第4章

第1話 土砂降りの中を その1

 ガラス一枚隔てた外は滝のような雨ですこぶる視界が悪かった。

 黒い雲に覆われた空はどこまでも重く、車を叩く音はいつまでも喧しい。

 

「あの……」


 恐る恐る大樹たいじゅが声をかけた相手は、運転席でハンドルを操る女性だった。

 ほんの少し年上なだけなのに、ゴージャスなオーラをまとっているその女性は『池上 秀美いけがみ ひでみ』という。

 大樹の……大樹とともに高校受験を戦った同志であり今や現役グラビアアイドルでもある『黛 綾乃まゆずみ あやの』に告白した同級生『池上 秀一いけがみ しゅういち』の姉だった。

 以前にショッピングモールで一度だけ顔を合わせただけだし、連絡先こそ交換したものの一度たりとも活用したこともない。その程度の間柄だった。

 そんなほとんど縁もゆかりもない彼女の車に大樹は乗せられていた。


「タオルが横にあるでしょ、風邪ひかないようにさっさと拭きなさい」


「は、はぁ」


 隣の座席には確かにタオルがあった。

 秀美の車は楠家のそれよりも大きくて、グレードが高い。

 車に詳しくない大樹でも名前ぐらい耳にしたことのある高級車の座席を濡らしてしまっていることに申し訳なさが込み上げてくる。

 しかし――


「なんでバスタオル?」


「……」


 小さく呟いた問いに、答えは返ってこなかった。

 広い座席にバスタオルが畳んで置かれている。

 ちょっとしたホラー味すらあった。

 バックミラーで秀美の様子を窺うと『さっさと拭け』と瞳が物語っている。

 車内は適温に保たれているはずだが、ほんのわずかに寒気がした。

 已む無く大樹はバスタオルで頭を拭いて手足を拭いて――


「あ、服も脱いで大丈夫よ」


「こんなところで脱ぎませんよ」


 降水確率20パーセントだったくせに豪快に降ってきた雨のおかげで全身ずぶ濡れで、頭のてっぺんから足のつま先まで丸ごとやられた。服を着たままプールにでも飛び込んだのかと呆れるほどの有様で不快感は半端なかったが、さすがに走行中の車の中で脱ぐ度胸はなかった。

 なにしろ外から丸見えなのだ。

 男が服を脱ぐ姿が丸見えなのだ。

 恥ずかしさはあるが、それ以上に危ないと思った。

 下手すると警察がすっ飛んできかねない。


「あの……秀美さん、何でこんなところに?」


 口を突いて出た疑問は当然のものだった。

 ここは大樹たちの地元ではない。

 秀美たちの家がどこにあるのかは知らないが……彼女の弟である秀一は、そもそも電車通学でなかったと記憶している。

 つまり池上家は大樹たちが通っている学校から割と近い。絶対にこの辺りではない。

 どうして彼女がここにいるのか、率直に疑問だった。

 大樹がこの地を訪れた理由は、ある。

 綾乃の――『黛 あやの』の水着撮影会に参加したからだ。

 撮影会を終えて、見知らぬ街をフラフラと歩いていたら雨に降られた。

 途方に暮れていたところに通りかかったのが秀美の車だった。地元から遠く離れたこの街で。

 これを偶然で片づけるのは、かなり無理がある。


「ん~、別に。だって今日は日曜日じゃない。遊びの帰りよ、帰り」


「帰りって……何もないんですけど」


 座席を見回しても、どこかへ出かけて何かをしたと言った痕跡はなかった。

 ただのドライブだとしても、もう少し荷物があるだろうに。

 ……にもかかわらず、取ってつけたようにバスタオルがある。

 わけがわからない。


「じゃあ、大樹くんが心配だったから迎えに来たの」


「……」


『じゃあ』って何ですか?

 ツッコミ待ちかよと笑い飛ばしたかったが、笑い飛ばせなかった。

 秀美の声は多分に揶揄い交じりだったが、見るからに高級な車のわりに殺風景極まりない車内を見る限りでは、遊びの帰りに偶然云々よりも信ぴょう性は高かった。

 ただ――そうなると別の疑問が湧いてくる。


「どうしてですか?」


 どうして秀美が大樹の心配をするのか?

 秀美が大樹の何を心配するのか?

