ライナスの画廊

 

 しばらく歩くと、展示物はなくなってしまった。闇がずっと続いている。メリーアンは恐れずにこの先を歩いて行くべきなのだろうと思った。しかし不意に、どこからか足音が聞こえてくる。


「あれ?」


 ふと横を見ると、壁に古びたドアがあった。ドアにはメリーアンの時と同じように、金色のプレートがつけられている。プレートにはこう書かれていた。


〝ライナス・オルトの画廊〟


「……? 別の人の、扉?」


 メリーアンの時とは違い、博物館ではなく、画廊となっていた。

 耳をすますと、ドアの向こうから足音が聞こえてくる。


「誰かいる……」


 メリーアンは思わず、ドアノブに手をかけていた。

 ドアを開けると、眩しい白い光が溢れてくる。メリーアンは思わず目を細め、ドアの向こうを見つめた。


「画廊……。これは……誰か別の人の、人生ってこと?」


 メリーアンの前にあったのは、白い部屋と、部屋のあちこちに飾られた絵だった。人の人生を勝手に覗いていいものかと思いつつも、メリーアンは思わずかけられていた絵を見てしまった。

 絵の中では、女性がこちらに視線を向けて、幸せそうに微笑んでいた。

 メリーアンはその絵の中の人物にひどく見覚えがあるような気がして、眉を寄せた。


(そうだ、この人は、確か……)


 しばらく考えて、ハッとする。確かめるために他の絵も見てみる。


(やっぱり。どうしてこの人が、ここに?)


 メリーアンが見ていた絵には、先程の女性と、見覚えのある男性が、見つめあって穏やかに微笑んでいた。じっと絵を見つめていると、不意に足音が聞こえてくる。


(誰かいる)


足音が聞こえてきた方に向かって、メリーアンは思わず歩き出していた。


     *


 大きな一枚の絵画を、男性が見上げていた。

 メリーアンはその男性にゆっくりと近づいて、声をかけた。


「ライナスさん?」


 男性……ライナスは、ゆっくりとメリーアンを見た。その顔に驚いた表情が浮かぶ。


「君は……メリーアンさん?」


 呆然とした顔でメリーアンを見たのは、妻と子を亡くし、クロノアの神殿でメリーアンと一緒に暮らしていた、ライナスだった。


「どうして君がこんなところに?」


「それはこっちのセリフよ」


(だってここは……死者が死ぬ前に来る場所じゃない)


 メリーアンが眉を寄せていると、ライナスは困ったように言った。


「……最近、毎夜、ここへ来るんだ。妻の絵をずっと眺めている。朝になるとすっかり忘れてしまうんだがね」


「毎夜……」


 ライナスは疲れた顔で、絵を見上げていた。絵は女性の……妻の花嫁姿なのだろう。白いウェディングドレス姿が眩しく、メリーアンは思わず目を細めた。


(この人は、本当に奥さんが大好きだったのね)


 メリーアンはライナスの深い愛に、泣きそうになった。ライナスと、その妻と子どものおかげで、今回のミアズマの件が発覚したのだ。メリーアンは、ライナスに深い恩を感じていたし、深い悲しみを持つ者同士、どこか仲間意識も持っていた。


「……この画廊には過去の絵しかない。それがとても残念だ。嘘でもいいから、家族の肖像を見たかった」


「……過去しかないのは、ここが……私たちの人生を振り返らせる場所だから?」


メリーアンがそう尋ねると、ライナスは少し沈黙した後、メリーアンの目を見て尋ねた。


「死者への贈り物って知っているかい?」


 メリーアンが首を横に振ると、ライナスは絵を見上げて言った。


「クロノアは、クロノアの信徒が死ぬ前に、過去を振り返る時間を与えてくださるのだという」


「過去を振り返る時間……」


 過去をどのように振り返るのかは、その人によって違う。けれど自分の過去をもう一度見られるのは、同じなのだという。


「この画廊は、そういう場所なんじゃないかと思う。私は、深い悲しみの中でクロノアに縋っていた。いつの間にか、信仰心が生まれていたのかもしれない。君もそうなのかもしれないな」


 辛くて心が折れそうになった時、メリーアンは心の中にいる神に縋って、耐えてきた。クロノアの教えに何度も救われた。クロノアは、メリーアンの心の中にいる。その教えをもっと知りたいとも思う。それが信仰心を持つということなら、メリーアンは確かに、クロノアの信徒なのかもしれない。


