第5章 あるべき場所

レティシアの授業

 知らない世界。

 知らない価値観。



 それらを知っていけば、自分の世界も広がっていく。

 それはとても楽しいこと。



 だけど、知れば知った分、逆に見えなくなることもあるのだ。

 そんなことを、最近よく考えるようになった。



「………」



 空が青くて広い。

 木々の向こうにある海の方から、鳥の鳴き声が微かに聞こえてきて、風に乗ってふんわりと磯の香りが漂ってくる。



「キリハ?」

「………」



「ちょっと、キリハ?」

「……え?」



 何度か呼びかけられて、ようやく意識が現実に帰ってくる。

 ふと頭上を見上げると、こちらを見下ろしてくるアイスブルーの双眸があった。



「……ああ、ごめん。気付かなかった。」

「どうしたのよ? ぼーっとしちゃって。」



「えっと……ちょっと、考え事。」

「そう。なんか最近のあんたって、常に物思いにふけってるわね。そんなに、あいつらに会ったことが衝撃的だったの?」



 レティシアがあごで示した先には、ロイリアとじゃれて遊んでいるルーノの姿がある。



「そっか…。うん、きっとそうなんだと思う。」



 レティシアに指摘されたことで、今まで見えていなかった自分の心に気付く。



「今まで、他の国の人と話すなんてことなかったからなぁ…。当たり前だけど、海の向こうにはいっぱいの国があって、それだけたくさんの人がいるんだなって、初めて実感した感じがするんだ。」



 キリハはそう言い、ロイリアたちを見つめてふと目を伏せる。



「ねえ…。ロイリア、ここに来て楽しそう?」



 訊ねる。



「そりゃあ、見てのとおりよ。」



 レティシアは間髪入れずに答えた。



「予想はしてたけど、ルーノの奴に相当懐いちゃってね…。お互いにご主人自慢をし合っては言い争いになったり、かと思えば仲良く海の方に遊びに行ったりよ。今も昔も、男の子ってよく分からないわね。」



「そっか……」



 レティシアの言うように、仲睦まじい様子のロイリアたち。

 それを眺めながら、キリハはまるで遠くを見つめるように目を細めた。



「……何考えてるのよ。ろくなこと考えてないって顔してるわよ。」



 黙り込んだキリハの雰囲気からよくないものを察知したのか、レティシアの声のトーンがぐっと下がる。



「いや……ロイリアがあんなに楽しそうなのを見てると、ノアたちが帰った後が可哀想に思えてさ。」



 レティシアたちがここで自由にできるのは、ノアとルーノがいる間だけ。

 彼女たちがルルアに帰る日が来たら、レティシアたちはまた地下へと戻される。



 それを思うと、どうしても胸が切ない。



「ほんとなら、このままがいいのにな……」



 そう願ってしまうのは、いけないことだろうか。



「お馬鹿ねぇ……」



 レティシアは、呆れたと言わんばかりに大きな溜め息を吐いた。



「仕方ないじゃない。いつだって、道徳的に正しいことが世の中の正しいことじゃないのよ。」

「それって、今はレティシアたちを閉じ込めておくことが正しいってこと?」

「まあ、そうなるわね。」



 レティシアはあっさりと認めた。

 それを聞いたキリハは、眉間にしわを寄せて地面を睨む。



 どんなに自分が正しいと思っても、それが全て通るわけじゃない。

 それは、レティシアたちの処分を巡って揉めていた時に、嫌というほど実感した。



 この現状だって、自分とジョーがそれぞれ譲歩し合った結果。



 レティシアたちを殺させないためには、彼女たちの自由を奪うことになってでも、確実に管理できる体制を取らなければならなかった。



 仕方ないことなのだと。

 それは分かっているつもりだ。



 でも……だからこそ、ノアとルーノが見せてくれた絆が胸に刺さる。



 彼女たちが見せてくれた普通は自分にとっての普通ではないけれど、自分にとっては圧倒的に正しいと思える光景で。



 あんなものを見せつけられては、ひとまずは現状に納得しようと思っていた心がぶれてしまう。



「ねえ、キリハ。」



 ふいに、レティシアが語りかけてくる。



「よく考えなさいよ? なんで今回は、私とロイリアがこうして外に出られたんだっけ?」

「それは、ルーノがいるから……」



「なんであいつがいるって理由だけで、私たちが外に出られるのよ?」

「え? それは……」



 唐突に答えにつまるキリハ。



「いい? よく考えなさいって言ったのは、そういうことよ。今まで徹底的に私たちを地下に押し込めてた人間が、ただの気まぐれで私たちを外に出すわけないの。私たちを外に出したってことは、それなりの理由と目的があるはずよ。」



「目的…?」

「そう。大方、今回はあいつを守るためなんでしょうけどね。」



 レティシアがルーノへ視線を移す。



「いくら近くに人が住んでいないっていっても、セレニア山脈の東側にあんな大きなドラゴンがいたら大問題でしょ。私たちと一緒にちゃんと管理してますよって建前を取れば、あいつが危険な目に遭うリスクは大きく減らせるわ。そこは、あんたたちが今まで私たちを閉じ込めて、徹底的に行動を管理をしてきたことが大きな信頼材料になる。」



「……そういうこと、だったんだ。」



 キリハは目を丸くする。



 言われてみればそうだ。



 今回レティシアたちを外に出したのは、ジョーの発案がきっかけだったらしい。

 それを念頭に置くなら、あのジョーがなんの目的もなしに、レティシアたちを外に出すことを提案するはずがない。



 許可を取りつけたディアラントや許可を出したターニャだって、もっと時間をかけて申請を通しただろう。



「そうなのよ。じゃあ、次の問題。」



 レティシアは、まるで教師のように言葉を続ける。



「まあ、あいつを守るために私たちが外に出されたわけだけど、なんでそれが、誰からも文句を言われないのかしら?」



「うーんと…。確か、表向きは期間限定で、自然環境下におけるドラゴンの生態調査をするってことにしてるって、ジョーが言ってたな…。二十四時間体制で監視するし、そこで分かったことも公表するって話だから、研究部とかは大喜びしてたって。他の人はルーノがいる手前、下手に反対できなかったみたい。」



「まあ、あいつは偉い人間のパートナーって話だものね。頭ごなしに反論して、向こうに喧嘩売るようなことはしたくなかったんでしょ。そんな少数派はさておき。表向きの理由に文句を言われないポイントとしては、私たちが外に出るのが期間限定ってこと、二十四時間体制で監視するってこと、そして分かったことを公開すると明言していることね。」



「二十四時間休まず監視してるから、何かあってもすぐに対処できるし、そうすれば誰も危険じゃないってこと? 場所も離れてるんだし、期間限定だったら、まだ不安も少ないよね。」



「うん。まあ、半分は正解ってところかしら。」



「半分…」



「そこに、分かったことを公開するって条件をつける目的はなんだと思う? 私たちのことなんて、研究者だけが分かればいい話でしょ? 別に、一般人にまで情報を公開する必要なんてないじゃない?」



「んん……言われてみれば……」



 キリハは渋面を作る。



 確かに、レティシアの言うことにも一理ある。

 だが。



「……さっぱり分かんない。」



 レティシアの指摘で、この特別措置にルーノを守る目的があったのだと知ったくらいだ。

 今の頭脳では、考えが及びつくわけがなかった。



「ふふ、まだまだ経験が足りないわね。その目的は、なんとも人間らしいもんよ。」



 レティシアは笑って、どこか楽しげに語り出した。


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