「大学日本拳法」から見た中国人と台湾客家

@MasatoHiraguri

第1話 大学日本拳法による「何でも鑑定団」

  東京は青山にある骨董品屋○○堂のご主人○○さん(かつて、テレビの「なんでも鑑定団で」有名だった方。「いい仕事してますか ?」が口癖。)は、その著書でこうおっしゃいました。「本物と偽物の違いがわかるようになるには、五年間本物ばかり見るか、五年間偽物ばかり見るか、先ずどちらかの修行から始めなさい。」と。


  少し長いですが、毎日「本物の骨董品を見て鑑識眼を養う」=「日本拳法の殴り合いによって本物に接する」という、私なりの「鑑識眼育成論」です。



  幸いなことに、大学で1年ダブった私は、都合五年間、大学日本拳法の世界に浸ることができました。

  頑強な面や胴、グローブを着用するが故に、思いっきりぶん殴り、力いっぱい蹴りを入れ、組んでは膝蹴りをぶち込み、投げ飛ばす超リアリティの世界。寸止め空手や、同じく寸止めスタイルの少林寺拳法には「寸止め」ならでは、という楽しみ方があるでしょう。

  しかし私は、現実にぶん殴り・殴られる「日本拳法的スタイル」の方が、現実感・本物感があって好きでした。


  「的を射る」競技である弓道というのは、現実には弓で殺し合いをする現実をきわめて抽象化した「寸止め」の世界といえるでしょう。将棋でさえ、現実の戦争という殺し合いを極限にまで抽象化したゲームです。

  で、私はそういう抽象化・ゲーム化された格闘技・殺し合いではなく、より現実の殺し合いに近い日本拳法という格闘技・殺し合いのゲームに、現実感を感じたわけです。

  将棋をやっても、頭だけの運動のような気がするし、寸止めの格闘技でもいまひとつ物足りない。しかし、日本拳法で現実に殴られることで、子供の頃のケンカを思い出すというよりも、自分の中の原始的な本能が呼び覚まされるような気がしたのです。昔のケンカ(殴り合い)の記憶ではなく、もっともっと、何万年もの昔の魂の記憶(もちろん、その時には、ここまで明確な言葉で自分の意識を捉えていたわけではありませんでしたが)が、甦ってくるような。或いは、自分から自分の本性に近づいていくような。


  おそらく、大学一年生の夏合宿が終わってからしばらくの間の、無我夢中で殴り合いに没入していた時期とは、それまでの約18年間の人生で初めての「本能との出会い」であったのだと思います。

  「本能との出会い」とは「自分の内なる神との接触」と言い換えることができますが、私はそれまでの18年間で、既に2回経験してきたことです(これはまた、別に述べることにしましょう)。

  ですが、大学一年生の4・5・6・7・8・9月の6ヶ月間というのは、偶然とか、たまたまそういうことに遭遇した、というのではなく、毎日、自分で自分にドライブを駆け(自分で自分の背中を押しながら)、意識的に本能に触れた期間でした。


本当にぶん殴り・殴られるという、人の生き死にに直結した体験とは、人間の本能を揺り動かす・掘り起こす。40年前に大騒ぎとなった、戸塚ヨットスクールの特訓によって多くの自閉症児がまともな人間になれたという事実は、早い話が「死の恐怖」によって、人間本来が持つ正しい本能に回帰することができた、ということなのです。

  しかし、「戸塚ヨットスクール」という、副作用のない・確実に直る治療法が世間一般に広まったら、世界中の精神科医や向精神薬といった薬のメーカー、各種医療機器メーカーの商売が成り立たなくなる。そうなれば、日本の場合、政治家や高級官僚に金が入らない、銀行も儲からない。だから、いつものパターンで、マスコミが煽り・政府の手先である警察がごり押しして、無理やり辞めさせられてしまったのです。(ヨットの事故で何人か亡くなっていますが、向精神薬の被害で、今まで何万人の廃人が生み出されてきたのか。しかも、本当の自閉症というのは、薬や医者では絶対に治らない。)



  閑話休題。


  とにかく、小中学生でもなく、社会人になってやる日本拳法でもない。大学生(一年生)でやる日本拳法で「本能との出会い」を無意識に体験した私は、卒業までの5年間で、試合に勝つ技術を磨くよりも、自分の内なる本能・遠い遠い記憶を思い出すために、毎日、ガツンガツンという衝撃を(進んで)受けていたようなものでした。

  日本拳法における「ガツンという衝撃」を、神に対する純真な心に置き換えれば、毎日教会でお祈りしていたということでもあります。「五体倒置」と考えれば、イスラム教のモスクでの礼拝になるし、修験者と見れば、毎日、滝に打たれていた(私は実際に長野県でこの体験をしましたが、日本拳法で殴り合いをするのと同じ錯覚に陥りました)ということです。つまり、日本拳法の殴り合いとは、神聖な趣のある、且つ、お祈りよりもずっと確実な効果を期待できる「自分の本性へのアプローチ」といえるでしょう。


  毎日、本物の骨董品を見て自分の鑑識眼(心)を鍛えるのではなく、ガツンガツンという衝撃によって、自分の内なる本物(本能という本性、本物の性根)に接することができた。

  といって、現在の関東大学日本拳法界でいえば「明治の木村」や「中央の横井」といった、特に拳法の強い者が本物で、後は偽物、ということではありません。

  日本拳法で殴り合いをすること自体「本気・本物」なのですから、拳法が強いも弱いもみな同じ(本物)です。自分が真剣に・本気になってぶん殴ろうとすれば、相手も真剣になって思いっきり殴り返してくる。これが本物(体験)だ、というのです。


  寸止め(拳が当たったつもり)ではなく、こういう本当の・超リアリティの世界に五年間もいた私は「嘘と現実」というものに非常に敏感になってしまいました。

 ですから、最近の映画やテレビで見る芝居の薄っぺらな演技や安っぽい漫才、情熱の感じられないダンス、否、街で出会う人間そのものでさえ、本当に「人間に成りきっていない」人間は、私にとっては「妖怪」、人間のふりをしているただの生き物にしか見えない。

 もちろん、芝居とは嘘(フィクション)を本物らしく演じることですが、俳優・役者そのものが、しっかりした人間に成りきっていない偽物では、どんな役(偽物)を演じても、本物らしく見えない、ということなのです。


  さて、大学5年間で鍛えた目で見た、中国人と台湾客家。


  同じ東洋人顔で同じ中国語を母国語としながら、なにかにつけて対立する隣人同士。「私たちが正しい」「オレこそ本物」と、その主張の仕方・訴え方(アプリケーション)の違いを見るのも重要ですが、ここはやはり、日本拳法という根本原理を知る世界を体験した私としては、先ず「本物か偽者か」という観点から「現実を正しく見よう」ということです。


  まあ、東アジアにおける(西洋人が仕掛けた)口論・論争に巻き込まれて、金を使わさせられる・戦争に首を突っ込んで実際に死ぬのは私たち日本人と、相場が決まっている。

  さらに悪いことには、現在の日本の政治は、在日韓国人(統一教会・創価学会)一色で行われているのですから、「台湾有事」の為ならいくらでも金を使い、何万人でも兵隊を出すという気前のよさで、いくら老い先短い私といえど、気が気ではいられないのです。


 


2022年7月21日

V.1.1

平栗雅人

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