「でもどうして君が? ここは私の過去のはずで……」


「……私は、博物館だったわ。展示物を見る形で、自分の過去を振り返っていたの。でもいつの間にか、展示室がこの部屋に繋がっていたみたい」


 そう言うと、ライナスの顔に驚きと悲しみが広がった。


「ちょっと待ってくれ。それじゃあ君は……」


「……そうなんだと思う。とても助かるような状況ではなかったから」


「嘘だ。君みたいな若くて聡明な人が……!」


 震える声に、メリーアンは申し訳なく思った。

 ライナスは大切な人たちの死を受け入れ、乗り越えようとしている。それなのに、知人程度とはいえ、またしても彼の身の回りで死者を出してしまうとは。死は強烈な悲しみを伴う。人伝で聞いた見ず知らずの人の死でさえ、自身の心に影響を与えるのだ。


「……悲しませてしまってごめんなさい。でも私は、自分の死に納得しているわ」


 あの状況では、こうする他なかった。大切な人たちを守るための決断だった。


(だけど……)


 メリーアンは思う。メリーアンは自分の人生に納得している。けれど、生きられるなら、もっと生きたかったと。未来を想像するとき、メリーアンが思い浮かべるのは、もうユリウスの顔ではない。魔法史博物館と、そこで出会った人々の顔だった。

 どんなに悲しいことがあっても、その先も絶望だけの人生が続くわけではない。

 たった一つの喜びを得られるなら、きっと生きている意味はあると思うから。


「お願い、自分で命を絶たないでください」


「!」


 メリーアンがそう告げると、ライナスは目を見開いて息を呑んだ。


(……ライナスさんは毎夜ここへ来ていると言った。でも、まだ死んではいない。この人は本気で死ぬつもりなんだ)


 メリーアンは気づいていた。ライナスの画廊は、まだ先がある。先にはすでに、絵を飾るための額縁が置かれていた。メリーアンと違って、未来に可能性があるのだ。それをこの人は、自分で絶とうとしている。


「わかってます。私があなたにできることは何もないと。あなたの心は、私では救えない。生きてほしいなんて、他人の私が言えるようなことじゃないって」


 でも、とメリーアンは続ける。


「死んじゃったから分かるの。私、もう何も無くなってしまう。喜びも、悲しみも……。痛みや苦しみが無くなるのなら、死は救済だわ。でも、体が健康なら、まだ歩ける。歩けるなら、その先でまた、幸せなことに出会えるかもしれない。私はもっと、そういうものに出会ってから死んでもいいような気がします。せっかく生まれてきたんだし」


 私ってケチなのかな? とメリーアンは笑った。


「悲しみと一緒に生きながら見る景色は、みんなとは違うかもしれないけど……私はその景色も、見てみたかった。死ぬ前の、最後のお願い……なんて、ちょっと卑怯ね」


 眉を寄せて微笑みながらそう言うと、ライナスはメリーアンの肩を掴んで言った。


「君は、生きるべきだ。君のような若い人が、生きるべきなんだ!」


「その理論で行くなら、あなたも生きなきゃ。だってあなたもまだ、十分若いように見えますから」


「!」


 そう言われて、ライナスは初めて気づいた、というような顔をした。心労でやつれてはいるが、それでも彼はまだ二十代後半程度だろう。メリーアンもライナスも、十分に若いのだ。


「私は自分の信念のもと、ここへ来ました。寂しくはあるけど、後悔はしていないわ」


「私は……私は、メリーアンさん、君に、生きていてほしい。強くそう思う」


「私もよ。どうか私が命をかけて守った未来の中に、あなたはいて欲しい」


 そう言った後、メリーアンはふと気づいた。

 命懸けでアストリアを守ってくれている人々、そしてエドワード。彼らが守った未来に、自分がいたのだと。


(私は……)


 鼻がツンとした。エドワードのことを考えると、なぜか落ち着いていた心が、強く揺らいだ。死にたくないと、彼ともう一度話したいと、そんなことを思ってしまう。

 少し泣きそうになっていると、唐突に地面が揺れ始めた。


「! 何これ、地面が……!」


「……夢が終わる。目が覚める時は、いつもこうなんだ」


 そのうち、ガラガラと音をたてて、画廊の地面が崩れ始めた。

 メリーアンたちの足元も崩れ、二人は暗闇に放り出される。暗闇に落ちていくライナスが、叫んだ。


「時間は、一方向じゃない。ここは夢だ。君と私が同じ時間を歩いているとは限らない! まだ何かできることがあるはずだ!」


「……さよなら。もし起きて覚えてたら、魔法史博物館の夜間警備員のみんなに伝えて。すごく楽しかったって! 出会えて、本当によかった!」


 涙が宙へ浮かんでは消えていく。

 メリーアンは暗闇の中を、どこまでも落ちていった。

 

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