燃え尽きるまで
万乃桜侍
燃え尽きるまで
***
私は、昔から幸せが怖かった。幸せになれば、必ず不幸になるから。そうして幸せを拒み続けた私の人生は今までも、これからも、ずっと灰色である。
私は人よりも恵まれた環境に産まれ、幸せを感じる機会はとても多かった。沢山の愛を受けて生きて来たし、それは辛いことをたくさん経験してきたからこそ体感し得たことだった。人は幸せであった方がいい。それが分かっていてもなお、私は幸せが怖かった。
私は昔、幸せが好きだった。恵まれているということを実感できたし、何より心地が良かったから。しかし、幸せになれば、後に必ず燃え尽きたような感覚に襲われる。私はそれが怖かった。
“虚無”
この感情はきっとそう呼んで間違いないと思う。
私の目の前に現れた虚無は、決して私を逃がさず、そうして私を呑み込み、幸せを蝕む。
私は、そんな虚無に襲われるのがどうしようもなく怖くて、どんどん幸せを恐れるようになった。
私はそれに抗わなかったわけではない。虚無を追い払おうと躍起になった時期もある。
でも、その方法を探してとあるサイトに辿り着いた時、私は、諦めるための言葉を見つけてしまった。私はその言葉を知ったあの日から、虚無を拒まず、幸せから逃げるようになった。
『幸せの後に虚無感が来ることを“燃尽状態”と言います』
“焼尽状態”どうやら、幸せから虚無に移り変わる様子を、烈火の炎が灰になる、“燃え尽きる”様子に例えたようだ。
あのサイトの名前は忘れてしまったし、この一節を見て納得してしまったから、前後の文も覚えていないけれど、この一言が、私の中の答えだった。
私はこの言葉を知った時、私こそこの言葉に相応しい人間だと思った。
私の幸せは燃えるのだ。その感情が起これば起こるほど、燃え尽きた後の灰は山のように積もってしまう。
燃えては消え、消えては燃え、そうして人生を歩んできた私は、最早幸せの形など覚えていない。
私の幸せは灰になって消えた。そう思えてしまうほど、私はこの年になるまで何度も燃え尽きてきたのだ。
どんなに足掻いても幸せの後はどこか心が消費された感覚で、どれだけ火を追加しようとも灰だけが心に残っていくのが却って苦しかった。
———幸せを燃やさない方法を知らない私は、幸せになることを諦めなければ、この虚無から逃げることが出来ない———
私は、恋への依存と別れ、夢への執着も諦めて、ただ社会の歯車の一部となることを決意した。
私がこれを決意したのが高校二年生の時、今日はその日から丁度三年目だ。
特に大して祝うものでもないから、私はいつものようにバイトに勤しんでいる。
幸せを許されない私に残されたのは燃え尽きた後の灰だけ。
虚無が来ない程度の感情を起伏させながら、私は今日も歯車たちのレジを打った。
***
バイトが終わり、私は帰路に就いた。こんな私が希死念慮を抱かずにいられるのは、私を虚無から守ってくれる趣味があるからだ。
趣味というのはまだ学生である私にとってとても都合のいいもので、一種の使命感を感じながら進めることが出来る。
趣味だけは、私を燃え上がらせることも、私を灰にすることもなかったのだ。
使命感の下で完成する作品の数々は私の中に虚無を産まず、ただひと時の些細な満足感を与えてくれる。幸せを許されない私にとって、趣味の数々は私の生きる理由に等しかった。
私は大変図々しい人間で、死を目の前にすると、どうしても生きていたいと考えてしまう。
私のような夢もないガラクタ程度の人間は早々に死んでしまった方がいいのだろうけれど、生憎、私はそれを許してくれる社会には属せなかった。
どうしても生きなければならなかった私は、希死念慮を抱かない程度の十分な生きる理由を欲した。そうでなければすぐにでも死んでやりたいと思ってしまうからだ。
私は生きる理由である趣味に没頭し、またその趣味を増やした。絵を描いたり、小説を書いたり、それを自分で朗読したり。
自分で作った自分だけのための作品が、私にとってはとても愛おしかった。
私の趣味はデジタルを媒体としていたから、容量の問題もあって、ネットの隅でひっそりと趣味を公開する、私の居場所を作っていた。
そんな場所を作ってしまったものだから、そこで得られる閲覧数も当たり前のように私の生きる理由となった。もちろんそれがまずいことは分かっている。趣味が閲覧数の為の消費になることは目に見えているのだ。
それでも私は投稿を止めなかった。趣味が消費されてしまわないように気を付けていたし、もしそうなれば投稿を止めてしまえばいいだけの話だ。
ネット上の関係は軽薄。切ろうと思えば簡単に切れてしまう。だからこそ、手軽に続けることが出来る。だから、このままネットに浸っていても大丈夫。そう思っていた。
ある日、私が大学の食堂で昼食を取っていると、こんなメッセージが届いた。
『初めてご連絡させていただきます。いつも叶絶さんの作品、楽しませていただいています。僭越ながら、この度は叶絶さんにお願いがありご連絡させていただきました。もしよろしければ、私の詩にイラストを書いていただけませんか?報酬は用意させていただきます。ご検討のほど、よろしくお願いします』
最近一番にいいねをくれる“羊”さんからの依頼だった。
このメッセージの下には“報酬一万”の文字があり、電子決済アプリを仲介した報酬の受け渡し方が書いてあった。
私は、この話は悪くないと思った。自分の趣味がお金になることはいいことだし、自分を好いてくれている人間からこうした依頼が来ることはとてもうれしいことだったからだ。
私はすぐに良い返事を送り、羊さんの詩を受け取った。私はこの作品を書けることを心の底から喜んだ。
メッセージから一週間、私は無事に作品を納品した。作品は絶賛され、無事に報酬も受けとった。
この日、私はある種の興奮を覚えた。これはまごうことなき幸せだ。それなのに、この幸せに虚無は現れず、私が灯した炎も燃えたままだった。
自分の生きる理由が人に認められた。私にとってそれはとてもうれしいことだった。生きていることが認められたに等しかったし、いつか諦めた夢が叶ったような気分だった。
私は有頂天のまま、その気持ちを絵に描いた。場所も考えず、夢中で筆を走らせた。しかし、やはりそれはまずかった。
「ねぇ、君。確か同じ学科の逢坂さんだよね」
