丁寧だ。

 

 俺とミオは食後の紅茶に満たされて、心身共に温まった。

 

***

 

 俺は、ミオがいなかったら今日も奴隷のままだった。それは間違いないって言える。澪から武器を貰ったミオは一人でご主人様の元を去ることだってできた。他の奴の鎖を切る必要はなかったし、そこで俺に「一緒に行こう」なんて声を掛けなくてよかったんだ。

 

 しかし、ミオは俺の手を取ってくれた。ご主人様に連れていかれるミオを黙って見ていた俺の手を、慰めの一つも言えない俺の手を、だ。

 どうかしてる。俺と一緒に行動したって、ミオには何も良いことなんてないだろ。

 

 捻くれた俺はいつも思う。頭がよくて愛想もいいミオは一人でだって旅ができると。別に俺がいなくたって、コイツは一人でも上手く立ちまわっていくって。何もない手首を重たく感じて、閉塞感を覚える俺とは違うんだって、思う。

 

 なぁミオ。いつかお前が俺に「別の道を行こう」って提案したら、俺は駄々を捏ねたりしねぇよ。俺みたいなのが重荷になるより、お前はもっと身軽な方がいいだろうから。


 それでも、俺からは言えない。俺から「別の道を行こう」って提案はしてやれない。俺は弱虫で、意気地もない奴だから。お前みたいに、引っ張ってくれる奴が欲しいんだよ。

 

 異形頭街に滞在して数日。俺とミオはパン屋での仕事にも慣れ、胃を刺激する匂いに囲まれて生活していた。

 

「ニゴ、次はこのパンを並べてきてくれ!」

 

「分かった」

 

 バスケットボールから渡される大きなトレイ。香り立つパンを売り場の棚に並べている間、俺の腹が鳴ったのは一度や二度ではなかった。

 

 ミオは愛嬌のある笑顔で忙しなくレジを打っている。異形頭だけでなく観光客も立ち寄る店は連日盛況だ。

 しかも大盛況という程ではなく、あくまで盛況の域。特出した目玉店というわけではなく、息の長い人気店として客を呼び込むこの店は暇になる時間もなかなかない。これならよく分からない旅人でも働きたい奴は歓迎するよな。

 

 合点がいく中、ミオが目を回しそうになっていると気づく。俺は空にしたトレイを厨房に置き、従業員のテニスボールに声をかけた。

 

「レジ、ちょっと大変」

 

「お、了解した~」

 

 テニスボールはいそいそとレジの応援に出てくれる。安心したようにミオの耳が動いたのを見て、俺は材料の袋を移動させた。ミオのように愛想もなければ器量もよくない俺は、こういった力仕事の方が向いている。

 

 ご主人様の所にいた時もそうだった。ご主人様が作る違法物品の材料を休みなく運んだり、危ない場所へ受け取りにも行った。

 俺はそうだ。頭を使うより体を使うことを求められて、自分では問題なくできたと思っても殴られた。多分どこか足りなかったんだろう。

 

 鎖が無くなったって、俺ができることは変わらない。要領が悪い俺は、見た目だけしっかりした体を使っているのが正しいんだ。

 

「ニゴ、さっきはありがとう」

 

「……あ?」

 

 売り場に出せないパンを貰った休憩時間。ミオと一緒に腹を満たしていると、白い耳が陽気に揺れた。俺はミオが言う「さっき」が思い出せず、疑問符を浮かべた返事をしてしまう。


 ミオは俺の反応まで分かっていたようで、可笑しそうに目を細めていた。

 

「僕がレジで困ってた時、テニスボールさんを呼んでくれたでしょ?」

 

「あぁ、ミオがパンクしそうだった時な」

 

「そう。気づいてくれて、助かったよ」

 

 美味そうにパンを食べるミオから視線を逸らす。背中がむず痒く、お礼を言われる事柄ではないと思ったからだ。

 

「当たり前のことだろ」

 

「……ニゴ、そういう所あるよね」

 

「そういう所?」

 

「そういう所」

 

