第6話 たりなかったもの その1
ゆっくりと目蓋を開けると、見慣れた顔がのぞき込んでいた。
曖昧な視界でも誰だかわかる。わからないわけがない。
『
軽やかなショートボブの黒髪。
整いすぎた顔立ちに、大粒の黒い瞳。
僅かに白い歯が覗く、桃色に艶めいた唇。
「……
夢を見ていた自覚はあった。
だから、目を覚ました今が現実であることも自覚している。
たとえ脳みそが寝ぼけたままであろうとも。
自室のベッドに横になっていて、自分の手を綾乃が握りしめている。
夢の最後で感じた手の感触は、間違いなく大樹がよく知る綾乃のものだった。
夢の最後で聞こえた叫び声は、間違いなく大樹がよく知る綾乃のものだった。
上体を起こして軽く頭を振って眠気を飛ばす。
僅かに頭が重い。喉も痛みを発している。
全身に倦怠感が残っている。
『風邪か?』と訝しんでいたら、綾乃の手が伸びてきて額に添えられる。
滑らかで暖かい手のひらに躊躇いはなかった。
「うん、大丈夫。熱はないみたいね」
「綾乃、どうしてここに?」
唐突なボディタッチに気恥ずかしさを覚えたものの、振り払うことはできなかった。
さすがに鼻血は出ないにしても、ないと綾乃が言ったはずの熱が溢れ出そうではあった。
ゴホゴホとわざとらしい咳払い。
わずかに背筋を逸らせながら疑問を口にする。
一方でベッドの脇に膝立ちしている綾乃に目を走らせることも忘れない。
綾乃は――撮影会で鮮烈なまでに意識に刻み込まれた水着姿ではなかった。
先日ショッピングモールへ行った時とは違い、身体のラインがはっきりとわかる服。
鼻先に眼鏡が載せられておらず、つまり自身が人気急上昇中のグラビアアイドル『
大樹の記憶にある限りでは、ここ最近の綾乃がこんな格好をしているのは珍しい。
学校以外で自分の前に姿を現すときは、たいてい身バレしないよう地味な姿をしていたはずなのに。
「どうしてって……その……」
「つーか、そんな格好で外を出歩いてて大丈夫なのか?」
声に皮肉が混じってしまった。
綾乃の身体がビクリと跳ねる。
手のひら越しに伝わってきた感情は、驚きだけではなかった。
「アンタが雨に降られてずぶ濡れだったって聞かされたのよ。心配したんだから」
「だからって……」
「家になんてイチイチ帰ってられるわけないじゃないって言ってるの!」
「お、おう」
物凄い剣幕だった。
思わず身を引いて向き直る。
大樹に向けられる眼差しには怒りがあって、安堵があった。
グラビアアイドル『黛 あやの』が見せる演技じみた表情ではなかった。
ずっと傍で目にしてきた『黛 綾乃』の顔がそこにあった。
怒られているにもかかわらず、ほんのり胸の奥が暖かくなって――耳に入ってきた言葉を頭の中で反芻して、大樹は首を傾げた。
「……ちょっと待て、聞かされたって誰に?」
「
「あ、そっか。秀美さんか」
食い気味な答えに納得した。
大樹を家まで送ってくれたのは、かつて綾乃に告白してフラれた『
秀美は何の脈絡もなく大樹の前に姿を現した。
あまりにもできすぎたタイミングだった。
本人は偶然を強調していたが、地元でもない街で何の目的もなく車を走らせるなんてことがあるのだろうかと、今さらながらに訝しまざるを得ない。
付け加えるならば、いきなり降ってきた大雨の中だった。
誰かから情報を得ていないとありえない展開だったし、彼女に情報を流すことができたのは考えられる範囲では綾乃だけしかいない。
言質は取れなかったが、きっと――
「何その反応」
「何ってお前、そりゃ……あの人は……」
『お前があらかじめ話を通していたんじゃないのか?』
そう続けようとした大樹の鼻先に、綾乃はスマートフォンを突き付けてくる。
大樹のものではない。綾乃のものだった。
今を時めくグラビアアイドルが持つにしてはシンプル過ぎる端末、そのディスプレイに表示されていたのは――綾乃と秀美のトーク画面。
※※※※※
秀美
『大樹くん拾った』
綾乃
『え? どういうことです?』
秀美
『雨の中を捨てられた犬みたいにとぼとぼ歩いてた』
秀美
『かわいいね。犬系男子』
綾乃
『変なこと言わないでください』
綾乃
『……大樹、何か言ってますか?』
秀美
『な~んにも。でも、ちょっと疲れてるっぽいね』
秀美
『お姉さん、お家まで送ってあげようと思うんだけど場所がわからなくって』
綾乃
『ここです』
※
秀美