ここは大学、あと十分で授業の始まる教室だ。今まで外に持ち出したことのなかった趣味が、同級生にバレてしまった。
私は息を呑んだ。何を言われるか分からない。もしかしたら、私の幸せを壊しに来た虚無は、この人なのかもしれない。あの日消えなかった私の炎は、その勢いのあまりついに趣味に燃え移ってしまった。
私は手が震えるのを必死に抑えながら、同級生の言葉を待った。
「その絵、めっちゃいいね!アタシ、桜井響!逢坂さん、下の名前なんだっけ?」
予想外の言葉に驚いた。名前も知らなかった同級生から、自分の絵を褒められたのだ。
私はしばらく呆然としていたが、ハッとして桜井さんの質問に答えた。
「えと……叶信、です」
桜井さんはなるほど、と頷き、少し考えた後また口を開いた。
「かなたって、どんな文字を書くの?」
目をキラキラさせて私を見つめる桜井さん。私は、私の嫌いな名前を桜井さんに説明した。
「叶う、に、信じる、です。“信”を訓読みした『ただ』を無理やり『た』って読んで『かなた』」
私がスラスラと説明をしていると、桜井さんはキラキラさせていた目を一層キラキラさせてこちらを見つめた。
「めっちゃいいじゃん!アタシなんて単純に『響』だよ」
自分の名前にガッカリだという様子の桜井さん。私は、桜井さんに、そんなふうに思って欲しくなかった。彼女の名前は綺麗だし、何より私を認めてくれた人だったから。
だから、私は前に小説で使った一節を桜井さんの励ましに使うことにした。
「『響く』っていう文字は、『共鳴する』っていう意味を持っています。また、『響く』ということは、『人に伝わる』ということ。……色んな人に色んなことを伝えて、その明るさがいろんな人の心と共鳴する……とても素敵な名前だと思います」
少し早口で、照れてしまわないうちに話した。そして、自分の名前を罵った。
「私の名前なんて、字面がいいだけで、何かを叶えることを期待されている……。なにも叶えないことを許されない名前ですから……」
桜井さんは私が私の名前を罵ったのを聞いていないふりをして、私に抱きついてきた。
「めっちゃすごいじゃん!アタシ、そういうふうに言ってもらえてすごくうれしいよ!ありがとう~!」
私は今までされてこなかったスキンシップにとても驚いた。抱きつかれたらどうすればいいのかなんて、どんな本にも書かれていなかった。
「え、えと……もうすぐ授業が……」
目をグルグルさせながら、咄嗟に出たのはこれだった。
私はしまった、と思ったが、桜井さんは私の突き放したような言い方を気にも留めず、パッと私から離れた。
「確かに!じゃあまた後で話そうね、叶信!」
笑顔で席に向かう桜井さん。これが世に言う陽キャというものか、と少し感動した。
私は今まであまり人と話してこなかった。入学式からずっと、私はわざと人を避け、一人の世界に籠り続けた。バイトでもマニュアルをなぞるだけ、質問を投げかけられたら軽くパニックを起こすほどだ。
そんな私とは対照的に明るく誰にでも接する桜井さん。私は桜井さんに憧れを抱く反面、少し嫉妬した。
ああいう風に明るい人は器用な人が多い。なんでもそつなくこなしてきっといろいろな人に褒められてきたのだろう。
私は不器用で、褒められることもなく暗い人生を過ごしてきた。
桜井さんはいい関係値の同級生になる。私を褒めてくれたし、話していて悪い気はしない。でも、きっと友達になることはないだろう。私の嫉妬心が燃え尽きない限りは。
***
授業が終わり、私は帰り支度をしていた。今日はこの授業が最後だし、バイトもない日だ。早く帰って、絵を完成させようと思った。
しかし、ふとさっきの言葉が頭によぎる。“また後で話そうね”と。
私は少し嫌だと思った。きっと、自分が負い目を感じる人種とは話したくないというのが本音だ。私は手早く荷物をまとめ、一人の世界に籠るべく教室を出ようとした。
だが、
「叶信!この授業で終わり?アタシももう帰るんだけど……」
桜井さんが声を掛けてきた。私は振り返り、どう返事をしようか迷った。
嘘をついたとして、それがバレたら私の悪い噂を広められてしまうかもしれない。
出来れば話したくないけれど、きっと一緒に帰ろうということだろう。
私は期待通りの言葉を返した。
「一緒に帰りませんか?」
桜井さんは予想通り目をキラキラさせた。
「いいの!よっしゃ、そうと決まれば早く教室をでよーう!」
桜井さんは私の手を握り、教室を出て足早に階段を降りた。
駅まで徒歩二十分の道のりを、あまり言葉を交わさずに歩く。
たまに話しかけてくる桜井さんの話を、わざと続けられないように話した。
桜井さんは少ししょんぼりしながら、それでも何かを話そうと必死に話題を考えてくれた。
私はなんだか申し訳なくなったが、どうしても話したくなかった。
桜井さんのことを知れば、私が今まで培ってきたなけなしの自信を砕かれそうで怖かった。
あと少しで駅に着くだろうという時、桜井さんが沈黙に耐えかねたかのように口を開いた。
「ごめんね、あんまりお話出来なくて。つまらなかったよね」
申し訳なさそうな顔でこちらを見つめる桜井さん。
その様子を見て、私は驚いた。私はわざと会話を切っていたのに、それを私の所為にせず、あろうことか自分の所為だととらえてしまうなんて。
私はなんだか申し訳なくなってしまった。
「ううん、今までずっと一人だったから、とても楽しかったです」
私は桜井さんの好意の為に嘘をついた。この様子だと、きっと私はまた一人になるだろう。
私は別に構わないが、桜井さんの気持ちを無下にしたという事実が私を灰にしてしまいそうで、私は思ってもいないことを口にした。
「もしよければ、この後お茶でもしませんか?」
桜井さんは驚いた様子でこちらを見た。
私にお茶を誘う勇気なんてないと思っていたのだろう。実際私もそう思っていた。
でも、私は自分が燃え尽きてしまうことが怖くてたまらない。そうならないためなら、なんだってする。桜井さんの気持ちを無下にして、その罪悪感によって燃え尽きてしまうくらいなら、私は桜井さんへの嫉妬心で灰になった方がマシだ。
それなら初めからあんな話し方しなければ良かったのだが、まさか、桜井さんが私に愛想を尽かさず、話が続かなかったのが私の所為だと責めずに私に謝るなんて思っていなかったから。
