あの子が水着に着替えたら

鈴木えんぺら@『ガリ勉くんと裏アカさん』

第1章

第1話 劇的ビフォーアフター その1

「さむ……」


「ね……」


 呟きとともに漏れた吐息が白く煙る。

 高校受験を間近に控えた中学三年生の冬は寒かった。

 雪降る日の夜遅く、大樹たいじゅたちは塾からの帰りにコンビニに立ち寄った。

 薄暗い街並みにひときわ明るい小さな店は、さながらテレビで見た砂漠のオアシスに似ている。

 自動ドアをくぐって中に足を踏み入れると、そこは別世界だった。

 暖かい。

 防寒用のコートを着ていたとはいえ、冬の夜道を歩けば身体は凍えるものだ。

 冷え切った身体にじんわり染み渡る店内の暖房が最高すぎて、思わず安堵の吐息をついた。


「さて……どうするかな?」


 財布が入ったポケットを抑えながら、大樹は独り言ちた。

 家までは距離があったし、帰宅してもベッドに入って眠るには時間があった。

 ならば、ここで何か暖かいものをお腹に入れるのも悪くないと、そんなことを考えた。


 定番の肉まんか。

 アツアツのおでんもいいな。

 お湯を貰ってカップラーメンも悪くない。


 しかして現実の大樹はと言えば……当初の目的をスルーして、本棚に並べられていた一冊の漫画雑誌を手に取っていた。

『週刊少年マシンガン』

 国内第2位のシェアを誇る人気雑誌だ。


「……今日は水曜日だったか」


 本日発売の雑誌を見て、ポツリと呟く。

 いつの間にやら曜日の感覚が薄れていた。

 何もかも受験が悪い。勉強のし過ぎだった。


「まぁ、これはこれで……別にいいよな?」


 受験勉強に埋め尽くされた日々の息抜きに、ちょっと漫画を読むぐらいは構うまい。

 食事は身体の栄養、漫画は精神の栄養。受験本番まで心身ともに健康を維持しなければ。

 誰に向けて語るでもない言い訳を頭の中につらつらと並べつつ、おもむろにページをめくる。

 しかし、ここで誤算があった。

 雪降る寒空の下を歩いてきたせいか、大樹の手はすっかり凍えてしまっていたのだ。

 分厚い手袋をはめていたにもかかわらず。

 げに恐ろしきは冬の寒さよ。

 なかなかページをめくることができなくて、数少ない楽しみのひとつである目当ての漫画にいつまでたっても辿り着くことができない。


「はぁ……なんだよ、もう」


 苛立ち交じりのため息、そして愚痴。

 気を取り直して頭から目を通すことにした。

 表紙をめくるだけなら指が使えなくとも問題ない。

 少し時間を置けば、きっと指も暖まってくるだろう。

 せっかく漫画を読むのにイライラしては本末転倒に過ぎる。

 ほうっと身体の奥から冷たい吐息を吐き出しながら表紙をオープン。

 さて、巻頭を飾っていたのは――


「おお」


 小さな感嘆の声が漏れた。

 まず最初に『真冬の寒さなんて『はるか かなた』まで吹き飛ばせ!』なんて頭悪げなキャッチフレーズが目に飛び込んできた。

 次に目が惹かれたのは、シミひとつない白い肌を申し訳程度に覆う赤いビキニ。

 豊かに盛り上がった柔らかそうな胸、贅肉の見当たらないおなか。

 振り向きポーズではスラリとした背中、プリンとしたお尻。

 他にもあれやこれやと、衣服に隠されていてしかるべき年若い乙女の肢体が大胆にさらけ出されていた。

 少女は紙面一杯に柔らかそうな身体をくねらせている。

 笑顔が眩しい、飛び切りの美少女だった。

『はるか かなた(16)』の後に、プロフィールやら近況が事細やかに記されている。

(16)は16歳の意味。

 サバを読んでいなければ、大樹たちとほぼ同年代だ。


――これで俺らのいっこ上かよ。


 雑誌の巻頭カラーを飾っていた超絶美少女は、いわゆるグラビアアイドルだった。

 見覚えもなければ聞き覚えもない名前であったが、一度見れば絶対に忘れない。

 一枚一枚の写真から思春期男子のハートを直撃するオーラが溢れ出していた。

 これは目の毒……否、目の保養。

 勉強勉強また勉強で疲れ切った受験生には健全なエロスが効く。

 以前に学校で友人に見せられたどぎついエロ本よりも、大樹的にはこれくらいの方が好みだった。


――そう、これは癒し。


 うんうんとひとり頷いた。

 手はすっかり暖まっていたけれど、ページをめくる気にはなれなかった。

 目にあるいは脳裏に焼き付ける勢いで、初見なグラビアアイドルの肢体をガン見した。


――ん?


