第2話 制勝の朝(2)宣託

 囚われの身の一名は壮年の番頭ばんがしらだった。

 幾つかの組をまとめた番組織ばんそしきの指揮者で、

当然、大将達を知り、

武田家の内情に通じている。


 番頭の頬には大きな裂傷があり、

凝固してこびり付いた血がどす黒い。

 何でもない態を装っているが、

左の指が二本、欠落し掛かっていた。


 男が言うには決戦前日、

勝頼の近侍達と信玄以来の重臣達の意見が分かれ、

紛糾した際、


 「御旗みはた楯無たてなしも御照覧あれ」


 との託宣を勝頼が下したのだという。


 「御旗とは日の丸であろう。

日の丸なれば、

織田も徳川も戦旗として夥しく掲げておる」


 信長に対し、番頭は押し黙った。

 

 信長は事実として、

戦場には敵味方の御旗、

つまり日の丸がはためいている、

勝頼の旗は何が特別なのかと問うたのだった。


 「お答えし、談を進めよ!」


 と榊原康政が叱咤すると、

番頭を徳川兵が前に突き出した。


 番頭は大きくひとつ、肩で息をした。


 「は武田に於いて神聖な御旗にて、

五百年前、

後冷泉天皇から拝領の御家宝。

当主が御旗に向かいて宣誓を発すれば、

神への誓約となり、

誰も反論は許されませぬ」


 信長の背に控えていた仙千代は、

帝からの下賜品とはいえ、

たかがと言っては何だが、

古い布切れが、

何故それほど大切なのか、

旗ごときに誓ってどうして何万という兵を失うのか、

また、諸将は、

何を根拠に理不尽を黙って受け容れるのか、

信長の感覚として、

違和を覚えているのに違いないと受け止めた。


 信長は、

朝廷の御物である珍宝 蘭奢待らんじゃたいすらも、

切り取らせた後は半分を帝に渡し、

あとは仏師に細かくさせて、

大名諸将、側近に配ってしまい、

自分の手元にはほとんど残さず、

僅かなそれさえも茶会で惜しみなく使用した。

 まして、旗を有り難がって拝み、

負け戦に殉じるなど、

到底、理解できないはずだと仙千代は見た。


 「旗に誓おうが天に誓おうが、

一万三千のうち三千を長篠に置いて、

残り一万で、

三万有余の大軍に打って出るとは勇猛なことだ。

その結果がこれか」


 番頭は怒りを瞳に滲ませた。


 「まあ、良い。

して、楯無は。

其もまた、宝なのであろう」


 楯無とは甲冑のことで、

楯さえ無用の強靭な鎧を意味し、

武家に於いては屡々しばしば

先祖の鎧が家宝となっていた。

 

 それを信長が、

敢えて軽口にも聞こえる言い様をしたのは、

談話が本質に触れられないことに対する

苛立ちを示したものだった。


 信長は武田の圧迫を退け、

東国勢力に対する尾張の盾である三河の安定、

ひいては自身の天下布武の完成を目指し、

昨年来、影に日向に物心を傾注し、

勝頼との戦に備えてきた。

 温めていた策が面白いように決まり、

歴史的大勝を収めた信長の機嫌は、

良いはずだった。


 上様は、三方ヶ原で、

かつての御小姓衆や、

恩義ある平手様の御嫡孫を失い、

昨年は、

要衝の城、岩村城を奪われ、

五男の御坊丸様が甲斐へ送られた……

昨日の大勝利は、

上様の溜飲を一時、

お下げするに十分なものであった、

だがしかし、

斯様な曖昧模糊は上様は好まれぬ、

これではせっかくの御気分を損ねてしまう……


 仙千代は焦れた。

 とはいえ、

大名、諸将が居並ぶこの場で、

一近習である自分が、

差し出がましい物言いをすることは憚られた。

 仙千代の脇の竹丸も、

仙千代同様、明らかに焦れていて、

眉間に皴が寄っていた。


 と、上席の菅屋長頼が、

信長の心を読んだか、端的に切り込んだ。


 「遠慮は要らぬ。

既に失ったも同然の命、

何を口にしたからと、

恐れるものはないであろう。

内外多事の折、上様は長話を好まれぬ。

有体ありていに申せ」







 







 



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