桜井さんは嬉しそうに笑って頷いた。そして、近くのお店が開店しているかをスマホで調べ始めてくれた。
私はそんな桜井さんを見ながら、桜井さんの性格の良さ、育ちの良さに感心した。
何を食べてどんな環境で育てばここまで綺麗な人間になれるのだろうか。
私なら、話を切られるのに腹を立て、駅まで黙って歩いて翌日から関わらないようにする。それなのに彼女はそうしなかった。本気で私と仲良くしようとしてくれているのが伝わってきた。だからこそこんな誘いをしたのかもしれない。
もし私が桜井さんみたいになれたら、私も綺麗な人間だと思ってもらえるのだろうか。そう考えると、桜井さんのことを知りたくなってきた。
桜井さんがお店を確認してくれたので、私は桜井さんの好きな喫茶店に案内してもらった。
「ここはね、青いクリームソーダが有名で……」
桜井さんの説明を聞きながら、こんなお店があったのかと店内を見渡した。
レトロ調の落ち着いた雰囲気。ドライフラワーやステンドグラス風のランプカバーが飾られ、コーヒーのいい匂いが私の胸を満たした。
私は桜井さんにお勧めされたクリームソーダとこのお店がイチオシしているコーヒーを頼んだ。桜井さんはクリームソーダとケーキを注文していた。
それぞれの料理が出てくるまで、私たちは中学や高校の部活動や好きなバンドの話なんかをした。話すうちに、私の敬語も自然に取れた。
私は、桜井さんがどうして綺麗な人間なのかを見抜こうと懸命に話を聞いた。けど、どこをどう聞いても普通の人生の様だった。
私が桜井さんをじっと見つめると、それに気づいた桜井さんは少し首を傾げた。彼女はただでさえ顔がいいので、そんな仕草をされてしまったら、女の私でもドキッとしてしまう。
私はそのドキドキを隠すかのように桜井さんに質問をした。
「さ、桜井さんって彼氏とかいないの?ほら、性格もいいし可愛いし……」
私がどぎまぎしていると、桜井さんは少し冷たい顔をした。私の喉がひゅっと音を立てる。しかし、その冷たい顔は悲しさを孕んでおり、私が瞬きをする間に元の顔に戻ってしまった。
「彼氏は……いたことはあるけど、もう要らないかな」
苦しそうな笑顔でそう答える桜井さん、私はまだこの話には立ち入らない方がいいと思った。
「そ、そうだよね~、結局独り身の方が楽というか、さ!あ、クリームソーダ来たんじゃない?」
私はどうにか話を逸らそうとした。丁度そのタイミングで店員さんが二人分のクリームソーダと桜井さんのケーキを運んできてくれたので助かった。
私は桜井さんと別の話題で盛り上がりながら、きっと桜井さんが綺麗なのは恋愛で苦い経験をしたからなんだろうな、と思った。恋愛を諦めている私ではきっと桜井さんの様にはなれない。なんだか少し寂しい気持ちで、クリームソーダを飲んだ。
ソーダが半分減った頃、私のコーヒーが運ばれてきた。
私がコーヒーを啜ると、桜井さんが思い出したかのように私に質問をした。
「そうだ、叶信はイラスト描いてたよね。結構そういうの好きなの?」
私は少しドキッとして、どう話そうか悩んだ。私の趣味のことを全て話していいのだろうか。きっと否定はしないだろうけど、自分のスキルを自慢しているように受け取らないだろうか。
しかし、少し悩んだところでその悩みは吹き飛んだ。きっと桜井さんなら私の趣味を素直な気持ちで受け入れてくれるだろう。この前の依頼を自慢したところで嫌な顔をするような子ではないはずだ。
私はコーヒーを飲みこんで、桜井さんの質問に答えた。
「うん、イラストも描くし、小説も書くよ。この前丁度依頼をもらったんだ」
「依頼!すごいね!多趣味なの羨ましい~!」
「えへへ、個人的なご依頼だったけど、すごく嬉しかったよ」
私の予想通り、桜井さんは私を否定せず、自慢とも受け取らず、素直に受け入れてくれた。私は嬉しくなって、そのうち桜井さんのイラストを描くことを約束した。
さっきまでの空気が一転して、苦いはずのコーヒーも少し甘く感じた。
***
家に帰り、私は今日の出来事をSNSに投稿した。
友達が出来て、喫茶店に行って、自分の生きる理由を褒めて貰えた。何より、こんなに幸せなのに未だ虚無は私を襲いに来ない。
私にとってこれ以上のことはないと思ったのだ。
反応をもらえるほどのフォロワー数はないが、私は日記感覚でそれを書いたので、反応がなくたって平気だった。
私はそのまま一通りSNSを徘徊して、この気持ちが消えないうちに、と創作活動に移ろうとした。
しかし、SNSのトレンドに上がっていたとある言葉に目を奪われる。
『全国で謎の“死”』『#焼尽状態』『#空にタイマー』
一つのワードに付属してトレンドに上がる“焼尽状態”。私は思わずそのトレンドをタップした。
どうやら、全国で謎の死を遂げる人が続出しているようだ。そしてその被害者の多くが“焼尽状態”にあり、死亡する前日、SNSや自身の家族に『空にタイマーが見える』と遺していたとある。政府は『遺族や友人にはそのタイマーは見えておらず、極めて非現実的だが、他に共通点がなかったか特定を進めている』と見解を出しているらしい。
急にトレンドに上がる“焼尽状態”に原因不明の死、私は不安になった。
私の人生はこれからだというのに、もしかすると死んでしまうかもしれない。ここ数日間の幸せは、私がこの謎の死の被害者になるという予兆なのかもしれない。
私はスマホをスリープモードにし、すぐに布団に入った。不安なときは眠ってその気持ちを忘れるに限る。
創作より、今の自分の精神状態を保つことが大事だ。
大丈夫、このまま眠っても、明日起きた時はいつも通りの朝。桜井さんにも会えるし、タイマーだって見えないはず。
私は創作活動で培った想像力を今日だけは恨みながら眠りについた。
***
翌朝、私は昨日の不安をすっかり忘れて目を覚ました。空にタイマーは見えなかったし、そのことすらも忘れていた。
私は親元を離れて一人暮らしをしているからテレビを持っていなかったし、朝ご飯も必要ないと思っているので朝食を取る時間を睡眠に充てている。
急いで準備をしながらSNSのトレンドに目をやったときには、私が寝た後に放送していたイケメン俳優のドラマに関するワードがトレンドのほとんどを占めていたので、私は大学に着くまでの四十五分間で昨日抱いた不安を思い出さずに済んだのだった。