 何か、忘れている。

 そんな気がした。

 何を忘れているのか咄嗟に思い出せなくて。

 それが致命的な失策だったと気づいた時には……もう遅かった。


「何見てるの、くすのきくん?」


 横合いから投げかけられた声は、聞き慣れた女子のものだった。

 声に含まれている不審で不穏な気配に慄き、大樹は反射的に雑誌を閉じた。

 雑誌を身体で隠しながら横を向くという器用な離れ業を成し遂げつつ、とっさに思いついた言い訳を口にする。


「何でもない」


 これでは言い訳になっていないと、心の中で舌打ちひとつ。

 芸のない言葉と視線の先には、見慣れた女子が立っていた。

 いかにも文学少女っぽい三つ編みおさげと太い黒縁の眼鏡。

 曇ったレンズの奥の眼差しは、日々の勉強疲れで濁り気味。

 カッチリ着こまれたコートの下には、見栄えのしない学校指定の制服。

 全体的に飾り気のない佇まいで、ハッキリ言うと野暮ったい印象を受ける。

 なお、顔の下半分はマスクで隠されていて、表情を窺い知ることはできない。

 ……と言いたいところだったが、どう考えても機嫌は最悪と決まっている。

 イチイチ尋ねるまでもなく、声を聞くだけで十分すぎるほどにわかってしまった。


――やべ……


 彼女の名前は『黛 綾乃まゆずみ あやの』という。

 隣の校区に住まい、違う中学に通い、同じ塾に通っている女子だ。同い年でもある。

 受験直前とあって夜遅くまで塾の講義があって、つい先ほどまで一緒に居残り勉強をしていた。

 帰り道も途中までは同じ方向だったから、ほとんど毎日一緒に帰っていた。

 大樹と綾乃は志望校こそ同じであるが、限られた席を争うライバルという間柄ではなかった。

 ふたりの関係は同志あるいは盟友といった表現の方が近しい。

 そんな彼女と、最初からずっと一緒にいた。コンビニに入る前からずっと一緒。

 そんな大切なことを、すっかり忘れていた。


「ふ~ん」


 曇った眼鏡を拭くことなく、綾乃は棚から雑誌を引き抜いて表紙を睨みつけた。

 当たり前といえば当たり前の話だが、雑誌は大樹の手にある一冊だけではなかった。

 暖房が効いているはずのコンビニの空気が俄かに凍り付く。大樹は固唾を飲んで綾乃がページをめくる様を見守り続けた。

 迂闊なことを口にしてはいけないと直感が警鐘を鳴らしていた。


「ふ~ん」


 もう一度、同じ声。

 先ほどよりも呆れの色が濃い。

 心なしか軽蔑的なニュアンスすら感じた。


「い、いや黛、あのな……」


「そっか……楠くんも、こういうのが好きなんだ」


 ただ、それだけ。

 丁寧に雑誌を棚に戻した綾乃は、何事もなかったかのように背を向けた。

 そのまま大樹を一顧だにすることなく、すたすたと出入口に歩みを進めていく。


――こ、このやろ……


 あまりの素っ気なさにカチンときた。

 それでも……胸中をバカ正直に吐露することは、さすがに憚られた。

 綾乃に限った話ではなく、半裸の女性がいかにもなポーズを取っている写真をニヤニヤしながら眺めている男子なんて、それは女子の機嫌を損ねるに違いない。

 その程度のことは、同年代の異性とほとんど縁のない大樹にも容易に想像がついた。


『最低』


 声こそ聞こえなかったものの、さっき綾乃の唇はそう動いていた。

 気付くと同時に、大樹の心のど真ん中に重くて鋭い杭が撃ち込まれた。

 これは良くないと本能が叫んでいる。これは良くないと理性も叫んでいる。


「待てって黛。ちょっと落ち着けって。これは、そういうのじゃなくてだな」


 胸を焦がす罪悪感に駆られて口から放たれた言葉は、実に言い訳じみていた。

 綾乃は狼狽する大樹に答えることなく、自動ドアを抜けて外に出てしまった。

 特大の地雷を踏み抜いた自覚があっただけに、大樹は額を抑えて天を仰いだ。


「……やらかした」


 もう一度ため息を吐き出して、手元の雑誌に目を落として。

 わずかな逡巡ののち、雑誌を棚に戻して綾乃の後を追ってコンビニを後にする。

 結局何も買わずに店を出てしまったから、おなかは減ったままだし、身体も暖まっていない。

 吹きすさぶ風に身を震わせながら歩みを進めるさなかに、ふと思った。


――さっきのグラビアアイドル、可愛かったな。


 顔も最高で身体も最高。

 露出度の高い水着を着て、笑顔を向けてくれる。

 あんな彼女がいたら……なんて想像してしまうのは男のサガと言ってもいいだろう。

 家に帰ったら検索してみようと考えて、口を閉ざしたまま首を傾げた。

 彼女の名前が何だったか、まるで思い出せない。


「そんなもんかもな」


 白い息とともに漏れた声に、妙に納得してしまった。

 グラビアアイドルなんて、それほど珍しいものではない。


――いや、珍しくはあるんだけど……


 あれほどの美少女が希少でなくて何なのか。

 でも、毎日のように様々な出版社から発売される雑誌の数々、そのカラーページを彩る彼女たちは……実際のところ、ほとんどが記憶に残ることなく消えてしまう。

 それよりも今は綾乃だった。同じ道を往く、同い年の相棒。

 妄想よりも現実。大樹にとって彼女こそが一番大事だった。


「黛、待てってば」


 焦燥交じりの呼び声は、残念なことに冬の風に吹き散らされた。

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