メリーアンの博物館②
「あ……」
展示物を見ながらゆっくりと歩いていると、痛々しい展示物が唐突に終わった。メリーアンの目の前にある展示台には、木綿のハンカチが置かれている。
「これ、ユリウスの……」
この空間へ来てから、ずっと静かだったメリーアンの心に、初めて強い感情が生まれた。
ここから先の展示物は、メリーアンがクロムウェル家に引き取られてからの物になるのだろう。
ハンカチは、クロムウェル家に引き取られてからずっと泣いていたメリーアンに、初めてユリウスがくれた物だった。懐かしさと愛おしさ、そしてやはり裏切られた悲しさが、メリーアンの心に溢れる。なんと表現していいか分からない気持ちだった。
「……」
ここから先は、ユリウスとの思い出だらけだ。
(ユリウスは、私を裏切った。ユリウスなんて嫌い。でも思い出は、こんなにユリウスだらけなのね)
メリーアンの人生の大半は、クロムウェル領で過ごして来たのだから、当たり前だ。
だからこそこの先に進むことは、少し勇気が必要だった。心にあるのは、ユリウスへの怒りと悲しみ。裏切られた人との思い出に、一体なんの価値があるというのか。
ここから先にあるものは、全て無意味な物なのかもしれない。
──私の人生は、一体なんだったのだろう。
ぽつりとそんな言葉が心に浮かんだ。
メリーアンは少しずつ、この博物館がなんなのかを理解してきた。
(この場所は、きっと……)
先へ進むのは、少し怖い。
それでも何かに導かれるように、メリーアンは歩みを進める。
少し緊張していたメリーアンだったが、不意に甘い匂いが鼻について、驚いた。焼きたての、バターの香り。ほっとするような香りだ。一体何かと思って匂いを辿れば、それは展示台の上にあった、バスケットの中から香っているようだった。思わず中を覗き込む。
「……クッキー?」
中に入っていたのは、幼児が捏ねた粘土のような、下手くそな形をしたクッキーだった。一体何の形をしているのかとよく見てみれば、それは人の顔のようだった。女の子の顔や、少し怒った男の顔。そう分かった瞬間、メリーアンの脳裏に、幼き日のユリウスの笑顔が浮かんだ。
「ユリウスと作ったクッキー……」
落ち込むメリーアンのために、ユリウスが一緒に作ろうと誘ってくれた。
「……」
メリーアンの心に、あたたかい感情が溢れ出した。
その感情が、メリーアンの足を進める原動力になる。
誕生日プレゼントにくれたネックレス。
お揃いの制服。
木を削って作った、子どもの婚約指輪。
「……ふふ、懐かしい。指から抜けなくなっちゃって、大騒ぎしたっけ」
石鹸を使ってなんとか外したことを思い出して、メリーアンは吹き出した。
思っていたよりもずっと、クロムウェル領での毎日は楽しかった。もちろん悲しいこともあった。メリーアンの家族が命を落としたのと同じように、クロムウェル夫妻や、領民たちも、命を落としてしまった。その度に弔花でリースを作って、墓に飾った。
厳しい暮らしの中で、だからこそメリーアンは知ったのだ。大切な人と一緒に過ごせることの素晴らしさを。何気ない朝が始まることの喜びを。
展示物を見ながらゆっくりと歩いていると、壁に大きな絵がかかっているのを見つけた。メリーアンは大きな絵の前に立つ。
光に照らされたその絵は、クロムウェル夫妻に挟まれ、満面の笑みを浮かべるメリーアンとユリウスがいた。
(絵のタイトルは……)
〝幸福な時間〟
絵を見上げていたメリーアンの瞳から、涙がぽろりとこぼれ落ちた。
そうか。そうか。やっと気づいた。
メリーアンの耳に、エドワードの言葉が蘇った。
──好きも嫌いもねェよ。あるものを、あるがままに展示する。そして人は歴史を受け入れるだけだ。
博物館の使命は、事実をねじ曲げず、歴史を正しく開示する。そして事実を正しく伝え続けること。それがこの博物館にも適用されるとするならば。
メリーアンがユリウスと駆けた時間は、本物だった。
たとえ裏切られても、大っ嫌いになっても、許せなくても。
それまで感じていたメリーアンの気持ちは、偽物ではなく、本物だったのだ。
メリーアンの人生はなんだったのか。とても簡単な問いである。
──私の人生は、幸せだった。ユリウス、あなたと一緒に過ごした時間は、本当に、本当に、幸福だった。私にもう一度立ち上がる力をくれて、本当にありがとう……。
裏切られたからといって、メリーアンの過去が全て台無しになるわけではない。そしてそれは未来もだ。道は別れてしまったけれど、メリーアンにはメリーアンの、ユリウスにはユリウスの道が続いている。そしてその先に続く景色は、悪いものと決まったわけではない。
メリーアンはようやく、心の奥底から、ユリウスとの決別を理解した。悲しみは消えることはないし、正直許せない。幸せになってほしいとも思えない。でも、もういい。メリーアンはこの悲しみと共に、別の道を歩いていきたいと思った。
しかしもう、メリーアンは気づいている。
「私、死んじゃったのね」
メリーアンは死か、またはそれに近しい状態に自分があることに気づいていた。展示室のずっと向こうには、闇が続いていた。これ以上、展示するものがないからなのだろう。そしてきっと、この博物館には死が近い人しか来られないということが、メリーアンには理解できていた。
「死んでから気づくなんて、もったいないわ」
けれどメリーアンには、満足感もあった。
メリーアンが感じた幸せや、喜びは、本物だったこと。
偽物なんかじゃない。真実だったこと。
博物館はあるものをあるがままに展示する。その事実を消してねじ曲げずに。
メリーアンの
とても短かったけれど、メリーアンは自分の博物館を気に入っていた。
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