私が大学の正門を通ったとき、たまたま桜井さんが近くを通りかかった。私は声を掛けようか迷ったが、先日話をした程度の関係の人間に朝から声を掛けられるのも迷惑だろうと思い、私は気づかないふりをした。
だが、桜井さんはさすがのコミュニケーション能力で、私の方へ駆け寄ってきた。
ここで避けるのは還って失礼だし、その必要はなかったので、私は足音に気が付いたふりをして桜井さんを振り返った。
「おはよう、叶信。教室まで一緒に行こう?」
桜井さんがとびきりの笑顔で私に話しかける。一限は必修科目なので、教室が同じなのだ。
私は頷いて、桜井さんの隣を歩いた。桜井さんは、トートバッグを持っていた。パソコンや教科書などが入っているのだろうと思うと、私の持っているリュックより幾分持ち歩きづらいだろうと思った。
大学の中央にある大通りを黙って歩く。私は少し気まずかった。一限のある棟は大学構内の一番奥だし、話の話題も無かったからだ。私は桜井さんが上手く話をしてくれるのを期待した。
すると、期待通りに桜井さんが話を始めてくれた。
「そういえば、叶信ってさ、彼氏とかいるの?」
予想だにしていなかった質問に、私は戸惑う。
「えっ、か、彼氏!?」
「そう!昨日、アタシには彼氏いるのかって話をしたけど、叶信がどうなのかは教えてくれなかったじゃん」
そうか、外交的な性格の人たちの中では、会話を繋げるために質問をしたら自分についても話す手法がとられているのか。
『独り身の方が楽だ』とは言ったが、きっとあれは自分について話したうちには入っていなかったのだろう。
私は桜井さんの言動を変に解釈して、質問に答えることにした。
「そ、そういえばそうだったね!彼氏、いないよ。人と話すの苦手だし」
桜井さんは「意外だ」といった反応をして、また言葉を返した。
「じゃあ、さ。お互い変な男に狙われないようにしなくっちゃね。叶信なんて特に可愛いんだから」
私は愛想笑いをするしか出来なかった。そんなことを言われても、きっと恋愛の話を深堀するのは彼女の地雷を踏むことになるだろうと思ったからだ。
幸い、桜井さんはまた別の話を始めてくれる。私は彼女からの質問に答え、彼女に質問をし、そうして教室までの時間を潰した。
この数分間で、かなりお互いについて知ることが出来たんじゃないだろうかと思う。
教室に入ると、既に席が半分ほど埋まっていた。私の大学は大した大学ではないので、漫画やアニメで見るような大きな部屋で授業をするのではなく、高校や中学にある多目的室のような教室で授業が行われる。私は初めガッカリしたけれど、この大学なら仕方がないだろうな、と思った。
私と桜井さんが席に着くと、前から二人組の男子がこちらにやってきた。私はリュックの中で消しゴムを失くしていたので、それを懸命に探していて桜井さんのことを見ていなかった。桜井さんは私が彼女の方を見る前に「ごめん、お手洗いに行ってくるね」と席を外した。
私がようやく消しゴムを見つけ出すと、二人組の男子が目の前の席に座ったことを確認した。二人は何かをひそひそと話している様子だったが、それは私にとっては関係の無いことなので、スマホを取り出してSNSを確認することにした。
私がぼぅっとスマホを眺めていると、前から二人組が声を掛けてきた。
私は驚いて、二人組の方を見る。改めて見ると、少しチャラそうな人たちだった。
「ねぇ、君、名前はなんていうの?」
同じ学科なのだろうか、それとも違う学科なのだろうか、私はとにかく二人と面識がなかったので、どうして話しかけられたのか分からなくて困惑した。
二人組は、私が答えられないでいるのにも関わらず、質問を続けてきた。
「一年生?かわいいね。俺は二年。こいつは一年なんだ。仲良くしてよ」
「良かったら連絡先交換しない?入学式の時から気になっててさ」
私は変わらず無言でいる。そのうちに二人はイライラとした様子になり、私のスマホを取り上げた。
「あっ」
私は咄嗟に奪い返そうとする。しかし、一人が勝手にスマホを操作している隣で、私の腕を除けようともう一人が邪魔をしてきたので、私はスマホを奪い返せなかった。
「はい、これで連絡先を交換したから。夜、連絡するね」
そういって、私のスマホは返却される。その時に桜井さんが帰って来たので、二人は知らんぷりをして前を向いた。
「ごめん、席替えない?」
桜井さんはそう言って荷物を持つ。私は静かに頷いてその席を立った。
私は、さっき起きたことを彼女に話すべきか迷った。でも、話したところできっと桜井さんを困らせるだけだろう。そう思ったので、話さないでおくことにした。
「ごめんね、目の前に座った男、実は元彼とその友達でさ」
桜井さんは席を移った理由を話してくれた。それなら、尚更さっきのことは触れないでおこうと思った。
桜井さんに心配をかけたくないのと、あまり思い出させたくないのがその理由だった。
私が頷くと、授業開始のチャイムが鳴った。さっきの二人組もあれから何かしようとはしてこなかったので、私は安心して授業を受けた。
さっき勝手に連絡先を追加されたスマホは、今日はあまり触らないでいようと思った。
***
私がバイトから帰ると、二件の新着メッセージがあった。一件は桜井さんからお出かけのお誘い、もう一件は見知らぬ人からのメッセージだった。
今日はバイトの業務が忙しい日だったし、大学でも桜井さんと楽しくお喋りが出来た日だったから、知らない人からメッセージが来るような事象を覚えていない。
私は気になって仕方がなかったので、そのメッセージに返信をすることにした。
『すみません、どなたですか』
私がメッセージを送信すると、すぐに既読が付き、返信が来た。
『今朝、連絡先を交換したじゃん。覚えてない?』
そう言われて、私はようやく今朝の最悪な出来事を思い出した。私は、この人と連絡を取り合いたくないと思った。でも、今まで人と連絡を取り合った経験のない私は、この人の連絡先を削除していいのか分からなかった。
私は、何より大学構内で会う人に嫌われるのが怖かった。何が目的かは分からないが、私はとにかくご機嫌を取ろうと思った。
前に、SNS上でリレー小説というものを体験したことがある。この人を相手の作ったキャラクターだと思えば、幾分かマシにコミュニケーションが出来るかもしれないと思い、遠回しに自分の気持ちを伝えるセリフを返信しようと思った。