 どちらもわからない。


「私だって『あやのん』のファンだし、SNSはチェックしてるし、今日が撮影会だって知ってるし」


 あっけらかんとした秀美の答えに頷いた。

 厳密には問いに対する回答にはなっていないが……それはそれとして秀美が撮影会の情報を知っていることは別におかしなことではない。

 秀美の弟である秀一だって知っていた。

 そこまではいい。

 でも、撮影会があったとして、それがいったい何なのか。

 大樹は自分が参加することを誰にも告げていない。

 自分以外にそのことを知っているとすれば、それはイベントを運営する綾乃周辺の人間からのリークがあったと考えざるを得ないのだが……いや、


「……綾乃から、何か言われました?」


 ぼそりと零れた声に返事はなかった。

 タイヤが水を切る音と、ワイパーが窓を拭く音。

 雨が車を叩く音。他には何も聞こえない。

 車内は重苦しい沈黙に満たされた。


「な~んてね。さっきも言ったとおり、私はこの辺で遊んでただけ。たまたま帰り道で濡れネズミだった顔見知りを見たから放っておけなかった。それだけそれだけ」


「……そっすか」


 秀美はことのほか綾乃のことを気に言っているし、ふたりは連絡先を交換している。

 綾乃から『大樹が撮影会に参加する』と告げられていてもおかしくはない。

 ……その場合、綾乃の意図が掴めないのだが。


――アイツ、何がしたいんだ?


 撮影会に参加すると知るなりアルバイト先の喫茶店まで押しかけて文句を口にして。

 参加の意思は変わらないと意地を張ったら、今度は撮影会の注意事項をメッセージで送りつけて。

 当日になると、今までに見たことのない姿を披露して。

 大樹の前で他のファンと楽しそうにしていて。

 自分には『何しに来たの?』なんて悪態ついて。

 たった一回顔を会わせただけの秀美をタクシー代わりに使うなんて。

 ひとつひとつピックアップしてみても、ここ最近の綾乃の言動は何もかもがチグハグで、説明がつかない。

 わけがわからなかった。


「大樹くん、撮影会に参加したんだ?」


「……ええ」


 今度は静かな声だった。真剣な問いだった。

 この声だけを聴いていれば、彼女の背後に綾乃がいるとは想像できなかったに違いない。

 どうせ本人から聞かされているのだろうから隠す必要はないと思った。

 それでも……たった二文字を喉から絞り出すのが、ひどく億劫だった。


「勇気あるね」


「なんですか、それ?」


 この状況に勇気という言葉は似つかわしくない。

 特に自分には縁のない言葉だと自嘲の笑みすら浮かんでしまう。


「だって、自分の好きな子が水着姿になって自分以外の誰かと仲良くおしゃべりしたり写真撮られたりするところを直に見せられるんでしょ。うちの弟はできなかったよ」


「……別に俺はアイツの彼氏でも何でもないし」


「え? 聞こえない」


 言葉に詰まる。

『聞こえているくせに』なんて反論できなかった。

 秀美が何を求めているのかは、言われなくとも理解できていた。

 でも……促されても、せり上がる吐き気にも似た情動が喉に詰まって口に辿り着かない。

 答える義理はないと思った。

 答えなければならないとも思った。

 綾乃と自分のために、雨の中をわざわざ迎えに来てくれた秀美に対する誠意だと思った。

 胸元を抑えてゆっくり息を吸って、吐いて、吸って吐いて。

 時間をかけて震える唇から漏れた声は、ひどくひび割れていた。


「それは……俺の認識が甘かったからだと思います。勇気があったんじゃなくって、現実から目を背けてただけです」


「現実」


 大樹は頷いて、そのまま俯いた。

 バックミラー越しとは言え、秀美の顔を見ていられなかった。

 胸中に渦巻く思いは、あまりにも身勝手で醜くて、とても人に聞かせるようなものではなかった。

 一方で誰かに聞いてほしいとも思った。

 ひとりで抱え込むには辛過ぎて、吐き出さずにはいられなかった。


「アイツがグラビアアイドルになったって聞いて、実際に写真がインターネットや雑誌に載るようになって。でも、それはプロのカメラマンが仕事として撮影してるから、別に疚しいことは何もないって、ずっとそう思ってました。」


「違った?」


 即答はできなかった。

 肯定だった。

 17歳の少女が肌を露わにして、金を払った男たちが群がって写真を撮る。

 親しげに語りかけて、あまつさえ手を握る。いかがわしいと思った。

 しかし……事ここに及んでなお、大樹は首を縦に振ることができなかった。


「……わかりません。でも、アイツがあんな格好で顔も名前も知らないどこかの誰かの前に立って、素直に言うこと聞いて、その……そういうポーズをとって写真撮られて、それも何人も何人も。しかもそれが永遠に残るって、インターネットにアップされたら全世界の人間の目に晒されるって……今まで自分が知ろうとしなかっただけで、それはずっと繰り返されてきたことで、でも、今日のアイツを実際に自分の目で見て初めて実感したって言うか……そんな感じなんです。だから、嫌なんです」


 不快だった。

 綾乃に群がる連中が。

 彼らに笑顔を振りまく綾乃が。

 あの空間のすべてが、大樹の心をどす黒く塗りつぶしていく。

 

「俺、アイツのこと応援してるって言ったのに……綾乃は仕事をちゃんと頑張ってるだけなのに、物凄く気持ち悪くて、そんな自分が……嫌なんです」


 頭を抱えて蹲り、本音の本音を吐き出した。

 何よりも誰よりも、自分自身が疎ましかった。

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