第20話 『黛 綾乃』 その5

 強烈な光と大げさすぎる音は、まるで夏の夕暮れを洗い流す雨のよう。

 本物の雨に降られれば身体は冷やされるものだが……綾乃あやのに向けられているのはカメラだった。

 フラッシュが焚かれるたびに、シャッター音が響くたびに身体が火照る。心が昂る。

 スタジオの中心で肌も露わな水着姿を披露している綾乃は、カメラマンの指示に応えてポーズをキメながら、いつものように熱っぽい吐息を吐き出した。

 最初は羞恥心に身を縮こまらせて。

 身も心も暖まって来れば、より大胆に。

 これはグラビアアイドル『まゆずみ あやの』のお約束。


「ふぅ」


 潤んだ瞳と長いまつげ、桃色に艶めく唇。チロリと覗く舌。

 現場は綾乃につられて熱気を帯び、シャッターが加速する。

 いつもと同じテンションアップに見えて――まるで違った。


「いいよ、いいよ。今日の『あやのん』は最高だ! ラスト、今日一番の笑顔頂戴!」


 興奮が滲む指示に従い、綾乃は声を出さずに自然な笑みを浮かべた。

 一番いい笑顔を作るには、一番最高の記憶を思い出すのがいい。


大樹たいじゅ……)


 脳裏によぎるは想いを確かめ合った最愛の恋人との熱く激しい一夜の記憶。

 整いすぎた顔がほころび、恍惚とした表情が華やぎを増した。

 ただそれだけで――カメラマンの手が止まった。

 息を呑む音が聞こえて、音が止まる。

 スタジオに沈黙が降りた。


(ん?)


 シャッター音は聞こえなかった。

 つまり、まだ撮影は終わっていない。

 意識がフワフワしていても、耳は音を捉えている。

 何か失敗しただろうかと、俄かに心配が込み上げてくる。


「あの……」


「あ、ああ、ごめん。もう一回、今のお願いできるかな?」


 珍しいと思ったが、腹は立たなかった。

 誰だってミスはある。

 綾乃だってミスはあった。

 怒られはしたが、鍛えられもした。

 今日イチの笑顔がフイになったのは残念だったけれど――


「はい」


 頷いて……もう一度。

 再び記憶を甦らせて、思いを馳せて。

 ゴクリと誰かの喉が鳴る音にシャッター音が続いた。


「うん、ありがとう! ハイっ、今日はこれでオッケーです!」


「ふぅ」


 カメラマンのOKが出ると同時に、現場の空気が軽く揺れた。

 誰もが我を忘れて『黛 あやの』に溺れていた。


「綾乃、お疲れ様」


「ありがとうございます、麻里さん」


 マネージャーである麻里まりが裸の身体にバスローブを羽織らせてくる。

 薄くのしかかる重みこそ、今日の撮影が終了した合図であった。

 用意されていた椅子に腰を下ろし、身体を弛緩させる。


「やぁ……さっきはゴメンね、『あやのん』」


 軽く身体を解していると、傍に寄ってきたカメラマンに頭を下げられた。

 業界で20年以上様々な女性を撮影してきたプロ中のプロにそんなことをされると、いまだデビューして1年と少々しか実績のない新人としては恐縮せざるを得ない。

 慌てて立ち上がって、綾乃も頭を下げる。

 グラビアアイドルとカメラマン。

 表向きには『黛 あやの』が主役だが、業界におけるキャリアはカメラマンの方が圧倒的に上だった。


「今日はありがとうございました。すっごく気分よく頑張れました!」


「いや、僕の方こそ楽しかったよ。他のみんなもそうじゃないかな?」


 厳めし気な顔に穏やかな笑みを浮かべたカメラマンがスタジオを見回すと、他のスタッフも同意を示すようにうんうんと頷いた。


「そんな、あの……どこか変じゃなかったですか?」


 最後のリテイクは気になっていた。

 最高の笑顔を見せたつもりだっただけに。

 直せるところは即座にチェックしておきたい。

 自分でわからないところは、素直に聞くのが一番。

 この現場に名を連ねているのは、いずれも広く知られた先達ばかり。

 レッスンだけでなく現場ごとに学びがあり、自分でも伸びしろを感じている。


「変だなんてとんでもない。最後なんて良すぎて手が動かなかったって、ありゃ僕の方が悪かったよ。いや、マジで」


 そう言って見せてくれたのは、撮り直した最後の1枚。

 仰向けに寝そべった『黛 あやの』が、満面に笑みを浮かべていた。

 咲き誇る花のようにも、獲物を前にした獣のようにも見えた。

 こんな顔をしていたのかと驚いて、目をぱちぱちさせてしまう。

 最高の思い出に浸ってたはずなのに、これではまるで――


「もう1回って言ったら機嫌悪くするかなって思ったら、もっといいのが来てビックリした。ホント、今日の『あやのん』は気合入ってるね。『神は細部に宿る』って言うけど、ひとつひとつの仕草がイチイチ可愛いし、これまでよりもずっとエロい」


