第14話 あの子が水着に着替えたら その12
「俺はお前を傷つけたくない。苦しめたくない。もちろん俺だって傷つきたくない。でも、それでも……
告白の言葉にしては、ずいぶんと物騒なものになった。
呆れはしたが、後悔はしていない。
心の底からの言葉であることには、間違いないのだから。
「え? え?」
「グラビアアイドルやりたいってんならやればいい。女優になってキスシーンだのベッドシーンだってやればいい。だってさ……せっかくやりたいこと見つかったんだろ?」
「
「俺は、お前の邪魔だけはしたくない。お前がどれだけ勉強頑張ってたか、中学校の頃からずっと傍で見てきた。全然嬉しいことなかったよな。楽しいことなかったよな。勉強なんてやりたくなかったよな。そんなお前がさ、やりたいって胸を張れることを見つけたんだろ。羨ましいよ。俺なんて……自分がやりたいこと全然見つからねーよ。そりゃお前が犯罪に足を突っ込むとかだったら何が何でも止めるけど……やりたいって思うこと見つけられたんだろ。だったら……だったら思いっきりやってみろよ」
中学校の頃の綾乃の姿が思い出される。
ずっと俯いて何かに耐えていた。憂鬱な顔をしていた。
周囲から向けられる性的欲望や、母親からの過剰なプレッシャーと戦っているのだと思った。
そう思っていたけれど、きっとそれだけではなかった。
『
好きでもないことを強要されて、頑張っても褒められない。
そこに喜びも楽しみも何もなかった。だから、日々がつまらなかった。
いいことがないのに悪いことばかりが積み重なる毎日が幸せなわけがない。
それに比べて今はどうだ。
背筋を伸ばして前を見て笑顔を浮かべる。
笑顔だけじゃない。表情がずっと豊かになった。
溌溂としている。滑舌も良くなった。明るい会話が増えた。
平たく言えば生き生きとしている。毎日が充実しているからだろう。
楽しいことが、やりたいことが見つかったから、忙しくても日々に喜びがある。
昔の綾乃に向けた恋心の中には、少なからず憐憫があった。
今の綾乃に向けられる恋心の中には、憧憬と嫉妬がある。
将来への展望がない自分と比べて凹むこともある。
それでも『
大切なのは……きっと、ただそれだけのこと。
「でも、それじゃ大樹が……」
「気にすんな、俺のことなんて。俺はお前がエロい水着でエロい格好すれば七転八倒するだろうし、誰かとイチャイチャしてたら頭がおかしくなるかもしれねーけど、でも、それだけだ。たったそれだけだ。そんなことよりも、俺はお前のことが大好きで、お前のことが大切だ。お前を幸せにするためだったら、何だってできる。何だって耐えられる」
たった一回撮影会に参加しただけで呆然自失してしまった自分が、これからステップアップしていく綾乃の傍にいれば、どれほどの精神的ダメージを負うことになるか想像もつかない。
でも――その傷は、綾乃と道を違えることに比べれば、どうということはない。
ここで綾乃と別れたら、きっと生涯後悔する。
綾乃は『大樹を傷つけたくないから別れる』と口にしていたが……今ここで彼女と別れて手に入れられる心の平穏は、ほんのひと時だけのものに過ぎない。
ひと時の平穏。
それはそれで価値があるものだろう。
でも……見たくないものから目を逸らしてやり過ごした後に、心を落ち着けて顧みれば。
その先に待ち受けているのは、終わりのない絶望に違いない。
『あの時、別れるなんて言われなければ』
そんな言葉が心の中に渦巻いて、綾乃に見当違いの憎悪を抱くかもしれない。
最悪だ。
「我ながら情けない告白だったし、お前が俺のこと信じられないのも無理はない。何しろ今日の俺は言い訳できないくらいダサかったからな。でもよ……虫のいい話だって思うけどよ……せっかく両想いだってわかって、なのに、何も始めないまま終わりにしようなんて、そんなの辛過ぎるだろ」
気にするなと言っても、綾乃は気にすると思う。
大樹が知る『黛 綾乃』は基本的に生真面目な人間だ。
バージョンアップしたところで根本の部分は変わっていない。
彼氏を放って他の男に色気を振りまく自分に嫌悪感を抱くかもしれない。
それは『自分を好きになりたい』と言っていた彼女の目的に反するかもしれない。
「綾乃……傷つくの、嫌か?」
「……嫌だよ。でも、大樹を傷つける方が、もっと嫌」
綾乃らしいなと思った。
誰だって傷つきたくはない。
それでも、綾乃は自分が傷つく以上に大樹が傷つくことを恐れている。
大樹だって綾乃を傷つけたくはない。言うまでもないし、言われるまでもない。
思い合う気持ちがあったとしても、綾乃の活躍を目にすれば大樹は心に傷を負う。
自分が仕事に邁進した結果として心に傷を負った大樹を目にした綾乃も傷を負う。
たとえふたりの想いに行き違いがなかったとしても、おそらくはそうなるだろう。
「そっか、そうだよな。そりゃそうだ。でもよ……いいじゃねーか、傷ついたって」
「大樹?」
ふわりと浮いた声が耳朶を打つ。
訝しげな眼差しを肌で感じる。