『そういえばそうでしたね。人と連絡を取ることが少ないのでなかなかアプリを開きませんが、よろしくお願いします』
送信ボタンを押した瞬間、私はすぐに桜井さんとのメッセージ画面に移った。そして、その後の彼からの連絡に既読を付けずに、桜井さんとの会話を楽しんで眠りについた。
***
翌日、私が登校すると、同じ教室に彼がいた。よく考えれば、昨日は二人組だったのに、追加されていた連絡先は彼の物だけだなと思った。
彼は私に気づくと声を掛けようと近づいて来た。しかし、チャイムが鳴ったので、彼は大人しく席に着いた。彼の席は私のいくつか後ろの席だった。
この授業は楽に単位が取れる授業だったので、私は桜井さんに描くと約束していたイラストを描き進めた。いつもこの授業ではこっそり創作をしているし、別に構わないだろうと思ったのだ。
授業が終わり、私は荷物を仕舞う。すると、彼が話しかけてきた。私はしまったと思ったが、逃げることは出来ないと思ったので、話を切り上げられるように努めようと思った。
「ねえ、なんでメッセージ返してくれないの?」
私は適当な言い訳を考えて返した。
「昨日はバイトが忙しくて。あの後すぐに寝たんです」
「ふうん、何のバイト?」
「……スーパーで、主にレジを」
話が続いてしまう。私は早く次の授業に行きたかった。次の授業なら桜井さんがいるから。
しかし、彼はまだ私を開放してくれない。
「へぇ。ねぇ、授業中、絵を描いていたでしょ」
私はドキッとした。また、大学の人に私のユートピアの存在がバレてしまった。
連絡先に登録されていた名前はハンドルネームのようなものだったので、私は彼の名前を知らない。そんな人に自分の趣味がバレてそれを指摘されることは本当に嫌な事だった。
それでも、ここで絵を描いたのは私の落ち度だ。この人が、私を焦がす虚無だったとしても、私には桜井さんがいる。私は逞しく返そうと思った。
「そ、そうだけど、何?」
彼ははにかみ、予想外の言葉を放った。
「“羊”って知らない?」
羊さん。私に依頼をくださった方だ。どうして、この人が羊さんを知っているのだろう。
「知ってる……でも、どうして?」
彼は少し嬉しそうにガッツポーズをしてこう言った。
「それ、俺なんだよ。連絡先の名前も、“Sheep”だったでしょ?」
私は連絡先の名前をよく見ていなかったのでそんなことには全く気が付かなかった。私は驚きのあまり硬直する。嬉しさと恥ずかしさが混同した。
「キミ、“叶絶”さんだよね?嬉しいなァ、君に描いてもらった絵、大事に取ってあるよ」
私の描いた絵が表示されたスマホを見せる彼。私はようやく声を出すことが出来た。
「こ、この前はご依頼ありがとうございましたっ!」
「こちらこそ。また、依頼したいんだけどいいかな」
見かけによらない彼の言葉遣いに驚きながらも、私は首を縦に振った。
彼はまたガッツポーズをして、教室の後ろに立てかけてあったギターを持って扉を開けた。
「じゃあ、また詳細送るよ!」
そう言い残して、彼は教室を出て行った。
私は放心状態でその場に立ち尽くす。こんなことが起こるだなんて。
私はハッと我に返って連絡先の名前を確認した。確かに“Sheep”と書いてある。そして、そのまま時間を確認して、私は急いで教室を飛び出した。
それでも、私の心は鳴りやまない。過剰に働く自意識が私の胸をときめかせた。
あの羊さんが現実の私に興味を持って話しかけてくれた。さらにまた依頼の約束をしてくれた。それだけで、私の恋心は勝手に働いてくれるのだった。
今まで人間関係がべらぼうにダメだった私だ。簡単なことで恋に落ちるのは仕方のないことだろう。
久しく分かれていた恋心に私は浮つかずにはいられなかった。
私はようやく次の教室に着く。桜井さんの姿を見て私は血の気が引いた。
そうだ、彼は桜井さんの元彼もしくはその友人なのだ。わざわざ桜井さんが私と遠ざけた人間。あまり仲良くしない方がいいのではないかと思った。
桜井さんは、私に何が起こっているのかを知らない。なので、昨日と同じように、私に手を振ってくれた。
私は手を振り返して桜井さんの隣の席へ行く。彼のことを思い出さないように描きかけのイラストを出してそのイラストの話をして授業までの時間を潰した。
そうは言っても、恋心は止まらない。授業中、私は彼の事ばかりを考えてしまった。
言ってしまえば、私の趣味を一番最初に認めてくれたのは彼なのだ。その彼が、現実で話せる距離にいる。私は彼のことが知りたくてたまらなくなった。
結局、その授業の内容は一つも頭に入らず、その日はその授業で終わりだったので、桜井さんともお別れをして家に帰った。
***
しばらく、彼から貰ったメッセージを眺めた。彼に送ったイラストも眺めたし、彼が依頼にくれた彼の詩も眺めた。
彼の詩はあまりに綺麗で、それに似合うイラストが描けたかとても不安だった。
彼は気にいってくれていたけれど、果たして本当に良いものだっただろうか。何度も考えたが、もう納品が終わっているものだから、考えることを辞めた。
私はもう考えないように、創作を始めようと思った。思えば、二日ほど全く触れていない創作物がある。日の傾かないうちに家で創作を始められることはとても幸せなことだ。
桜井さんへのイラストを済ませてしまおうと、私はイラストアプリを開き、しばらく筆を走らせた。そして、イラストがようやく完成しそうだという時、彼から連絡が来た。
私は驚きのあまりペンを落とす。彼からは三枚ほどイラストの依頼が来ていた。すぐに返信をして、もうすぐ終わるイラストも放って無我夢中で描き始めた。
5時間ほどで全て仕上げ、私はすぐに納品をした。彼は電子決済でお金を払おうとしてくれたが、断った。
彼への好意が全ての理由だった。貢いだような形になったのは少し気が引けたが、かなりの頻度で会う人間からお金を取るのはもっと気が引けたのだ。
彼も喜んでくれた。私はその旨が書かれたメッセージを見て喜んだ。そして、この幸せに虚無が襲い掛かってこないことをもっと喜んだ。
私はこの幸せな気持ちを抱えて布団に入った。まだ眠るには早すぎるが、今の内に眠ってしまいたいと思ったのだ。