 角を掻くミオの横顔は、どこか仕方なさそうだ。俺はパンを持つ自分の手を見て、ミオが言う「そういう所」は分からなかった。やっぱり俺が馬鹿だからだろう。ミオみたいに賢くないし、敏くない。

 

 俺とミオはそれからもバスケットボールのパン屋で働かせてもらった。異形頭街に滞在する日数などは決めていない。天候が悪いから出発するのを見送っているのだ。

 

 俺達は寄った街で星空を見る。一番高い所に行って、一番空が近い場所で、星を見る。それができたら次の街へ向かう。俺達の旅の目的は色々な空を見ることだから。異形頭街の星空は何度か見られたが、狙うのは雲がない快晴の夜空だ。

 

「今日も雲があるねぇ」

 

「まぁ、快晴って難しいだろ」

 

「だねぇ……ニゴ、異形頭街、楽しんでる?」

 

「そこそこ。ミオは?」

 

「楽しんでるよ。バスケットボールさん達は優しいし、色んな観光客さんが来るし。明日の休みも楽しみ!」

 

「そっか。どこ巡るか決めたか?」

 

「えっとねー……」

 

 どれだけ忙しい日だって、退屈な日だって、夜は変わらずやってくる。それは今日だって例外ではない。もうすぐ日が落ちる時間、俺とミオは薄雲のかかった空を見上げていた。今日も目的の夜空にはならないだろうと予想できる雰囲気だ。


 窓辺に鏡の欠片を置いたミオは、向こうの澪に空を届けているのだろう。鏡面には橙色の空が映り、澪が向こうの空を見せている。ミオが肌身離さない鏡の欠片に、どちらの世界のものか分からない光が反射した。

 

「向こうの空も綺麗だね」

 

「だな」

 

「澪もなんだか元気そうな気がする」

 

「分かるのか?」

 

「ううん。ただ、そんな気がするだけ」

 

 緩い表情のミオは異形頭街の地図を広げる。白い指は喜々として行きたい場所を挙げていた。楽しんでるんだな。

 

「ニゴはどこに行きたい?」

 

「俺はどこでもいい。ミオの行きたい所で」

 

「いっつもそう言ってくれるけど、本当にいいの?」

 

「いいよ」

 

 ミオの耳が垂れる。元々垂れているのだが、空気が垂れる。どうしてだよ。

 

 俺は鏡の欠片を持ち上げて、空が近づくように手を伸ばした。あの薄雲の向こうにある星は、きちんと見えているだろうか。

 

「ニゴ、僕と一緒に旅するの、楽しい?」

 

 膝に重さが乗る。そこにはミオが顎を乗せており、目は不安そうに伏せられていた。

 

 またコイツは、当たり前のことを聞く。当たり前すぎて、聞くことは逆に恥ずかしいのではないかと思うことを口にする。

 

 俺は鏡の欠片を下げて、肩から力を抜いた。

 

「ミオ、」

 

 黄色い目と視線が合う。ミオは姿勢を静かに正す。膝が少し寒くなったと思った俺は、そこで違和感を抱いた。

 

 俺の体がズレる。今、ここに居るのに、歪んで、迷って、引っ張られる。

 

「ニゴ!?」

 

 ミオの声が遠くに追いやられて、掴めそうだった白い手に触れられない。

 

 鏡の欠片を落とした俺は、目の前が激しく暗転する様に気持ち悪さを覚えたのだ。

 

「な、にッ……!」

 

 咄嗟に顔を両腕で覆い、目を固く瞑った状態で尻もちをつく。煙たい匂いが鼻を掠め、周囲が薄暗くなったと瞼を透かす感覚で判断した。

 

 何、なんだ、何が起こった。怖い、怖い、怖い怖い怖いッ

 

 奥歯が勝手に震えそうになる。脳裏にご主人様の魔法の残影が散っている。殴られる、蹴られる、罵られる、怖い、痛い、嫌だ、怖い、怖い、怖いんだよ、やめてくれ、ミオ、ミオ、ミオッ

 