「いいじゃねーか、ふたりで傷だらけになったって。お前、俺のこと好きって言ってくれたよな。遅くなっちまったけど、嬉しかった。今日は俺にとって人生最悪の日だったけど、人生最高の日になったよ。ずっと好きだったお前に好きって言ってもらえて……そんなの幸せに決まってるだろ。こんなに幸せ過ぎるのに、それがこれっきりだなんて言われてバカみたいに頷いてられねーって」
『黛 綾乃』に好かれて愛されて、『楠 大樹』は最高に幸せだ。
綾乃を捨てるとか別れるなんて冗談じゃない。絶対NOだ。
意地でも食い下がる。たとえどんなに格好つかなくとも。
「大樹、でも……私、怖いよ」
「正直、俺も怖い。調子に乗って言いたい放題言ったけど、割と自信ない」
綾乃の声に生気は戻らない。
身体はいまだに小刻みに震えていて、それは大樹も同じだった。
見栄を張って大言ぶちかましては見たものの、心の中は不安でいっぱいだった。
『黛 あやの』撮影会で目にした現実のショックは、多少の言葉や決意では覆しきれないほどに大きかった。
今でさえこの有様なのだ。これから彼女がどんどん大きな存在になっていったら――それは大樹の心に占める割合的な意味であり、同時に芸能人としてメジャーにのし上がっていく意味でもある――未来を思い描こうとするだけでも恐怖で正気を失いかねない。
「だったら!」
「でもなぁ、俺……お前のこと諦めたくないんだよ」
しみじみと言った。
結局のところ、それが本音だった。
昔からずっと好きな人に好きと言われた。
せっかく気持ちが通じ合ったのに、何もせずに諦めるなんてもったいなさすぎる。
身も蓋もないし率直すぎるとは思うものの、ここで終わりなんてどうしても釈然としない。
たとえどれだけ心に傷を負うことになろうとも、悪あがきのひとつも試してみたくなるほどには『楠 大樹』は『黛 綾乃』を愛している。
「それは……私もそうだけど」
ぐずりながら。
ひくひくとしゃくりあげながら。
いまだに涙を流しながら、それでも綾乃は首を縦に振ってくれた。
「俺さ、俺……笑ってる綾乃が好きだよ。仕事のおかげで笑えるようになったんなら、俺にとってもお前がグラビアアイドルやるの大歓迎だよ。だから『仕事と俺とどっちが大事なんだ?』なんて言わねーよ」
「仕事と私と……って、それ私のセリフじゃない?」
「最近は男女平等ってうるさいからなぁ。男が言うパターンもあるんじゃないか」
「こんな平等、嫌すぎるよ……」
綾乃の声に笑みが滲む。
瞳に光が戻ってきた。
いい傾向だと思った。
片想いはひとりでできるけど……両想いはふたりでするものだから、大樹ひとりが息巻いてもどうにもならない。
綾乃がやる気になってくれないと話は始められない。
でも……綾乃はきっと応じてくれると信じていた。
「ま、それはともかくさ……やれるところまでやってやろうぜ」
「ダメだったら?」
心細げに見上げてくる綾乃に笑みを返した。
自分でもハッキリわかるくらいに引き攣った笑みだった。
「最初からダメになったときのことを考えてたら何にもできないだろ?」
「……それは、そうだね」
今さらながらに綾乃の瞳からあふれる涙を不器用に拭った。
こういうところでサッと動けない自分は、ちょっと嫌だった。
「大樹、本当にいいの? 私、大樹の彼女になっていいの?」
「それ、俺のセリフな。俺こそお前の彼氏になっていいのか?」
沈黙があった。
お互いに見つめ合いながら、唇を震わせながら。
やがて、綾乃の手が伸びてきて大樹の目の縁をそっと拭った。
指先の感触。いつの間にか自分も涙を流していたのだと、ようやく気付いた。
「……いい」
「聞こえない」
「いい。好き。大好き。もう絶対離さないから。私、私……大樹のこと、メチャクチャにしちゃうんだから」
「おう。俺もお前のことメチャクチャにしてやるから、覚悟しろよ」
言うなり同意を得ることなく綾乃の肩に手をまわして、そっと抱き寄せた。
初めて自分から触れる綾乃の肌は、想像以上に滑らかでやわらかで、暖かくて。
無言で自分に身体を預けてくれる綾乃から漂う香りが強烈に脳を揺さぶってきた。
「……ありがとう。私を好きになってくれて。私、嬉しい。幸せ過ぎて死にそう」
「ダサいことして悪かったな。これからもダサいと思うけど……努力はする。あと、勝手に死ぬな」
「ダサいままでいいよ。どんな大樹だって、私、大好きだから」
「いや、それは男としてちょっと……」
「うん、うん」
「……ま、いいか」
ふたり揃って首を縦に振った。
何を頷いているのか、お互いに理解できていない。
それでも、大樹も綾乃も『うん……うん』と頷き続けた。
声が再び湿り気を帯びて、嗚咽に代わった。
大樹も綾乃も、それ以上は言葉にならなかった。
お互いに身を寄せ合って、お互いの体温を感じあって。
永らく噛み合わず、ずっとすれ違い続けたふたりが、ようやくひとつになれた。
さして広くもない部屋の、さして広くもないベッドの上で、心も身体も幸福に満たされていった。
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