「……別に悪いとかそんなこと思ってませんし、私もいつもみなさんに助けてもらってばかりですので。これからも、よろしくおねがいします」


「はぁ……ほんといきなり成長したなぁ。僕も何十年にもわたって数えきれないほどグラビアアイドルを撮ってきたけど、こんなに一気に伸びる瞬間に立ち会った経験なんてほとんどないよ」


「えっと、ありがとうございます?」


「はは……これ、お追従とかじゃないから。僕が被写体に目を奪われて手を止めたなんて初めてだから。麻里クン、何かアドバイスしてあげたの?」


 綾乃のマネージャーである麻里は、元グラビアクイーンでもある。

 綾乃にとっては頼りになる大先輩であり、今となっては本当の家族よりも、よほど彼女の方が心身ともに距離が近しい。

 もはや母親――と言うと本人が激怒するので姉同然の存在である彼女は、この業界にあってはトップに君臨していた特別な存在でもある。このカメラマンが撮った麻里の写真集は綾乃も目にしたことがある。ため息が出るほどの出来栄えで見る者の心を鷲掴みにしてくる彼女の写真集は、かつてのベストセラーだった。

 すぐ傍にいるのが信じられないほど、自分をスカウトして育ててくれているということが信じられないほど遠く、そして高みに至った人。

 同じ業界に身を投じたからこそ、その偉大さを思い知らされる。

 麻里は――首を横に振った。


「いえ、私は何も。この子が勝手に成長してるだけですので」


「へぇ……それは本当に凄いよ。麻里クンの後を継いで未来のクイーンに、あながち冗談じゃなくなってきたね」


「私、そんなこと言われてたんですか?」


「あれ、聞いてない? 麻里クンがべったりだから期待されてるんじゃないかって」


 綾乃とカメラマンの視線が麻里に向かう。

 麻里は肩を竦めてため息ひとつ。


「綾乃、あんまり調子に乗らないように」


「乗りませんよ。そんな簡単に麻里さんに追いつけるとか全然思ってませんから」


 明らか過ぎるマネージャーの照れ隠しに素で返した。

 綾乃の即答に、麻里はため息をもうひとつ。


「綾乃……あなたはもう少し野心を持った方がいいわ」


「どっちなんですか、もう!?」


 グラビアアイドルとマネージャーであり、姉と妹のようであり、そして師弟でもある。

 元クイーンと未来のクイーン(候補)の即興漫才に、現場が湧いた。





「で、ヤったの?」


 スタジオを出て車に乗って。

 運転席には麻里が、助手席には綾乃が。

 事務所に帰る道すがら、前置きもなく麻里が綾乃に問いかけた。

 車はお世辞にも大きいとは言えなくて、ふたりのほかに人はいない。

 密談するには最適なシチュエーションであることは、綾乃にも理解できている。


「……いきなり何の話ですか?」


 何を言われているのかは瞬時に理解できたけど、あまりにもあけすけすぎる。

 学校のクラスメート——思春期女子の集まりですら、ここまでストレートに聞かれたりはしない。

 綾乃と麻里。

 ふたりきりだからこそ出てくる話題ではあったけれど……もう少しデリケートに扱ってほしい話題でもあった。

 ふくれっ面で口を閉ざしていると、ここぞとばかりに麻里が追撃してくる。


「あなたが変わったのは、この前の撮影会から。あのカメラ持って突っ立ってたの、あれ、あなたの彼氏でしょ? ショック受けてた彼にカメラ持って行ってあげて、それから変わったってことは……何かあったってことじゃない?」


 ベテランのカメラマンをして変わったと言わしめた理由は、当然のごとくバレていた。

 あの時、置き忘れていたカメラを大樹の家に持って行ったのは綾乃の意思だった。

 大樹に会わなければならない。

 大樹と話をしなければならない。


『私の……私たちの話を聞いてください』

 

 湧きあがる思いに従って、訝しむ麻里に事情を話してカメラを受け取った。

 くすのき家まで車を走らせてくれたのは、ほかならぬ麻里だった。

 事情はすべて話している。ごまかしは効かない。

 

(あの時、グラビアアイドル『黛 あやの』は一度死んだようなもの)


 芸能界がどうとか、スキャンダルがどうとか。

 余計なことは全部頭から吹き飛んだ。

 プロとして無責任だった。

 二者択一だと思った。

 大樹か仕事か。

 覚悟を決めて大樹と向かい合い――結果として、すべてを手に入れた。

 あの日あの時あの場所こそ、きっと『黛 綾乃』の幸福の絶頂――ではなくて、あそこから、もう一度始めようと思えた。

 生まれ変わった『黛 あやの』の始まりは……


「……何もやってません」


 喉を通って出てきた声は、あまりにも苦かった。

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