眠りにつく前、誰かからメッセージが来たようだったけど、私はそれを無視して眠りについた。
***
翌朝、目を覚ますと昨日のメッセージは桜井さんからだったことが分かった。今日の放課後に約束していたお出かけの内容だった。お出かけと言っても、この前の喫茶店に行くだけだが、私にとってはお出かけと同じだった。
私は、昨日のうちに返信が出来なかったことを詫びて、送られていたメッセージから大学構内の集合場所を確認した。
私は幸せな気分をずっと胸に抱えたまま、少しだけ綺麗なワンピースを着て大学へ向かった。
今日の一限の授業には彼がいるからだ。名前はオンライン上にある履修者名簿で確認した。音川 羊、綺麗な名前だった。
私が教室に着くと、音川君が悲しげな様子で座っていた。私は声を掛けるべきか迷った。私が彼に何を話すことがあるだろう。依頼について話そうにも、音川君はそれを受け入れてくれるような雰囲気ではない。
私は声を掛けないことにした。私が席に着くと、彼は私を見つけて話しかけに来てくれた。私は嬉しかったが、彼がまだ悲しそうな表情なのを見て、笑顔にはなれなかった。
「よぉ、昨日は、ありがとうね。あんな上手いイラストをタダで」
私は上手く喋れなくて、はにかんだ。すると、音川君は前の席に腰を掛けて項垂れた。
私は「どうしたの」と聞きたかったが、私が聞く前に話し始めてくれたので私の喉は変な音を立てるだけだった。
「聞いてくれよ。浩司が……あぁ、あの二年のツレが、焼尽状態になったって」
私は数日ぶりにその言葉を聞いてドキッとした。確か、数日前にトレンドに上がっていた、謎の死を遂げるあの病気だ。私はこの名前を『幸せの後に来る燃え尽きたような感情』として認識していたので、この言葉を本当に恐れていた。
彼は話を続ける。
「さっき『タイマーが見える』って連絡が来て、後十二時間だって。ここにアイツがいないのはきっと最後の時間を好きに過ごしてるってことなんだろうけど。俺、どうしたらいいのか。なぁ、叶絶ならどうする?」
泣きそうになる音川君。私は、なんて言葉を掻けたらいいのか分からなかった。きっと、彼にとって二年の彼は親友なんだろう。私に置き換えてみれば、今よりもっと仲良くなった桜井さんが後十二時間後に死んでしまうようなものだ。私はそうなったら、きっと彼女の死を受け入れたくなくて、彼女が死ぬ前に自殺をしてしまうかもしれない。
私は頭を働かせて、音川君に言葉をかけた。
「親友、なんでしょ?じゃあ、彼の元に行ってあげたほうがいいよ」
「でも、授業が……」
「親友より大事な授業なんてないよ。出席カードはこっそり出しておくから、行ってあげて」
彼は頷いて、教室を出た。最後の時を過ごすなら、きっと出来るだけ長い時間の方がいいに決まっている。
授業が始まり、私はこっそり音川君の分のカードを提出した。先生にはバレなかった。
***
「どうしたの?落ち込んでるみたいだけど」
放課後、桜井さんとの喫茶店。私は音川君のことが気になってどうしても桜井さんとの会話に集中できなかった。でも、音川君のことが気になっているだなんて、口が裂けても言えない。
桜井さんには知人という仮定で話を聞いてもらおうと思った。
「実は、知人の友達が焼尽状態になったらしくて」
桜井さんは驚いて私の話に耳を傾けてくれた。同情をしてくれているようで、私は少し心が痛んだ。
「その友達とはあまり接点がなかったから、悲しくはないんだけど……。知人の方が心配で」
桜井さんは頷いてコーヒーを啜った。私もコーヒーを一口飲んだ。
「話題になってる病気だよね。空にタイマーが見えるんだっけ」
「親友だったみたいだから、なんて声を掛けたらいいのか分からなくて……。とりあえず、そばにいてあげてって言ったけど……」
「きっと、それがいいよ。アタシでもそう言ったと思う」
桜井さんが私の判断を認めてくれた。私はそれだけでなんだか心が軽くなった。
私が救われたところで、音川君の悲しさは拭われないけれど、せめて明日以降の彼の力になれたらと思った。
「ありがとう。そう言って貰えて、なんだか心が軽くなったよ」
私が桜井さんにお礼を言うと、桜井さんは少し複雑そうな表情をした。そしてその訳を話してくれた。
「ううん。でも、最近元彼に同じようなことを言われて復縁を迫られたから……この話、辞めにしない?」
私はとんだ地雷を踏んでしまったと思った。すぐに話題を変えようと、思考を巡らせる。
そういえば、イラストが完成間近だ。今ここで完成させてしまおう。
私はその旨を桜井さんに伝え、その場で完成させてしまった。桜井さんはそのイラストをとても喜んでくれた。
「わぁ!自分で言うのもなんだけど、アタシにそっくり!本当にうれしい、ありがとう!」
人目もあるのに、桜井さんは席を立って私に抱き着いて来た。私は目をグルグルとさせながら「どういたしまして」というので精一杯だった。
***
その夜、音川君からメッセージが来た。
『今から会えない?』
そうか、あれから十二時間以上経っている。きっと、親友の彼は息を引き取ったのだろう。
私はすぐに返信をして着替えた。集合場所は近所の公園だった。どうやら彼は近所に住んでいるようだ。
公園に着くと、音川君は私を待っていた。私はこの時間にわざわざ外に出るなんて初めてだったから、少しだけドキドキしていた。
音川君は私を見るなり私に泣きついてきた。私を抱きしめるような形で泣いている音川君。私はどうすればいいのか分からず、目を白黒とさせた状態で彼の背中をさすった。
ひとしきり泣いた後、彼はハッとしたように私から離れた。
「ご……ごめん。でも、俺……浩司のいない世界で、どうやって生きていったらいいのか……」
再び涙を浮かべる音川君。
しばらく、夜風が二人の間を吹き去った。ブランコが少しだけ音を立て、虫の声がやけに響いた。
私は……私は、ただ一心に彼の支えになりたいと思った。親友を失う辛さは私には計りしれないけれど、彼の傍にいて、彼の傷を癒すことは出来るはずだ。
私は、静寂を破るように声を絞り出した。
「私……出来るか分からないけど、出来ることなら、音川君を支えたい。あんまり力になれないかもしれないけれど、音川君の力になりたい」
少しだけ驚いた顔を見せる音川君。私は彼の目をじっと見つめた。口は震え、先ほど響いてた虫の声は心臓の音でもう聞こえないけれど、それでも彼だけをじっと見つめた。
