地球読書クラブ

五十嵐文人

この小さな惑星で

視える人々①

 本を読めば見えないものが見えてくる、それが父の口癖だった。

 この電車は時速80km/h で動いているし、この吊革はナイロン素材のストラップとプラスティックが組み合わさっている。

 扉の横に貼られている広告で「空前の大ヒット」と謳われているこのビジネス本は、事実あまり売れていないらしいし、内容はありきたりでつまらない。

 確かに、読書は見えないものを見せてくれる。ただし、それは良いものも悪いものも全て見せてくれるのだ。だから、何かを知ったところで、人生が劇的に変わることは無い。有り体にいうと、山城大河は退屈だった。

 東京に近づくにつれ、車内の乗車率は増えていく。アナウンスとともに扉が開き、人々が入れ替わる。降車する流れが終わり、赤羽駅のホームで待機していた人々が流れ込む。有象無象な群衆のなかに、その女性は突如として現れた。

 女性は、さらさらな髪をポニーテールにまとめ、黒いスーツを着用していた。顔は人形のように美しく、所作の一つ一つに気品が窺える。吸い込まれてしまうような眼で、車内を一瞥する様子を見て、なにかこの世のものとは思えない魅力を感じた。一目惚れという行為を信じてはいなかったが、一瞬でその人間の虜になってしまうことがあるのだと理解した。

 女性は、ショルダーバックから黒革に包まれた文庫本を取り出した。挟んである栞を右手に持ち帰ると、静かに読み始めた。山城は女性に気づかれないように、ちらちらと視線を送る。

 頭が「この人は赤羽で何をしていたのだろう」「これからどこに向かって何をするのだろうか」という女性の生き方や性格の想像で埋め尽くされる。そんな山城が、彼女が読んでいる本の内容が気になるのは時間の問題だった。いや、たとえ彼女じゃなくても、読書好きは人が本を読んでいる姿を見てしまうと、無性にそのタイトルが知りたくなるものだ。

 カバーがかけられている本であっても、紙面の上部を見れば、タイトルは記載されている。山城は怪しまれないよう文庫本をのぞきこんだ。

 その光景に目を疑った。

 そこには確かに、が書いてあった。何かが書いてあったのだが、それを識別することは出来なかった。知らない言語が示されていた訳でも、記号が書かれていたのでもない。

 そこに書いてあるタイトルは、確かに日本語で我々のよく知る言語なのだが、読めなかったのだ。通常ならば考えられないだろう。文字を認知することは出来ても、それを解読することを脳が許さない。そんな感覚だった。

 その瞬間、女性は山城の顔を見つめた。彼女は眼球をぎょろっと向け、少し笑った。

「気になる?」

 山城は返答することが出来なかった。

 バレてしまった。焦燥感が額に汗をかかせ、脳が混乱していく。なにか、弁解をしなくてはならないと理解しつつも、思うように言葉がでてこない。山城が「あっ……えぇ……いやぁ」とつぶやくと、彼女は続けてこういった。

「読書クラブを主催しているんだけど、興味はない?……気になるんでしょ?この本の内容が」

 上手く返答することが出来ず、コクと頷いてしまう。

「君の探究心と好奇心、大いに歓迎しよう」

 彼女の台詞を聞いた途端、その声が心臓に響いた。日常が変わる気がした。

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