全て心も囚われ

葵染 理恵

第1話

「ああー、あの時も、こんな日だったな…」

私は、冷房の効いた部屋から、蒸し焼きにされそうな暑さの中、帽子も被らずに歩いている中学生を眺めていた。そして、あの夏の出来事を思い出した。

私は小さい頃から、人に興味がなかった。なので、進んで友達をつくろうとはせずに、いつも本ばかり読んでいた。

本は、色んな世界に連れていってくれる。だから、友達がいなくても寂しくなかった。

たが、図書室の返却棚にあった江戸川乱歩の屋根裏の散歩者という本を手に取ってから、私の中の何かに変化が起きた。

十四歳の私には、刺激的な内容だったが、屋根裏を舞台に人間模様を描く【江戸川乱歩】自身に興味を持ち初めた。そして、色んな作品を読んで、こう思った。

江戸川乱歩は、天才で繊細で変人だと。

けして貶しているわけではなく、誉め言葉として、とらえてほしい。

どっぷりと、江戸川乱歩に心を奪われていたある日、父が、私に新聞を見せて「お前の好きな江戸川乱歩展が西池袋で開催しているぞ」と、言った。

私は全財産(八千円)を握りしめて江戸川乱歩展に向かった。

その日は、日曜の午後で、じっとりとした暑さだった。


私は、江戸川乱歩展の場所が書いてある新聞を大人に見せながら、ようやく展示会の場所にたどり着いた。

会場の入り口に、大きなポスターが張ってある。江戸川乱歩が書斎で頬杖をついている写真だ。私は、父からカメラを借りてくれば良かったと後悔した。

公民館のように、シンプルな入り口を入ると、チケット売場があった。

チケット売場と言っても、映画館のような立派な窓口があるわけではなく、テーブルとパイプ椅子に座った女性が一人いるだけだ。

それでも気持ちが昂っていた私は「中学二年生、男性、一枚下さい」と、訳の分からない事を言ってしまった。

女性は「はい、五百円になります」と、優しい笑顔でチケットとチラシを渡してくれた。

そのチラシは、入り口に貼ってあったポスター写真を小さくしたものだった。思わぬ宝物が手に入った。私は、ポスターが折れないように、そっとリックにしまった。

そしてチケットを持って、会場の入り口に立つが、チケットを捥る人がいない。

どうやら、チケットを購入すれば鑑賞していいシステムになっているらしい。

私はチケットも丁寧にしまうと、緊張の一歩を踏み出した。

始めに出迎えてくれたのは、生い立ちから亡くなるまでの表と江戸川乱歩が住んでいた家と家族写真だ。白黒で歴史を感じる。

江戸川乱歩の歴史は、熟知しているが、それでも丁寧に読んでいった。

最後まで読み終えると、次は当時の雑誌が展示されていた。

古めかしい色合いの雑誌(大正十二年)だが、江戸川乱歩の処女作【二銭銅貨】が掲載されている。

勿論、二銭銅貨も読んだ事がある。だが、当時の雑誌で読める喜びに興奮が抑えられずに、私は顔を上げて辺りを見回した。

幸か不幸か、客は私を含めて二人しか居ない。

私は、一七〇センチの大きな体を折り曲げて、ガラスケースに張り付いた。そして、蟻んこのような小さい文字を目で追っていった。

(あーぁ、ページが繰れないのがもどかしい…)

私は諦めて腰を起こした。そして次の展示物に目をやる。

すると、江戸川乱歩が愛用していたペンと原稿が鎮座していたのだ。私は脳天に衝撃が走るほどの感動を覚えた。

(こっここ、これが江戸川乱歩が書いた文字……しかもD坂の殺人事件!駄目だ…ここから離れたくない…はぁ…)