 俺がミオの名前を叫ぶ前に、聞こえたのは、まったく知らない声だった。

 

「ほ、ほんとに、召喚、できた……」

 

 呆気に取られたような、気の抜けた声。俺は思わず目を開き、自分が置かれている状況を視認した。


 俺の目の前で膝をつき、放心している奴がいる。部屋は暗い。そして広くもない。置いてあるものは黒や赤の物が多く、俺の周りには火が灯った物が円形に並べられていた。

 

 なんだ、ここ、どこだ。コイツ誰だ。何しやがった。

 

 目を白黒とさせていれば、放心していた奴は両手の指を組んだ。その恰好を、俺は知っている。ご主人様にさせられた、謝る時の姿。両手の指を交互に組んで、頭を下げて、ごめんなさいを繰り返す動作だ。

 

 俺の全身を、鳥肌が駆け抜けた。

 

「ぁ、あ、悪魔さ、」

 

「やめろッ!」

 

 弾かれるように立ち上がり、頭を掻き毟る。俺の前にいる奴は顔を青くし、閉口した。

 

 どうしてそんな目で俺を見るんだ。どうして俺に向かって手を組むんだ。それは服従の形だろ。俺にお前を殴れとでも言うのか。お前は俺に殴られたいのか。なんなんだ、なんなんだ、なんなんだよッ

 

「ご、ごめんなさい」

 

 頭を下げられる。謝られる。やめろ、やめろ、やめてくれ。その姿に自分が重なる。何度も何度もご主人様に謝った俺が、ミオが、重なるから!

 

 俺は謝る奴の肩を掴んで床に叩きつける。馬乗りになって見下ろせば、奥歯を慣らすコイツは目の縁に涙を溜めていた。

 

 鳩尾の奥が締め付けられる。見たくない、見たくない、こんな奴の顔なんて見たくない。

 

 俺は咄嗟に顔を覆い、弱々しく背中を曲げてしまった。

 

「誰だ、誰なんだお前、俺に何した、何してくれた。なぁ、なぁ……なぁ」

 

 目の奥が熱くなって、不安が波の如く押し寄せる。俺の下で体を震わせている奴は何も教えてくれないから、余計に胸が痛むんだ。

 

 荒い呼吸が自分のものだって、気づくのには時間がかかった。俺の下にいる相手は逆に落ち着き始めたようだ。

 いや、落ち着くと言うよりは、困惑し始めたと言った方がいいのかもしれねぇけど、あぁ、ダメだ、ダメだ、馬鹿な俺じゃあ、わっかんねぇ……。

 

 ミオ、お前だったらこんな時どうするんだ。ミオならこんなに、情けない無音の状態になんかしねぇのかな。分かんねぇ、分かんねぇ、なぁミオ、お前は今どこにいる。俺だけ変な場所に来たのか? なんで俺なんだ。どうして、馬鹿で弱い俺なんだ。

 

「君は、悪魔じゃな、い?」

 

 震える声に暗い地下を思い出してしまう。俺は反射的に顔から手を離し、相手の襟を掴んだ。

 

 明るい茶色の髪。鏡の向こうにいた澪と似た雰囲気の奴。そう、多分、人間って呼ばれる種類の生き物だ。澪みたいに柔らかそうではないから、男なのかもしれない。

 

「違う、君、鬼なのか……」

 

 相手の声は後になるほど萎んでいく。茶色い目はゆっくりと伏せられて、俺は奥歯を噛み締めた。

 

「お前、何しようとしたんだ」

 

「俺は……悪魔を呼んで、願いを叶えて欲しかったんだ」

 

 異形頭達と同じ、五本の指がついた手で相手は顔を覆う。俺やミオよりも小柄で細い、コイツは子どもだ。

 

「願いって」

 

 悪魔なら知ってる。対価を大事にする高位の種族。願いを叶える代わりに釣り合うだけの対価を要求する奴らだ。

 

 悪魔の行いは理にかなっているとミオは言っていた。自分の望みを他者に叶えてもらう。ならば自分でも見合った何かを差し出さなければいけない。それがルール。

 

