ドラゴンのことも、人間のことも―――

 正直、あの事件のことを聞いた後のことは、ぼんやりとしか覚えていない。



 頭の中にケンゼルから聞いた話が断片的に響いて、ルカや中央区の人々が見せていた、怯えと憎しみが混ざった表情が走馬灯のように駆け抜ける。



 竜使いと他を分かつ溝の根底にあったのは、〝普通〟という巨大な壁だけではなかった。

 そこにはまだ、真新しい傷があったのだ。



 自分だけが知らなかった現実。

 それは、思った以上に自分の心に重くのしかかった。



 なまりでも引きずっている気分で体を動かしながら、宮殿本部への帰り道を歩く。



 かすみがかかったかのように、はっきりとしない意識。

 それを現実へと引き戻したのは、前方から聞こえてきた慌ただしい足音だった。



「あのたぬき親父……覚えてろよ…っ。五倍にして返す……絶対に…っ」



 息を切らせて廊下の角から出てきた彼は、彼らしくない暴言を吐きながら汗を拭う。



「ジョー…?」



 戸惑いながらも声をかけると、ジョーは弾かれたように顔を上げた。



「キリハ君…っ。大丈夫!? なんともない!? 変なことを吹き込まれたりしなかった!?」

「う、うん……大丈夫。ちょっと、ドラゴンのことを教えてもらっただけだから。」



 勢いよく詰め寄られ、普段の彼からは想像もできない慌てぶりで問いかけられる。

 それにキリハは目をぱちくりとさせながらも、なんとかそう答えた。



 すると。



「……そう。……よかった…っ」



 緊迫していたジョーの表情に、安堵の色が広がっていった。





(ああ……心配してくれたんだ……)





 汗を流して溜め息をつくジョーの姿を見て、痛いほどにそれを感じた。



「――― なんで…っ」

「いった…っ」



 腕を掴むジョーの両手に震えるほどの力がこめられ、キリハは思わず顔を歪める。

 ジョーは目つきを鋭くしてキリハを睨んだ。



「なんで一人でこんな所に来たの!? ディアから、ちらっとでも聞かなかった? ここは、君が想像しているよりもずっと汚い世界なんだよ!? 僕もディアも、必ずしも助けてあげられるとは限らないの!! お願いだから、宮殿本部で大人しく―――」



「ごめん。」



 ジョーの言葉を遮ったのは、弱った声でもなければ戸惑った声でもない。

 りんと澄んでいて、はっきりとした意志を伴った声だった。



「ごめんね。ジョーやディア兄ちゃんが守ってくれてるんだってことは、なんとなく分かってる。でも、俺は知らなきゃいけないんだ。ドラゴンのことも――― 人間のことも。」



 最近は顔を合わせることができていなかったジョーに、キリハは真正面から向き合う。



「俺は、俺が正しいと思ったことを、ただのわがままにしたくない。今は無理でも、自分が言ったことにちゃんと責任を持てるようになりたい。そのためにも、俺は逃げずに色んな事と向き合わなきゃだめなんだ。」



 ジョーの態度を見て分かった。



 当たり前だけど、ディアラントやジョーの中での自分は、まだまだ守るべき子供なのだ。

 色んな事から優しさで目隠しをされて、都合の悪い場面を見ずに済むように守られている。





 ――― でももう、それに甘えていてはいけない。





 《焔乱舞》に選ばれた意味を問うならば。

 それに見合った自分の役目を全うしようと思うなら。



 自分の足でちゃんと立たなければいけない。

 そして、自分の手で答えを掴み取らないといけないのだ。



「………」



 こちらの答えが予想外だったのか、ジョーはひどく驚いた顔をして言葉を失っている。

 そんなジョーに、キリハは淡い笑顔を向けた。



「ありがとう。やっぱりジョーは、自分で言うほど悪い人じゃないよ。俺はジョーのことが好きだし、今回みたいに喧嘩しても、きっと嫌いにはならないと思う。――― ジョーと会えて、本当によかった。」



「―――……」



 どこか呆けたようなジョーの手から、力が抜ける。



 するり、と。

 その手が、キリハの腕から落ちた。



「それじゃ。」



 その隙を見のがさず、キリハはジョーの前から体をずらすと、その場から軽い足取りで走り出した。



(そうだよ。落ち込んでる暇なんてないんだ。)



 他でもない、自分自身に向けて言い聞かせる。



 ショックな事実を知ったからなんだ。

 それを実際に経験した中央区の人々に比べたら、自分が受けたショックも悲しみも微々たるものだろう。



 こんなことで立ち止まれない。

 立ち止まりたくない。



 胸は痛むけど、それでも―――





(それでも俺は、前に進みたい。)




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