第5章 人間は嫌い
知りたくない
辺りはもう薄暗い。
人通りもほとんどないこの辺りはとても静かで、密やかな呼吸音ですらも聞こえてくる。
そんな路地裏にある、さらに細い道。
手入れがされずに伸び放題になった植木の陰に身を潜め、シアノは手の甲の傷に滲む血を舐めていた。
(やっぱり、人間は弱いな……)
ふと、そんなことを思う。
正直、勝てる自信はあった。
だから途中で立ち止まって、ほどほどに相手をしてやった。
あの人間たちは、馬鹿みたいに動きが遅い。
だから、何度も何度も引っ掻いてやった。
こちらも何回か軽い傷を負ったが、それはあちらの比ではないほどに少ない。
そのうち、あいつらは尻尾を巻いて逃げていった。
弱くて情けない。
あれでは、獲物を捕らえることもできない。
むしろ、一瞬で獲物にされて終わってしまう。
「……父さん。」
唇が無意識に、その一言を紡ぐ。
「やっぱり、父さんは正しいんだね。よく分かった。」
こちらを憎々しげに見下ろしてくるセラの顔。
愉悦に満ちた笑みを浮かべる彼の友人たち。
次第に歪んでいった末に彼らが見せた、心底怯えた顔。
追いかける価値もなかった。
どうせ彼らは、自分が手を下さなくとも勝手に滅んでいくだろう。
もう十分だ。
もう十分脳裏に、心に焼きつけた。
大丈夫。
もう〝本当に?〟なんて思わない。
―――今度こそまっすぐに、父のことを信じられる。
さあ、あの場所へ帰ろう。
フードを深く被り、足音を忍ばせて木陰から路地へと出る。
ふとその時、鼻の先に冷たいものが落ちてきた。
「雨……降ってきたな……」
自分の呟きを肯定するように、地面が少しずつ空から落ちてくる水滴で濡れていく。
雷の音もだいぶ近い。
早々に帰らないと、またずぶ濡れになってしまいそうだ。
「………」
雨が降ると、どうしようもなく思い出してしまう。
キリハと出会った、あの日のことを。
キリハのことは、あの日よりもずっと前から知っていた。
よく笑う人だ。
第一印象はそんな感じ。
しかし、思ったのはそれだけ。
これといって、彼に対する感情などなかった。
彼は、父が厄介だと言って警戒している相手。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
父が、彼は人間に不要だと言った。
だから今、自分はこうして動いている。
破滅への種は
長かった準備も、これで終わり。
これからは、父が父の思うように動くだろう。
自分はただ、堕ちていく彼らを見送るのみ。
もう、後戻りはできないのに―――
「せめて、最後に会ってから帰ればよかった、かな……」
無意識に呟き、その直後に自分が何を口走ったかを自覚して
キリハが不思議な人物であることは分かっていた。
キリハの笑顔は、他人に伝播していく。
彼には、他人の価値観を塗り変えてしまう何かがある。
それは、ある意味において何よりも脅威だと。
父からそう言い聞かされていた。
だから、気をつけていたはずだった。
それなのに、いつの間に?
いつの間に自分は、キリハの存在をこんなにも―――
「父さんの言ったとおりだ。いらない。……あいつは、いらない。」
シアノは首を左右に振り、次に勢いよくその場を駆け出した。
早く帰ろう。
どうせ、自分とキリハは敵どうし。
自分はキリハを傷つけることをした。
もう決して、許してもらうことなどできない。
逃げなきゃだめだ。
キリハの面影から。
キリハの悲しんだ顔から。
それなのに……
「シアノ!?」
その声は、あまりにも非情に響いた。
思わず立ち止まった先には、血相を変えたキリハの姿が。
(逃げなきゃ……)
とっさにそう思った。
しかし。
「シアノ君、いたの!?」
運の悪いことに、
エリクの後ろには、ルカの姿も見える。
キリハとエリクが、無我夢中でこちらに駆け寄ってくる。
怒りとも焦りとも見て取れる顔をする彼らの次の行動が読めなくて、シアノは思わず目を閉じる。
そんなシアノに手を伸ばして―――
「もう! この馬鹿!!」
キリハとエリクは異口同音に怒鳴り、後ろと前からシアノを力強く抱き締めた。
(…………え…?)
シアノは、きょとんと目をまたたく。
キリハもエリクも怒っている。
それは分かる。
でもそれとは裏腹に、自分を抱き締める腕に込められた力には、自分に対する害意が全くない。
そこに込められているのは、彼らの体が震えてしまうほどの安堵。
それが伝わってきてしまった。
伝わってきてしまったからこそ、分からなかった。
どうして?
怒っているなら、攻撃するのが普通じゃないの?
怒っているくせに……どうして二人は、こんなにも強く優しく抱き締めてくれるの?
「………っ」
シアノは
知らない。
こんなもの知らない。
知らない。
知らない。
(知りたく、ない…っ)
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