私は嬉しさを通り越して、胸が苦しくなった。そして、興奮し過ぎると、息苦しくなる事を初めて知った。

「生原稿、欲しいな…」

思いが強すぎて、知らず知らず言葉に出していた。

黄ばんだ紙に、風化して青くなった文字。

書いた後、二重線を引いて訂正した文章。

私には、愛する人からの手紙のように思えた。この足から根が生えて、ここから動けなくなればいいのに…と、馬鹿な事を考えてしまう。

貴重な原稿を一文字一文字、丁寧に読んでいると、後方から低い声で「君、江戸川乱歩が好きかい?」と、問いかけられた。

体を起こして、振り向くと、私と同じくらいの身長で、中肉中背の中年男性が笑顔で立っていた。そして、もう一度、同じ言葉を私に投げ掛けた。

「乱歩の作品が好きかい?」

「はい、勿論、大好きです……貴方は誰ですか?」

「僕は平井健太」

「平井!えっ、まさか平井さんは…」

「そう、江戸川乱歩の親戚だよ。よく分かったね」

「江戸川乱歩の本名は平井太郎。基本中の基本ですよ」

「あははは、君には言わずもがなだね。実はな…」と、言うと、私に耳打ちをした。

「えっ!!未発表!そんな、本当ですか!」

私の鼓動は、生原稿を見たとき以上に、跳ね上がった。

「乱歩の原稿を、齧りついて読んでいる君の姿を見て、君になら…と、思って声を掛けたのさ。どう?読みたいかい?」

「勿論です!」

「では、こっちにきたまえ」

私は、言われるがまま平井の後を付いていった。もしかしたら、夢かもしれないと思った私は、自分の頬をつねってみた。

「いたっ…」


従業員専用の扉を開けて入ると、薄暗い廊下が続いていた。そして、私は第三会議室と書かれた部屋に通された。

小さな会議室にポツンと置かれた茶色い鞄から、しわくちゃになった原稿を取り出した。「これが、その未発表の原稿だよ」

江戸川乱歩の未発表原稿は、所々、破れていたり、文字が滲んでいる所もあった。だか、未発表作品に、私の手が震えた。

そして、題名を見た瞬間、体中に電撃が走った。

「人間腸詰って……夢野久作の作品ですよ?」

「ほお、君は夢野久作も知っているのか」

「勿論。本は、友達です」

「そうなのか。では、乱歩は親友と、いうところかな」

と、言って、豪快に笑う。

「夢野久作の人間腸詰は、一九三六年は新青年に掲載されたんだが、同じ年に、乱歩も【人間腸詰】という題名で短編小説を書いているんだ。ただ、乱歩の方が後だった為、編集者に題名を変えてほしいと、言われてな。さぁ乱歩は、どうしたと思う?」

「……ん…隠した?」

「おぉ、近いね。正解は…題名を変えるどころか、トイレに流したんだよ。だが、昔のトイレは直ぐに詰まる。それで、救出したのが、この原稿だよ」

「えっ、トイレ……」

「大丈夫、もう何十年も経っているから臭いなどせんよ」

と、言って、また豪快に笑った。

「何故、トイレに流したのか、僕も分からないが、叔父から、そう訊きた。納屋から、この未作品の原稿が見つかってな、館長と相談した結果、明日から展示したいと言われて持ってきた次第だ。館長の話だと、一部しか展示が出来ないらしいんだ。完成しているのに、誰にも読まれないのは、可哀想だろう。だから、君に声をかけた」

「あ、ありがとうございます。大切に読ませて頂きます」

「そうか、ありがとうな。僕は、館長の所に行ってくるから、ゆっくりと読んでいるといい。それじゃ、また後でな」

と、言って、部屋を出ていった。

私は感謝の気持ちがいっぱいで、もう誰も居ない扉に頭を下げた。

そして原稿に目を移す。

「人間腸詰……」

展示されていた原稿と同じ文体で、書かれる文字を読むだけで、感情が高ぶり、体がゾクゾクする。

「はああ、落ち着け、わたし……」

私は、窓辺にあるパイプ椅子に座って、未発表の人間腸詰を読むことにした。

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