彼はまた私を抱きしめた。
「叶絶……ごめん、しばらく、こうさせて」
私はまた彼の背中をさすった。
彼が私を頼ってくれている。彼の支えになれるなら、私はこの体を彼にまるまる差し出したい。
出会いは最悪だったし、出会って二日しか経っていないけれど、私のこの気持ちはきっと間違いなく愛だと確信した。
夜風が再び二人の元へ吹いた。今度は間を通らず、二人の頬の間を撫でて行った。ブランコが小さく音を鳴らす。私と音川君は同じ方向を歩いて帰った。
その夜は、私にとって忘れられない夜になった。
***
翌日、私は音川君の隣で目を覚ました。音川君は葬儀に出るというので、私は一度家に帰ってから、大学へ向かった。
大学の校門を抜けると、桜井さんが私を呼んだ。振り返ると、血の気の引いた桜井さんの姿があった。
「このイラスト、叶信のじゃない?」
そう言って、スマホの画面を差し出された。確認すると、それは確かに私のイラストだった。
このイラストは、私が“羊”さんに……音川君に描いたものだ。イラストの左上には『sold out』の文字があり、それはどうやら色々なグッズに使用されているようだった。
「これ……音川君に描いた……」
私は混乱するあまり音川君の名前を出してしまう。桜井さんは眉をピクリと動かした。
「音川?どうして音川の名前が出てくるの?」
私は悲しみと胸の苦しさに今までの全てを白状した。
悪いことをしていた感覚はないが、それは懺悔のような辛い気持ちだった。
桜井さんは真剣に私の話を聞いてくれた。その瞳の奥には怒りが燃え、息が荒くなるのを押さえているのが分かった。
「話してくれてありがとう。……あのね、辛いかもしれないけど、聞いて。まず……浩司は焼尽状態になんてなってない。浩司は、生きてるよ」
桜井さんの言葉に耳を疑う。音川君があんなに悲しんでいたのに、あの二年生の彼は生きている?私はその言葉を受け入れられずに硬直した。
「アタシ、焼尽状態がトレンドに上がったとき、全く同じ文言で音川から復縁を迫られたの」
聞きたくない言葉たちに涙があふれる。昨夜のあれは全て演技だったってこと?今日彼が葬儀に出ると言っていたのは、ただ、学校をさぼる為の、私に出席カードを提出させるための嘘だったってこと?私に絵を描かせたのは、私の絵が気に入ったからなんかじゃなくて、お金になりそうだったからってこと?
「信じられない。あいつ、叶信にまで手を出していただなんて」
私は涙が溢れて止まらない。たった二日間、たったそれだけの感情でも、私は確かに彼を愛していたのだ。私の生きる理由を初めて認めてくれた彼、私を頼ってくれた彼、私を愛してくれた彼。そんな彼は初めからどこにもいなかった。
授業開始のチャイムが鳴る。私はそれが聞こえていてもなお、その場から動くことが出来なかった。
桜井さんが、私の背中をさすってくれる。過呼吸になる私を抱きしめ、ただ、静かに、私を慰めてくれた。
***
その後、私は桜井さんの家に行った。桜井さんが私を気遣って「一日くらい平気だよ」と大学から連れ出してくれたのだ。
彼女は暖かいミルクを出してくれ、ストックしていたらしいポテチやコーラなどを出してくれた。
私は暖かいミルクをゆっくり飲み、ただ、静かに涙が止まるのを待った。私が一番恐れているのは、この悲しみの後に襲いかかる虚無だ。
しばらく、幸せな日々が続きすぎた。その間に虚無が顔を出さなかったのは、きっと私を一度で殺してしまおうと、心の奥底で隙を狙っていたに違いない。
私はいっそのこと、この涙が止まるとともに私の息の根も止まってくれればいいのにと思った。
桜井さんは、私が泣き止むのを静かに待ってから口を開いた。
「アタシ、あいつらの事本当に許せない。人の好意を踏みにじって、人の努力で金を稼いで」
私は、桜井さんが友達になってくれてよかったと思った。本来なら、自分の元彼と知らない間に付き合おうとしていた女なんて縁を切って当然なのに。桜井さんはその事実を知ってもなお、私と友達でいてくれる。私のために怒ってくれる。この人は、本当にいい子なんだなと思った。
私がミルクを飲み干すと、桜井さんは思いもよらないことを口にした。
「ねぇ、叶信。あいつらに、復讐しない?」
私は予想外の言葉に何も言えなかった。そんなに人を恨んだことがなかったからだ。
「きっと、アタシが誘えばあいつらは出てくる。そこで、証拠を突き付けて、あいつらを脅してやるの」
桜井さんの作戦は青く不完全なものだった。証拠を突き付けて脅したって、きっとあの人たちは動じない。むしろ、その場を力ずくで押さえつけられて、二度と抵抗できないような傷をつけてくるに決まってる。私はもう忘れたかった。
「あの絵は一応売っているものだから、きっと立件は難しいよ。私はもう……忘れたい」
擦れた私の声は真っ白な部屋の天井を上滑りして静寂を与えた。
桜井さんはそれでもあきらめてくれなかった。
「でも、こんなのって無いよ。せめてSNSにアップとかしてさ、実名なんかも公開して……そうしたら、退学処分くらいには!」
私は怒っていた。それは、彼らにでは無く彼女に、だ。
彼女は私の為に怒ってくれているというより、彼女自身の恨みを晴らすために、私を利用しているようだと思った。
彼女は私に良くしてくれるけれど、こればかりは怒りを隠せない。
「取引した相手は私だから、そんなことしたら私まで退学処分だよ」
「でもっ!」
「桜井さんの復讐に、私を利用しないで!」
鉄筋コンクリートに響いた私の声がキンと鳴る。私はついに友達を失うような言動を取ってしまった。しかし、もう戻れない。
桜井さんは私の言葉にショックを受けたようにふらつき、膝から崩れ落ちた。
そして、眩暈がしているかのようにしばらく頭を抱えた。
私はなんだかここに居たくなくなって、荷物をまとめて立ち上がった。
「ご、ごめん。でも、復讐なんてしたくないの。私、帰るね」
そう言い残して、バタバタと桜井さんの家を出た。
***
家に帰り着き、私はすぐに布団を被った。眠りにつけるかは分からなかったが、とにかく意識を失いたかった。
いつもなら創作活動に逃げていただろうが、今回は私の趣味によって起こったことだ。私の趣味に燃え移った火はもう取り返しがつかない程の大火に育ち、今すぐにでも私を消し炭にしようと迫っている。そんな時に、創作をしようなどとは到底思えない。
