【BL】オランジュの恋

日灯

第1話 鮮烈な瞳はサファイア

 一面の花吹雪に圧倒され、ケイトは足を止めた。初々しい花の香りが仄かに漂っている。白い花弁を降らせる木々はあちらこちらに佇んでおり、遠くの方は淡くかすんで見えた。

 この先に、学問所の寮がある。

 道らしき道は見当たらない。どちらを向いても白い花弁がチラチラ視界をさえぎって、覚束おぼつかない感覚になってくる。


 ザザ、ザ


 不意に吹き抜けた一陣の風が激しく花弁を舞い上げた。

 ケイトの柔らかな橙髪も、容赦なく巻き上げられる。ケイトは咄嗟とっさに目を瞑り、顔の前に手をかざした。

 手の平にパラパラ当たっていた花弁も落ち着いて、静けさが戻る。

 肩の力を抜いて手を下ろし、ケイトはゆっくりと目蓋を上げた。


 ――誰かいる。


 降りしきる花弁の向こうに見つけた彼は、呼ばれたかのように振り返った。

 ウグイス色の髪を揺らしてケイトを捉えた次の瞬間、ずんずん歩いてやって来る。

 驚きに見開かれた目。濃い色の瞳が光を反射し、サファイアのように煌めいた。

 一度見たら脳裏に焼き付きそうな端正な顔立ちだ。強い感情を宿した切れ長の目がケイトを捉えて離さない。

 湧き上がる疑問。

 動けないでいるうちに、手が届きそうな距離に彼がいた。それでも足を止める様子がないので焦る。


「ちょ、」


 パーソナルスペースに踏み込まれては後退し、また踏み込まれては後退する。

 ついにかかとが樹木の根に当たり、ケイトは体勢を崩して後ろにかしいだ。


「っ」


 パッと伸びた手に腕を掴まれ、引き寄せられる。「あ」と思ったときには彼の腕の中にいた。


「ケイ……!」


 耳許で聞こえた感極まった声に身体が震える。


「な、で?」


 彼は奇跡の再会を果たしたような感動を身にまとっている。しかしケイトには、思い当たる相手はいなかった。

 困惑する頭で必死に記憶を辿ってみたが、やっぱり彼が分からない。

 名残惜しそうに腕が離れて見詰め合う。

 彼は微かに眉根を寄せてケイトを見下ろし、苦しそうに紡いだ。


「覚えてない?」


 その眼差しが、掠れた声が、切実な想いを訴える。口を開こうとすると、睫毛が震えた。

 ケイトは硬直した首をなんとか動かし、相手に応じようとする。美しい瞳が曇ってしまうのが怖かった。


「……いきなりごめん」

「いや、」


 彼の顔を直視できない。

 長い足がゆっくり遠ざかり、白い花弁の向こうに消える。ケイトは震える息を吐き出して、痛む胸に手をやった。

  

   ◇◆◇

   

 おとぎ話に出てきそうな真鍮製しんちゅうせいの鍵を管理人から受け取って、正面の階段へ足を進ませる。白い花弁の舞い散る中をぼぅっと歩いていたはずが、いつの間にか寮に辿り着いていた。

 靴音を呑み込む深青の絨毯。踊り場の窓から早春の爽やかな風が吹き抜ける。レースのほどこされた白いカーテンが、優しく揺れていた。


 ふはっ

 はははっ


 ふと耳に届いた軽やかな笑い声に誘われ、ケイトは止まりかけていた足を動かした。

 両側にドアが並ぶ廊下は、昼間も落ち着いた明るさだ。

 部屋と部屋の間に所々設けられた、ちょっとしたスペースのおかげかもしれない。そこには本棚があったり、丸テーブルや椅子が置かれていたりする。そして、その向こう、正面の壁には、必ず窓があった。

 親しげな様子で通り過ぎていく二人組の学生を尻目に、ケイトは部屋を探す。


 ――ここ、だな。


 鍵に小さく彫られた部屋番号に目を落とし、最後の確認をした。

 そうして、いざ、鍵穴へ。

 二人部屋と聞いているが、このドアは閉めるたび勝手に鍵が掛かる仕様らしいので、先にルームメイトが来ていようが関係ない。

 鍵は鍵穴にすんなり入って柔らかな抵抗を受けながら回り、カチャリと鳴った。

 頭の片隅でルームメイトより先に到着したことを祈りつつ、ドアを開く。

 ふっと頬を撫でる風。

 軌跡を辿るように目をやれば、奥の窓辺に見覚えのある人物が佇んでいた。


「さっきの……」


 振り返った彼が目を丸くする。驚き、喜び、悲しみ――?

 複雑に揺れる感情を感じたのは一瞬のこと。目蓋を閉じて息を吐いた彼と再び目が合ったとき、あの煌めきはどこにもなかった。


「オランジュ・ケイト」


 小さく肩を落としたケイトは、初対面らしく名乗って眉を上げる。

 彼は感情を見事に隠した瞳に睫毛の影を落として応じた。


「……ジュリオン」

「ジュリオン」


 ケイトは彼の名を小さく繰り返し、舌に馴染みのないことを確認する。


「アヲイ・ジュリオン」


 握手を求めて上げかけた手がピタリと止まった。

 アヲイ家は駄目だ。

 あの家の者と親しくなると碌なことがない。アヲイ家には関わるな。


 ――ケイト、わかったな。


 それはいつか、父に言われた言葉だ。オランジュ家とアヲイ家は、不仲で有名なのである。

 ケイトはすっと手を下ろし、後退する。

 諦めたように社交辞令の微笑を浮かべるジュリオンに背を向けて、急いで部屋の外へ出た。閉じたドアに寄り掛かり、ズルズルとしゃがみこむ。


「なんなんだよ」


 花吹雪の中で見た、サファイアのような瞳の煌めき。ケイトに合わせて初対面をよそおう姿は痛々しかった。

 はっきりしているのは、アヲイ・ジュリオンが、ケイトのルームメイトということだ。

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