 悪魔を呼び出す奴は、大抵ろくなことは願わないともミオは言っていた。自分では到底叶えられない、普通に過ごしていれば不可能なことを叶えて欲しいから悪魔に頼るのだと。

 悪魔は魂が欲しいから願いを叶えるのではない。魂を代償にしなければ叶えられない願いを相手が願うのだ。

 

 目の前の子どもは知っていたのだろうか。悪魔を呼んで、そこに必要な代償を。失敗で呼ばれた俺は、何もできない種族なのだが。

 

 目を覆っている子どもは、消え入りそうな声を吐いた。

 

「俺……姉ちゃんを、呪って欲しかったんだ」


***

 

「どうか姉ちゃんを呪ってください」

 

 俺の前にいた奴は落葉おちば星衣せいと名乗った。「悪魔でなくてもいいから」と床に頭を擦りつけられたが、俺にそんな力はないのだと滾々と説明する。俺にできるのは体を使った労働程度だ。

 

 何度も質問を繰り返し、理解を示した星衣は見るからに落胆した。勝手な奴だ。

 

「なんで姉ちゃんのこと、呪いたいんだよ」

 

「……ムカつくから」

 

 星衣は膝を抱えて眉間に皺を寄せる。俺に姉なんてものはいないので分からないが、ムカつくから呪うというのは安直だとは思った。コイツの考えてることはやっぱり分かんねぇ。

 

「ムカつくって、」

 

「姉ちゃん、頭悪いんだよ。それなのに、なんか毎日毎日楽しそうで、友達たくさんいるし、馬鹿なのにお父さんもお母さんも姉ちゃんの方が好きみたいだし。見ててイライラする、あの人、ほんと」

 

 額を膝につけた星衣の表情が見えなくなる。途切れ途切れの言葉からは深い姉への苛立ちが伝わってきた。

 

 どうしようもない気持ちがトゲになってる。けれど、星衣の言葉はご主人様のように鋭くも大きくもなかった。同じように苛立っている筈なのに、コイツの言葉は弱く、小さな呟きだ。

 

「あの人を見てたら、悔しくて、嫌になる。俺は先生とかお父さん達の言うこと守って、勉強も頑張って、委員長だってやってるのに。姉ちゃんみたいに友達は多くない。姉ちゃんみたいに学校や、生きてることを満喫できてない」

 

 細い指で星衣が服を握り締める。滲んだ悔しさに濡れた声は、星衣自身の首を締めているように見えた。

 強い言葉を吐くのに慣れていないから、喉を通った感情に自分が傷つけられてる。苦い思いを零す口は、酷く不器用に映った。

 

「なんでだよ、何であの人ばっかり、楽しそうなんだよ。なんで俺は楽しくないんだよ。近くにいるから余計にムカつく。家族だから、姉弟だから、余計にイライラする。なんで、なんで、なんでって!」

 

 大声を出すことに慣れてないんだな、コイツ。

 

 自分の肩に指を突き立てて、苛立つのに膝を抱えて、星衣は目の縁を赤くする。

 

 近くにいる眩しい人が嫌い。自分より楽しそうな姉が嫌い。頑張ってる自分より、頑張ってない姉が嫌い。

 

 星衣が抱えた感情を、なんと言えばいいんだろう。馬鹿な俺には分からない。賢いミオなら分かるかもしれないが、俺の隣にミオはいない。

 

 ミオは今頃、何をしているだろう。俺を探しているのだろうか。まだ異形頭街にいるのだろうか。

 もしくは、一人で空を見上げて満足しているのだろうか。これをいい機会だと思って、一人で出発の準備を始めてしまっただろうか。

 

 胸が焦がれるように痛くなる。俺を置いていっても構わないと思っていたのに、いざ想像してみたら歯痒くなるんだ。

 俺はやっぱり弱い。臆病で、一人では旅に出ようなんて思えない小心者だ。そんな俺を召喚して、姉を呪ってくれと星衣は言う。

 

「お前だって好きにしたらいいじゃねぇか」

 