私は布団の中で、ただひたすら何も考えないように努めた。
しかし、その行動は突然鳴り響いた着信音によって遮られてしまった。
普段は通知音なんて切っているのに。さっき急いで荷物をまとめたから、きっとその時に間違えてオンにしてしまったのだろう。
私は画面もろくに見ずに通話に出た。電話の主は音川君だった。
『もしもし、今、葬儀が終わったよ。今から、家に行ってもいいかな』
私は彼の声に怯えた。嘘なのに、どうしてそこまで完璧な演技が出来るのか。
私は震える声で彼を拒絶した。
『私……全部知っちゃった……。もう、何も聞きたくない。もう、会いたくない!』
そう言って通話を切る。きっと、彼がすぐに飛んでくるだろうが、私は決して扉を開けないと心に決めた。
そして再び布団に籠る。今度は恐怖に疲れたからかすぐに眠ることが出来た。
***
呼び鈴の音に目を覚ました。辺りはすっかり暗くなっており、気持ちも体もすごく重かった。この呼び鈴は音川君だろうか。それなら、出る必要はない。またしばらく布団に籠ろうと思った。
すると、外から女性の声が聞こえてきた。
「叶信……。まだ、怒ってる?」
桜井さんの声だ。桜井さんが私の家に来た。
私はすぐにドアスコープから彼女の姿を確認した。一人でそこに立っている。
あんなにひどいことを言ったのに、彼女は私を許してくれたというのか。
私は申し訳ない気持ちと少しうれしい気持ちになり、涙ぐみながら扉を開けた。
「桜井さんっ!私、あんなにひどいことを言っ、て——……え?」
扉の陰から、二人組の男が出てくる。見慣れた、あの二人組が。
ドアスコープではよく見えなかったが、桜井さんの体や顔にはあざがあり、涙の後が目の横に流れていた。
私は二人にされるがまま、部屋の奥へ連れ込まれる。勢いよく床に押し倒され、頭を押さえつけられてようやくハッと我に返った。
「気づかなければいい恋で済ませてやったのに、余計な事に気づきやがって」
私は恐怖で声が出せない。向こうでは桜井さんの「ごめんなさい」と泣き叫ぶ声が聞こえる。
私はここからの記憶があまりない。次に気が付いたのは桜井さんと二人きりの部屋の中だった。
***
視界がぼやけている。痛みと胸の苦しさで、何が起こったのか全く理解できない。
向こうから、桜井さんの「後5分」とつぶやく声が聞こえる。理解したくないことを少しずつ頭で理解して、私は桜井さんに水を出そうと立ち上がろうとした。
視界が明瞭になる。いつの間にか明るくなっており、窓からは曇り空がこちらを覗いていた。
私の頭上には『00:05:48』という文字が浮かんでおり、右の数字は47、46と一定間隔で減っている。
私はハッとした。これは、“焼尽状態”だ。幸せの後に虚無が襲い掛かり、頭上にはタイマーが見えている。こんな時に神は私に追い打ちをかけるというのか。
私はそれよりも桜井さんだと思った。今、この状態であることを嘆くより、未来のある桜井さんに全てを託して彼女のケアをした上で死んだ方がマシだ。
私は冷蔵庫から水を出し、桜井さんに差し出した。桜井さんはまだ「後5分」とつぶやいている。私のタイマーが見えているのだろうか。私は落ち着いて桜井さんに話をした。
「桜井さん。桜井さんも分かっている通り、私は後5分で死ぬ。だから、未来のある桜井さんは、これを飲んだらすぐに警察署へ行って、さっき起きたことを話して」
桜井さんは怯えた目で私を見ている。きっと、ここに来る前に酷い乱暴をされたのだろう。それでも、私は彼女の為に動かなければならない。
何故なら、彼女には未来が——
「叶信“も”見えるの?」
叶信“も”?
『も』とは、どういうことだろう。だって、桜井さんに見えているのは私の——。
『遺族や友人にはそのタイマーは見えておらず、極めて非現実的だが……——』
私はあの日のトレンドを思い出して言葉を失った。
遺族や友人に見えていなかったタイマーが、二人とも見えているということは……。
「私たちは、後5分で二人とも死ぬってこと?」
信じたくない現実を理解するために声に出してしまった。
私は桜井さんが受け取らなかったコップを床に落とした。
そんな、こんな辛い気持ちで人生を終えるなんて。誰の役にも立てずに死んでしまうだなんて。まだ、作りかけの作品が沢山あるのに!
私は膝から崩れ落ちる。先ほど落としたコップの水が、太ももにピチャンと跳ねた。
後5分で何が出来るだろう。桜井さんと二人、何も成し遂げられなかった人生。たった5分じゃ、絵も描けないし、物語も終わらない。書けるとすれば、たった一編の詩くらい。
筆を持つ気力が湧かず、遺書すら用意出来ない。
私はただ、流れ落ちる涙も拭えずに笑うことしか出来なかった。
水に濡れた床に勢いよく寝そべった。
桜井さんはそんな私を見て、同じような行動をとった。
ワンルームの真ん中に、桜井さんと二人で寝そべる。真っ白な天井はいつもより空虚に見えた。
「ねえ桜井さん」
「なに、叶信」
「最悪な人生だったね」
「……最悪な、人生だったね」
私は、昔から幸せが怖かった。幸せになれば、必ず不幸になるから。そうして幸せを拒み続けた私の人生は終わりの瞬間も、変わらずずっと灰色である。
私は昔、幸せが好きだった。しかし、幸せになったから、私は燃え尽きてしまった。
“絶望”
この感情はきっとそう呼んで間違いないと思う。
私は起き上がり、桜井さんを起こした。桜井さんは不思議そうな顔をしている。
私は両手を広げ、桜井さんを抱き寄せた。
「最後は二人で一緒に死のう。孤独な人生なんかじゃなかった。私には確かに桜井さんがいた」
桜井さんはそっと抱き返す。
「そうだね、一緒に死のう。嫌な事ばっかりだったけど、最後には叶信がいる」
私の命が尽きるまで残り30秒。0に近づくごとに、二人の腕には力が入る。
恋への依存と別れ、夢への執着も諦めて、社会の歯車の一部にもなれなかった私たちは、ただ、燃え尽きるまでその身を共にした。
燃え尽きるまで。
——00:00:00——
燃え尽きるまで 万乃桜侍 @yorozun00uji
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