『ありがと~、ちゃんと送るから安心してね』
綾乃
『こちらこそ、ありがとうございます』
綾乃
『あの』
秀美
『貸し1で』
綾乃
『……話はあとで伺いますから』
秀美
『わぁい』
※※※※※
ひととおり会話を見た限り、綾乃が秀美を遣わしたというのは大樹の妄想に過ぎなかったらしい。大樹を乗せて車を走らせていた秀美が、どこに向かえばいいかわからずに綾乃にヘルプを求め、そこで綾乃は大樹の状態を知り、取るものもとりあえず家に駆けつけてくれた。
だから普段の外出時に着るような地味目な服を用意している暇もなかった。
それどころか、変装用の眼鏡をかけるほどの余裕すらなかった。
そういう流れのようだった。
「いきなりこんなメッセージが送られてきて、私がどれだけ心配したか……ただでさえ今日のアンタは」
「今日の俺は、なんだよ?」
ぶっきらぼうに尋ね返すと、綾乃は大きく目を見開いた。
それは驚愕の表情に他ならず、眉を寄せた大樹の前で綾乃は自分の額に手を当ててため息ひとつ。わざとらしげに小さく頭を振った。
空気を孕んだショートボブの髪が揺れる。
撮影会の時にはきれいに整えられていた黒髪が、わずかに乱れていた。
――珍しいな。
綾乃は高校に入ってから、あるいは芸能界に入ってから、人前ではかなり髪型を気にしている素振りを見せていたのに。
学校のそこかしこで目に入る他の女子並みか、それ以上に。
『何気ないように見えるかもしれないけど、これ、結構頑張ってセットしてるから』
肩を竦めながら微笑む姿を何度となく目にしてきたはずなのに。
大樹の目の前で複雑な表情を顔に載せている今の綾乃は、髪型の乱れなんてまったく気にしている様子はなかった。
そんな彼女は――中学三年生の頃の姿を思い出させた。
先ほど夢に見ていたせいかもしれない。
「そっか、自分ではわかんないか」
「綾乃?」
「大樹、これ」
訝しむ大樹の前に綾乃が差し出したのは、くしゃくしゃの紙だった。
その正体に気づいた瞬間、大樹はひゅっと喉を鳴らした。
紙ではなくて――写真だった。
水着姿の綾乃と自分が写っているその写真は、撮影会の最後に撮ったチェキだった。
頭の中を無遠慮な手がかき混ぜて、思い出したくもない記憶を掬い上げてくる。
白い肌。柔らかい曲線を描く肌。
水着。自分が選んだものではない水着。
笑顔。ファンに――自分以外の異性に向けられた笑顔。
一部始終を目に焼き付けた。ほかならぬ大樹自身が綾乃に告げたとおりに。
無意識に胸を抑えた。締め付けられる感覚に息が苦しくなる。
全身からおかしな汗が噴き出して、6月の空気と混じって不快感が半端ない。
自室のベッドで眠っている間に綾乃が傍にいて、あまつさえ手を握ってくれているというシチュエーションのせいで吹っ飛んでいた黒い感情が胸の奥でドロリと蠢き、心がかき乱される。
「こんな顔して……」
「……仏頂面で悪かったな」
写真の中の大樹は思いっきり不貞腐れていた。
それを言うなら綾乃だって不貞腐れている。お互い様だった。
少なくともファンとのツーショットで見せていい顔ではないはずだ。
「でもよ……」
「仏頂面は別に今に始まったことじゃないから気にしてない。そうじゃなくって、こんな血の気が引いた真っ白な顔して……本当に心配したんだから」
『お前だって大概だろ』と反論しようとした大樹の声に、綾乃の声が重ねられる。
キッと睨みつけようとして、気付く。
喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
ギリギリセーフ。感情のままに叫んでいたら終わっていた。
何が?
きっとすべてが。
「綾乃……お前」
綾乃の声は小刻みに震えていた。
まるで何かをこらえているような顔。
しっかり整えられたままの目じりには水滴が溢れている。
今にも泣きだしそうな綾乃の顔を間近で見せられて、今度こそ大樹の息の根は止まった。
恐る恐る写真を見直すと……確かに自分の顔は蒼白で、どう見てもまともではなかった。
この顔で雨の中をフラフラと歩いているなんて、最悪の展開が脳裏をよぎってもおかしくない。
綾乃の心配はもっともだった。
「……悪い、心配かけた」
謝罪の言葉は、自分でも驚くほど素直に口から零れ落ちた。
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