人を好きになるということ
当然のことながら、キリハが負傷したことは極秘事項とされ、一連の対応に関わった者には厳しい
下手に騒がれては国民の混乱を招くということと、現場に居合わせた関係者の精神的負担を考慮しての対応だった。
ただ例外として、メイやエリクといったキリハが懇意にしていた一部の人間には、秘密裏にその知らせが届けられたという。
キリハは厳重警戒体制の環境下でフィロア市に搬送され、今は宮殿内の医療施設で深い眠りについている。
目覚める気配がないどころか、宮殿でもしばらくは二十四時間体制の治療と経過観察が必要との判断が下され、ターニャとフール以外には面会謝絶が言い渡された。
それから数日。
コンコン、と小さくドアをノックする。
しかし中からの返事はなく、待てども待てども、無機質で冷たい静寂が存在感を増していくばかりだ。
まあ、なんとなく彼は部屋にいないような気がしていたのだけど。
ふう、と息を吐く。
それで気持ちを切り替えて、次の目的地へ向かうことにした。
一つフロアを下りて、女性用の居住フロアへ。
先ほどそうしたように、目的のドアの前に立ち小さくノック。
すると、今度は少しの時間をかけて鍵を開く音が聞こえた。
そして、ゆっくりとドアが開く。
「なんて顔してるのよ。真っ赤じゃない。」
出迎えてきたその顔に苦笑しつつ、カレンはそっとサーシャの目頭をなでた。
一体どれだけ泣けば、こんなに赤くなるのだろう。
陶磁器のように白かった頬は紅潮していて、目元は見ていられないほどに腫れている。
すっかり
「中、入っていい?」
訊ねると、サーシャはこくんと頷く。
無言で中へと促すサーシャに、カレンもまた無言で応えた。
バスルームやトイレが並ぶ廊下を抜け、小ざっぱりとしたリビングへと入る。
テレビや冷蔵庫といった家具は全て用意されているし、このリビングとは別に寝室まであるのだ。
自分に割り当てられた部屋を見ても思うが、一人で暮らすには広くて豪華すぎる。
やはり国の中心である宮殿ともなると、これくらいが普通なのだろうか。
「待ってて。……お茶くらい、出すから。」
小さなダイニングテーブルをカレンに示して、サーシャはふらふらとキッチンに向かおうとする。
「ちょ…っ。そんなのいいよ。」
カレンは慌ててサーシャを止めた。
「でも……」
歩を進めるサーシャには、制止の声を聞くつもりがないようだ。
カレンは表情をひきつらせる。
自分にお茶を出すことよりも、お茶を出す時に怪我をするリスクを考えてほしい。
今の彼女は、確実に何かやらかすだろう。
だが、これも彼女の厚意だ。
すでにキッチンに入ってしまったのに、無理やりやめさせるのは少々忍びない。
「じゃあ、あたしも手伝うよ。」
サーシャを追ってキッチンに入り、カレンはさっとサーシャの手から水が入った電気ケトルを取り上げた。
「あ…」
「いいのいいの。勝手に押しかけたのはあたしだし、この方が好きなお茶を選べるし。」
あえて図々しい理由を押しつけ、棚に入っていた紅茶の箱を手にしながらサーシャに笑いかける。
すると。
「……そっか。分かった。」
微かに笑って、サーシャは頷いた。
「あたし、コレにしよっと。サーシャは?」
カレンは電気ケトルをプレートにセットしながら適当にティーバッグを選び、サーシャにも箱を見せる。
「えっと……じゃあ、これで。」
「オッケー。」
サーシャの注文を聞き、用意したマグカップにティーバッグを入れる。
無論、サーシャに何かをやらせるつもりはない。
せっかく主導権をもぎ取ったのだ。
防げる危険は未然に防ぐに限る。
「ほんとはね……」
お湯が沸くのを待っていると、サーシャがふと口を開いた。
「ほんとは、こんなんじゃだめだって分かってるの。キリハが大変だからこそ、しっかりしなきゃいけないんだよね。でも……」
「うん……」
カレンは小さく相づちを打って、静かにサーシャの肩を抱き寄せる。
すると、途端にサーシャの両目から透明な雫があふれた。
「つらいの。怖いの。……キリハの声が聞けない。キリハの顔が見れない。キリハに触れられない。それだけで、なんか心にぽっかり穴が開いちゃったみたいに不安で苦しくて…。もう、何がなんだか分からないの。私、おかしくなっちゃったのかな……」
「違うよ。」
強く否定。
そして次に、カレンはサーシャを抱き締める腕に力を込める。
「違うの、サーシャ。よく聞いて。それが、人を好きになるってことなの。その人のことしか考えられなくなって、会えなくなると苦しくて、切なくて…。その人のことは、自分が一番知ってなきゃ嫌だとか、自分のこと以外は見てほしくないとかって思うようになって、そうやって……そうやって、どんどんその人に溺れてくの。恋って、そういうもんなんだよ。」
おかしくなんかない。
力強く、何度もそう言い聞かせる。
初めての感情に、サーシャは戸惑っているのだろう。
けれど彼女に、今の感情をおかしいものだと否定してほしくなかった。
その気持ちは自分にだって痛いほど共感できる、当然の感情だから。
「ごめんね……ありがとう、カレンちゃん。」
そう言って涙を拭うサーシャの背を、カレンは母親のように優しくさすった。
様子を見に来てよかった。
昔から打たれ弱い子だったので、心配だったのだ。
キリハが来てからはかなり前向きになっていたので安心していたが、そのキリハが面会謝絶という状況になり、サーシャの精神はこれまで以上に不安定になっていると見える。
カレンは目を伏せる。
「なんか……あたしたち、バラバラだね……」
気づけば、その一言が口から零れていた。
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