「どうして、俺が変わらないといけないんだよ。真面目に、ちゃんとしてる奴が、どうして変えないといけないんだよ」

 

 俺の意見が不服だと星衣の雰囲気が伝えてくる。不満を孕んだ言葉は最もだと逆に納得させられた。

 

 星衣はきっと、言われたことをきちんとしているんだ。ちゃんと守って、ちゃんとして、ちゃんといい子にしてきた。なのに姉ちゃんはそうじゃない。そうじゃないのに楽しそうで、自分はいつも楽しくない。それは嫉妬で、軽蔑で、感情をぐちゃぐちゃな茨にした。

 

 俺はまとまらない言葉を頭に浮かべ、星衣は暗い部屋で膝を抱えた。

 

「俺、ちゃんとしてきた。先生に怒られないようにしてきたし、父さんや母さんをガッカリさせたり、困らせたりしないようにしてきた。我儘も言わない。門限も守る。テストも内申も良い点とってきたし、面倒なことも投げ出さずにしてきたのに」

 

 顔を上げた星衣に俺は口を結ぶ。ぼろぼろと、星衣は大粒の涙を零していたから。怒ったような、叫びたいような、泣き喚きたいような、多すぎる感情が混ざって、溢れて、星衣の顔を歪めている。

 

「なんで俺、楽しくないの。どうして姉ちゃんのほうが、幸せそうなの……」

 

 星衣の頬を伝った涙が床に落ちる。顔を覆った両手は震えており、滲み出る悔しさが俺を刺していた。

 

 俺は星衣ではないからコイツの悔しさなんて想像しかできない。だから想像する。悪魔を召喚したいほどに切羽詰まった感情。姉ちゃんを呪いたくなるほど重たい気持ち。アイツがいなければ自分は幸せになれるのにって奥歯を噛む、その心。

 

 任された仕事の失敗を俺のせいにした奴隷仲間がいた。言われた通りの量をこなしたのは俺だけなのに、一番時間がかかったからって殴られた理不尽があった。要領のいい奴は痛い思いをしなかった。要領が悪い俺の方が痛い思いをした。

 

 喉の鎖が重くて、両手首の感覚が無くなって、両足首から血が滲む。悔しくて、頭に血が上って、だけど言い返す気力もなかった日々。


 要領のいい奴隷仲間が別のご主人様に渡されていった時、泣きながら嫌がっている姿を見た時、俺の気持ちは確かに軽くなったんだ。

 

 あの頃抱いた感情と星衣の感情が近いなら、俺はコイツに共感できるのだろうか。分からない。お前に鎖はないんだから、自由にしたらいいじゃないかって思う俺もいるからだろう。

 

 星衣には星衣にしか見えない鎖があるのだろうか。俺が、切れた鎖を今でも思い出すように。

 

 ダメだな、こういう小難しいことはやっぱりミオの方が得意だ。俺ではダメだ。答えが分からない。導けない。

 

「星衣は……幸せになりてぇのか?」

 

「そうじゃない。ただ、姉ちゃんに不幸になって欲しい」

 

「姉ちゃんが不幸せになったら、星衣は幸せになるんじゃねぇの」

 

「人を呪わば穴二つって言葉、知らない?」

 

「知らねぇ」

 

「……誰かを呪って、自分が幸せになるわけないんだよ。俺は姉ちゃんに、俺の気持ちを分からせたい。俺と同じ気持ちになればいい。だから悪魔を頼ったんだ」

 

 星衣は感情の抜けた顔で涙を流し続ける。細い雫の線が目と顎を繋いで、瞼の縁は赤い。濡れた掌は力なく投げ出されていた。


 俺は足りない頭で考える。どうすればこの状況を解決して、ミオの所に戻れるか。

 

「悪魔を頼るつもりだったのに俺を連れて来るなんて、間違ってるな」

 

「ほんと、間違えた。それについてはごめん。でも、何もできないならニゴだって来てくれなくてよかったんだよ」

 

「俺は、勝手に、呼ばれたんだ」

 

