慟哭の夜

 その後、ジャミルを拘束するかたわらで、キリハの手当てが行われた。



 ジャミルにつけられた目元の切り傷以外に外傷はなく、少しの衰弱は見られるものの、呼吸や脈拍は安定していた。



 しかし、どれだけ声をかけても、どんなに体を揺さぶっても、キリハがそこで目を開けることはなかった。



 ジャミルの巻き添えでジョーの睡眠薬を吸い込んだこともあるし、それ以前にジャミルに薬物を投与されていた可能性もある。



 だが、この昏睡が心因的なものならば……いつ目覚めるかは分からない。



 警察に同行して現場に来ていた医者は、同情を隠しきれないつらそうな声音でそう告げた。



 命こそ助かったものの、心までは助かるかどうか。

 皆がそんな重苦しい不安を抱える中、キリハは宮殿の病院へと搬送された。



 そして、命すらもついえるか否かという戦いが、別の場所で繰り広げられていた。



「………」



 エリクが運ばれた集中治療室前の椅子に座り、ルカは深くうつむいていた。



 かなり前に毒物を服用していたのか、中毒症状はすでに全身へ回っていたという。



 当然ながら、胃の洗浄程度では症状が緩和されるわけがなく、エリクはすぐにこの集中治療室に担ぎ込まれたそうだ。



 それからもう、九時間以上。

 エリクはおろか、医者や看護師も出てこない。



 厄介なことに、毒物の正体が分からないらしい。



 対処療法的な治療と同時並行で毒物の特定を急いでいるが、この調子では、的確な治療法が見つかるよりも先に、生死のとうげが来てしまうだろう。



 顔なじみの医者からそう聞かされた時は、いっそのこと気絶したいと思うほどに、現実を激しく拒絶する自分がいた。



 両親には、まだ連絡していない。

 この場に二人を呼んだとして、こうなった経緯を理路整然と話せる気がしなかった。



 それほどまでに、自分だって急転直下の悲劇についていけていない。



(兄さん…っ)



 祈るように、組んだ両手を額につける。



『ルカなら、気付いてくれるって……僕が死ぬ前に、ここに来てくれるって……信じてた……』

『あの子を………助け、て―――』



 最後の力を振り絞って自分にメッセージを託したエリクの微笑みは、今までと寸分も違わない、優しさに満ちたものだった。



 そして、彼のメッセージは確かに自分たちを導いて、間一髪でキリハを助けた。



 あの兄が、自ら進んで大切な人を裏切るわけがない。

 絶対に、ジャミルに従わざるを得ない理由があったのだ。



 エリクの無実を証明したくて、叫び出したくなる衝動をこらえながら、託された暗号の全文を読み込んだ。



 死にたいのに、死ぬことを許されない。

 お願いだから殺してくれ。



 あの子たちを傷つけるくらいなら、生きなくていい。

 僕が死ねば、あの子たちは泣いちゃうと思うけど……





 それでも、信じていた人に地獄へと突き落とされる苦痛よりは、きっと楽なはずだから―――





 何度も何度も、〝死なせてくれ〟と。

 ジャミルの犯行を書き記す合間に、エリクはまるで呪詛じゅそのようにそう書き込んでいた。



 自分が認知できない、もう一人の自分がいる。

 ジャミルの傀儡かいらいとなって、大切な人を出口のない絶望へと導く自分が。



 何度も助けを求めようとした。

 自分はどうでもいいから、ルカとキリハを救ってくれと、声を大にして言いたかった。



 なのに……電話をしようとしても、メッセージを打とうとしても、もう一人の自分が邪魔をしてくる。

 何度死ぬかと思うような苦しみに見舞われたか、何度意識を失ったか、もう数えるのもつらい。



 時おり出てくる兄の悲痛な叫びに、涙を流さずにはいられなかった。



 もっと普段から会いに来いって、あんなに言われていたのに。

 そのとおりにしていれば、こんなことになる前に気付けたはずなのに。



 死ぬほど後悔したって、もう今さらでしかなくて―――



「ルカ……」



 がっくりとうなだれるルカの肩に、カレンが気遣わしげに手を置く。



「……帰ってもいいぞ。お前までオレに付き合って、徹夜しなくたっていい。」

「そんなこと、するわけないでしょ。」



 真っ赤な目元に再び涙を滲ませながら、カレンは唇を噛む。



「あたしだって、お兄ちゃんが心配なんだもん。それに……こんなルカを、一人になんてできない…っ」



 想いがあふれて、カレンはたまらずルカを胸に抱き寄せる。

 いつもなら慌てて逃げようとするルカも、この時ばかりは無抵抗だった。



「なぁ、カレン……」



 乾いた唇から、無機質で淡々とした声が漏れる。



「オレがさ……人生の何もかもを捨ててでも、兄さんの復讐をやり遂げたいって言ったら……お前は、オレを止めるか?」



 ルカが訊ねたのは、そんなこと。



 ルカを強く抱き締めたまま、カレンは何も語らない。

 カレンに抱かれるルカも、答えを急かさない。



 しばらく、夜の静けさだけが廊下を満たした。



「なんだかんだと、曲がったことができないルカに、そんなことができるとは思わないけど……」



 やがて口を開いたカレンは、涙を浮かべながらも微笑む。



「止めないよ。もしもそれでルカが捕まっちゃうようなことになったら……いつまででも、待っててあげる。」





 それは、彼女なりの最大の覚悟と―――最大の愛情が表れた言葉。





「そうか……」



 真正面からカレンを見つめてその言葉を受け取ったルカは、今度は自分からカレンの胸に頭を預けた。



「悪い……少しだけ、泣かせてくれ…っ」



 そう言って片手で顔を隠したルカの体が、大きく震え始める。



「オレさ……なんでか知らねぇけど………昔から、お前の前でしか泣けねぇんだ…っ」



「うん。知ってる。」



「くそ…っ。……なんで……なんで、こんなことに…っ」



「うん……」



「なんで、兄さんがこんな目に遭わなきゃいけないんだよ!! 馬鹿みたいにお人好しで、竜使いのくせに喜んで万人を助けようとするくそ善人なんだぞ!? 殺される理由なんて……どこにも…っ」



「うん…っ」



 血を吐くような叫びが一つ響く度に、互いの両目から透明な雫があふれては落ちる。



 二人で共に涙を流して。

 二人で共にしがみつき合って。



 身も心も凍えてしまいそうな夜を、必死に乗り越えた―――


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