事件後の対面

 何度も何度も迷って。

 何度も何度も引き返しかけて。



 それでもなんとか、この自動ドアをくぐるに至った。



 フードを目深く被ったシアノは、しきりに周囲を気にしながら病院を進む。



 大丈夫。

 きっとばれない。



 自分にそう言い聞かせながら、手元の紙を強く握り締める。



 最後にお別れをしてきなさい。

 父はそう言ったけど、自分にはもう、それすらもできないのだと知った。



 バイバイ、なんて。



 大好きな人に向かって、あの時みたいに平然と別れなんて言えない。

 本当は別れたくないんだから。



 でも、父の言うことは絶対。

 だからせめて、手紙を置いていくことにした。



 これなら、エリクに会わなくていい。

 どこか悲しそうで寂しそうだった彼を、もう一度見なくて済むのだ。



 ばくばくと暴れる心臓を落ち着けるように意識しながら、エリクの病室へ。

 音を立てないように扉を開くと、中には誰もいなかった。



 それにほっとして、そそくさとベッドに近寄る。

 そして、ベッドの枕元に手紙を置いた。



「……バイバイ。」



 手放した手紙に、そっと思いを託す。

 その瞬間、目から涙が零れてしまった。



「あ…」



 次々と滴り落ちる温かい雫に、シアノは驚いて目をまたたいた。



「う……うう…っ」



 どうしよう。

 止まらない。



 やっぱり嫌だ。

 手紙でだって、バイバイなんて言いたくない。

 一人くらい、大目に見てくれたっていいじゃん。



 信じ切っていた父にそんな不満を抱いてしまうほど、心が全力で嫌がっている。

 それくらい、エリクのことが大好きだから。



 泣いているシアノは気付かない。

 ベッドを囲むカーテンの陰から、一人の人物が出てきたことに。



「―――っ!!」



 後ろから、ぎゅっと抱き締められる。

 それに驚いて息を飲めば、よく見知った香りが鼻をくすぐった。





「よかった。もう一度、会いに来てくれて。」





 耳元で囁く優しい声。

 それを聞くと、無条件でほっとするようだった。



「エリク……」



「カティアから君と会ったって聞いて、ずっと待ってたんだ。びっくりさせちゃってごめんね。」



「う…っ」



「もう、こんなに目を真っ赤にしちゃって…。そんなに泣いちゃうくらい嫌なのに、どうしてまたバイバイなんて言うの?」



 優しい微笑みで、頭をなでてくれるエリク。



 よかった。

 ちゃんと生きている。

 ちゃんとさわれる。



 それを実感すると、さらに涙があふれてきてしまった。



「!」



 ふとその時、何かに気付いたエリクが扉の方を振り返る。



「シアノ君、こっちにおいで!」

「―――っ!?」



 強く腕を引かれて、エリクと一緒にベッドの上へ。

 何が起こったのか分からずにいる間にエリクに抱き寄せられて、全身にすっぽりと毛布をかけられた。



「じっとしててね。」



 ひそめた声でそう言われる。

 それから数秒と経たないうちに、病室の扉がノックされた。



「邪魔するぜー。」



 彼の声は知っている。

 それだけに、どきりと心臓が跳ねた。



 相手を悟ったシアノが思わずエリクにしがみつくと、彼は毛布の中に隠した片腕でしっかりとシアノを抱き締める。



 そんな見えないやり取りに気付いていないミゲルは、きょとんとまぶたを叩いた。



「お? 珍しいな。お前がこの時間にベッドに潜り込んでるなんて。」

「いやぁ、今日はちょっと起きてるのがきつくて。」



 エリクがそう言うと、ミゲルは呆れたように片眉を上げた。



「ほら見たことか。自業自得だわ。嫁さんに散々怒られてるくせに、患者が気になるっつって動き回るからだよ。」



 そんなミゲルの発言に、エリクはなんともいえない表情で顔を赤らめた。



「あ、あはは…。ミゲルまでカティアをお嫁さん扱いする…。プロポーズもまだなのに……」



「でも、プロポーズのために指輪を選んでる最中だったんだろ?」



「ま、まあね…。結局、二人で選ぼうかってなったよ。」



「じゃあもう嫁さんでいいじゃねぇか。」



「はあぁ…。父さんに乗せられて、普通に口を滑らせちゃったよ…。ちゃんとプロポーズを済ませてから紹介する予定だったのに、いつの間に仲良くなってたんだか……」



「大事な人間が死にかけって状況で、秘密もくそもないわな。」



「……ですよね。サプライズ感がなくて味気ないかもしれないけど、場を改めてちゃんとプロポーズするよ。」



「おう、そうしとけ。」



 ミゲルは特に、こちらを疑っている様子はない。



 しかし、何も見えない状況ではその認識が正しいかも分からないので、シアノはエリクの腕の中で震えるばかりだった。



 それを感じ取っているエリクも、動揺を悟られないように渾身の演技を続ける。



「ところで、今日はどうしたの?」



「どうしたのも何も、お前の転院手続きを詰めにきたんだよ。いつまでも宮殿の関係者が、一般病院を巡回してるわけにはいかねぇだろ? そろそろごまかすのもきついって、院長先生から泣きつかれてんだ。」



「あはは、ご迷惑を…。じゃあ、アルシード君も一緒に転院するの?」



「あいつはとっくの昔に宮殿に戻って、オークスさんの研究室に引きこもってるよ。勝手に入ってきたら社会的に抹殺してやるってお触れが出てて、誰も近寄れねぇんだ。そこまで秘密を知られるのが嫌かね、あの馬鹿は。」



「ミゲルー。ねないでー。心配しなくても、ちゃんと話してくれるって。僕は事故で知っちゃったようなもんだから。」



「……ふん。」



 すっかりへそを曲げてしまったミゲルは、顔を逸らせてすまし顔。

 エリクは苦笑した。



「それにしても、とうとう転院かぁ…。話が長くなりそうだなぁ…。ねぇ、ミゲルー。話の前に、いつものカフェでカフェオレでも買ってきてくれない?」



「はあ?」



 ジョーの話で機嫌を悪くしていたせいか、ミゲルは少し不満そうに顔をしかめた。



「お前なぁ…。なんかこの一件から、おれの扱いが雑になってねぇか?」



「失礼な。仲が深まった分、わがままを言えるようになったって思ってよ。退院したら、お礼に何かおごるからさ。」



「……冗談だよ。病人に礼をさせるほど、おれは狭量じゃねえっての。」



「やだ、素敵。」



「はいはい。じゃあ、ちょっと行ってくるわ。お前はその間、嫁さんの検診でも受けとけ。」



 ひらひらと手を振って、ミゲルが病室を去っていく。



 数分ほど動かないまま、彼が戻ってこないかを観察。

 大丈夫だと確信できたところで、エリクは大きく息を吐いた。



「シアノ君、ごめんね。苦しくなかった?」



 ずっときつく抱き締めていた小さな体に、エリクは気遣わしげに問いかける。

 そこで彼は、怪訝けげんそうに眉を寄せた。



「シアノ君…?」



 ミゲルが出ていったはずなのに、震えが止まらないシアノ。

 その両目は大きく見開かれて、完全に凍りついていた。


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