 まるで俺に選択権があったような言い方だが、こちらにそんなものはなかった。俺は被害者だろ。悪魔を呼ぼうとして俺を呼ぶなんて大失敗でしかない。

 いや、悪魔を呼べなかったのは星衣の願い的には良いことなんだろうな。誰かを呪う代償は大きすぎる。

 

「悪魔を呼んだところで、お前の気が晴れるとは思わないぞ」

 

「……分からないじゃん。姉ちゃんが不幸になるなら、今よりマシだって思えるかもしれないんだから」

 

「誰かの不幸を見てマシだなんて、思いだしたら終わりだ」

 

「なんだよ、さっきから、説教ばっかり」

 

「……事実を言ってるだけだ」

 

 喉を摩って、無くなった鎖の重さを思い出す。

 

 俺と一緒に仕事をして、俺より遅くてご主人様に怒られていた奴。そういう奴は何人もいて、震える俺は思っていたんだ。俺じゃない。怒られているのは俺じゃない。俺は悪くない。俺は今、殴られてるアイツよりはいい子なんだ、って。

 

 最低だって分かってる。それでも俺は殴られたくないし、怒られたくなかった。痛いのが嫌いだった。怖かった。怖くて堪らないから、他の誰かが俺の嫌いなことをされてても目を閉じたんだ。

 

 繋がれていても、罵られても、殴られていない俺はマシだって言い聞かせた。俺より痛くて怖い思いしてる奴がいるから、俺はまだ大丈夫、なんて。

 

 星衣は殴られたことがないんだろう。鎖で繋がれたことも、どれだけ謝っても拳が飛んでくることなんてないんだろう。澪と似た服を着ているから、この世界はきっと平和なんだ。少なくとも、星衣の周りには姉ちゃん以外の障害が少ないんだ。

 

「星衣は自分の全部が嫌いか? 何一つ良いことなんて無いのか? 全部面白くなくて、それは姉ちゃんが不幸になれば解決するのか?」

 

「ッ、そうだって言ったら、ニゴがどうにかしてくれるの」

 

「俺に誰かを呪う力はないって言ってるだろ」

 

「もう……」

 

 頭を掻く星衣は深い息を吐く。俺は両手の関節を鳴らし、不幸志願者を見下ろした。

 

「でも、傷つけることはできるぞ」

 

 喉が鳴る。


 俺のではない。星衣の喉だ。

 

 見開かれた両目が俺を凝視する。俺はもう一度手の関節を鳴らして、閉め切られたカーテンを開けた。


 俺が知らない街並みが広がる。俺の世界とは違う景色だ。ここに澪はいるのだろうか。ここは一瞬だけ来た世界と同じ匂いがするのだが。

 

「傷つける、て」

 

「お前は、相手の不幸を望んだな」

 

 星衣が顔色を悪くする。俺は窓の鍵を開けて、足りない頭を働かせ続けた。

 

「だから、半殺しにしよう」

 

「ぇ、」

 

「星衣の心についた傷を同じように姉ちゃんにつける方法、俺はやっぱり分かんねぇし、できる気もしねぇ。だから姉ちゃんの体を傷つける」

 

「そ、そんな、そんなの違うだろ!」

 

「違わねぇよ。体の傷は一生残る。見るたびに痛かった時を思い出す。目に見える分、痛むんだ」

 

「ニゴ、何、ちょ、聞いて、っ」

 

「傷つけられるのって、痛いよな」

 

 開けた窓から風が吹き込む。俺のローブの裾が遊ばれて、星衣は目を丸くしていた。

 

「俺は俺の世界に帰りたい。帰るには、どうすればいいんだろうな。お前の願いを叶えたらいいのかな。確証はねぇな、俺は馬鹿だから。でもそれが今は手っ取り早そうだから、星衣の望みを叶えてみることにする」

 

 姉を半殺しにしても帰れなかったら、また別の方法を考えよう。

 

 口を閉じられない星衣と距離を詰める。襟口から香った匂いを頭に刻み付けて、俺は窓から飛び降りた。

 

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