4.リフェーリアの怒り……それは神獣フェンリルの誇りに関わる

 リフェーリアが毛を逆立てて烈火の如く怒り、胸倉を掴む手にも爪が立っちまってるから、俺が着ている安物の生成りの麻シャツには簡単に穴が開いた。

 下手すりゃ胸板には親指の爪が刺さっちまってるかもしれねえな……痛えし……


「おい、落ち着けって」

「侮辱されて落ち着いていられるかっ!」


 座ったままの俺と、大体同じ高さにある彼女の目には涙が浮かび、牙を露わに歯を食いしばっている。


「アタシの……アタシのっ……誇りっ……」


 ◆◆◆リフェーリア


 ギグス……お前は良い奴だ。

 アルゴンに下界に堕とされ――殺されかけて、死にかけのアタシを助けてくれたし、これから生きて……暮らしていくための道を教えてもくれた……


 ――だけど!


 フェンリルにとって、体を覆っている毛に染み込んだ匂いや色は……それまで生を積み重ねてきた証と言える。

 だからアタシらの種族は、自分の姿を! 色を! ニオイを! 胸を張って堂々と晒すのだ。

 このことはアタシの本能に刻み込まれているんだ! 


 それに……アタシの頭ん中に残っている一番古く、そして唯一の温かい記憶――生まれたてで、まだ目も開かない赤子のアタシの耳に残っている母様かあさまの声……


『貴女にリフェーリアという名を与えます。ああ、貴女のこの純銀に輝く身体には、どんな色、どんな匂いが付くのでしょう? 母は楽しみだ……』


 そして、アタシには……その言葉と共に、母様が舌で付けてくれた初めての匂いがあるんだっ!

 それを落とせだと?

 冗談じゃない!


 ◆◆◆


「アタシには母様の匂いが付いているんだ! それを……お前はっ」


 リフェーリアの俺を掴む手に力が入り、顔を近づけてきつく睨んでくる。


「――お前は、アタシの誇りと、大切な母様との思い出を消し去れというのかぁっ!」

「リフェーリア……」


 俺は、涙を浮かべながら怒りに震えるリフェーリアの――俺の胸倉を締め上げている――手を、両手で固く包みこんで目を合わせて答えてやろう。


「俺は、リフェーリアの出自はもちろん、詳しい種族すら知らねえけどよ。長いこと冒険者をやってるし、仲間にもいたから狼を祖とする獣人がそういった信念を持ってるってことは知ってるよ……」


 彼女の手を包んだまま、俺の胸倉から手を離してやる。目も逸らさない。


「けどよぉ……おめえはそれでいいのか?」

「なんだと?」

それ・・は……今のお前の毛に染み付いたニオイは、『かくかくしかじか、こういう人生を歩んで来た』って母親に誇れるニオイなのか? 胸張って言えんのか?」


 俺の言葉に、リフェーリアは「ぐぅ」と呻くと共に、一瞬目を泳がせた。


「そっ、それでも母様との……」

「――思い出はニオイでしか残らねえってのか?」

「それは……」


 俺は間髪入れずに、でも押しつけがましくならねえ程度に、圧を抑えて諭すように続ける。


「思い出ってのは、お前の頭ん中に残るもんだ。ましてや大切な母親との思い出は、もうくっきり刻み込まれていて、いつまでも残るさ。永遠に。」

「永遠に……?」

「そうさ。それなのにニオイにこだわる必要ってあるか? 嫌なモノまで一緒に残すこたぁねえって」


 リフェーリアの手を包んでいた手を解き彼女の両肩に乗せて「な?」と説く。

 その幼子おさなごは俯いて、だらんと垂らした手に握り拳を作ったまま考え込む。


 どれくらいの時間が経っただろう。五分くらいか。

 その間も、俺は立ち上がらず、彼女と同じ目線を保って待つ。


 何回目かの林からの風が俺達を撫でて行ったその時――


「ギグス……お前の言う通りだ。母様のお声やニオイはアタシの頭に、心に、深く刻まれている。その後の辛い思いなんて、誰にも誇れるようなものではない。アタシにはこれっぽちも要らないモノだ!」


 そう言うリフェーリアの表情は、さっきまでとは打って変わって憑き物が取れたように穏やかだ。


「そうだ。よく言った! これから生きてくのに、辛いモンまで背負って生きてく必要なんざねぇんだ」


 リフェーリアが前向きな事を言ったのが嬉しくて、おもわず頭を撫でてしまった。

 だが、彼女も満更でも無さそうにはにかんでいる。


「そ、それで……」

「ん?」

「どうやれば……どうやって落とせばいい?」

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