第二章 Be with me/総一郎3
十二月二十四日土曜日。今日は朝から夕方までのシフトだ。朝十時に開店してからプレゼント包装希望のお客さんが絶えない。
働いている書店は、どんな判型でも書籍は回転包装するのがルール。回転包装の方が見栄えが良いとかなんとかという理由らしいが、やはり時間はかかる。絵本は特に大変だ。変形している物も多いし、音が鳴るなどのギミックがあるものは機械が埋めこまれていて、重さがあり手が疲れる。
クリスマスに向けて、レジの空き時間に古新聞を使って練習したおかげだろうか。最近は完成するスピードは速くなり、なおかつ綺麗に包めるようになってきた。だけど、長年働いているパートの人たちには敵わない。パッと見て、どのサイズの包装紙を使うべきかの判断の速さ、角の折り目の美しさも。僕ももっと頑張らないといけないことばかりだ。
レジやプレゼント包装も大事だが、売り場整理を少しでも怠ると店内の見栄えが一気に落ちてしまう。立ち読みされてあちらこちらに置きっぱなしの雑誌を元の棚に戻し、カバーや帯のめくれを正す。
特に、土日の絵本売り場は売り場を綺麗にするのに一番時間がかかる。絵本が開いたまま平台に放置されていることはもちろんだが、お菓子の包み紙が落ちていたり、たまに表紙やページが破られていたりするので、メンテナンスは欠かせない。それにプレゼント希望で一番多いのが絵本だ。探しに来た人が見つけやすくしないと、売り上げにも繋がらない。
コミックを見回ってから、隣の絵本コーナーに向かおうとしたその時だった。
「まったくアンタって子は!」
店内に響く怒声のあと、短く、乾いた音。声の方へ駆けつけると、絵本売り場の奥で小学校低学年くらいの男の子と、そのお母さんらしき女性がいた。男の子は左の頬を押さえ、目には溢れんばかりの涙。さっきの音は平手打ちされた音だったようだ。
「絵本ばっかり読んで! もう三年生でしょ? もっとちゃんとした本読みなさい!」
「でも、これ、絵が綺麗で」
「そんなんだから、アンタはいつまで経ってもテストで良い点取れないままなのよ」
目を逸らしたいのに、逸らせない。冷や汗が流れ、心臓が激しく動く。他のお客さんもスタッフも驚いて、どう対応すべきかと固まっている。今一番近くにいるのは僕だ。注意すべき……注意? なんて言うんだ? 大学受験まで母親に何も言えなかった僕が? どうすればいい? 頭の中は考えているようで思考を停止したがっている。
だんだんとあの女性がぐにゃりと曲がっていき、自分の母親に変わっていく。僕の大嫌いな人。忘れたい人。二度と見たくないのに、十七年生活を共にしたせいでまだ消えない。でも、あの男の子を助けないと……。助ける? 彼を援護しても母親のもとに戻らざるを得ない彼を。もしかしたら彼はこのことを傷ついていないかもしれない。彼は僕ではない。彼は僕に似ている。僕が重なって、目の前が揺らぐ。口は開いているのに言葉は出ない。
その時、一人の男性が僕の横を通り過ぎ、親子の前へ。細身で背が高く、僕と同じ店のエプロンをつけている。店長だ。店長は一言二言母親と言葉を交わす。母親は口を強く閉じ、男の子の手を無理やり引っ張るようにして、店を出た。
お客さんもスタッフも、ほっとしたような表情を浮かべ、また各々の時間が流れていく。僕はというと、力が一気に抜けて、その場に座りこむ。何もしていないのに。ただ傍観していただけなのに。何もしてあげれなかった。自分の小さな頃にそっくりなあの男の子をただ見ていた。悔しさというより情けなさがこみ上げる。
「駿河くん、大丈夫かい?」
「あ、店長……」
「顔色がかなり悪い。いったん事務所で休むといいよ。立てる?」
「すいません、ちょっと手を貸してもらえると……力が入らなくて」
絞り出した声で謝りながら、店長に手伝ってもらってようやく立ち上がり、歩けた。
事務所に入ると、店長はいつもみんなが休憩の時に使うパイプ椅子を出し、僕を座らせてくれた。
「やっぱり人の怒鳴る声って関係なくても精神的にくるものがあるよね」
「はい……」
「さっきのはここで注文書チェックしてても聞こえてくるくらいの大声だったから、慌てて飛び出しちゃったな」
「――すいません。一番近くにいた僕が対処しないといけなかったのに」
「いやいや。ああいうのは店長や社員が対応すべきことだから。気にしなくていいよ」
店長は僕が実家と折り合いが悪いことを知っている。バイトの初出勤の日、「緊急連絡先を書いて」と言われた時、頑なに実家の住所や電話番号を書くことを拒否した。その時に理由を聞かれ、簡潔に僕と家族の関係を説明したのだ。もし、僕がこの書店内で大ケガをしたとしても、たとえ死んだとしても、絶対に両親には知られたくなかった。「さすがに何も書かないのはマズい」と言うことで、咲さんの連絡先を書いた。そういうことがあったから、店長も今、気分が優れない理由を薄々わかってくれているのかもしれない。
「落ち着くまで休んでて大丈夫だから」
と店長が言ったそばからレジヘルプを求めるブザーが鳴る。
「おっと、じゃあ店内行って来る」
「お願いします」
店長は微笑むと、僕の肩を軽く叩いて店内へと出ていった。
持ってきていた水筒をカバンから取り出し、お茶を一口飲んで、ふぅと一息吐く。
いつまで経っても母親の面影が消えない。忘れたい。少しの出来事でフラッシュバックし、僕の目の前に立ち塞がってくる。大口叩いて家を出てきたつもりでも、まだ学費や家賃は父親が「今まで家庭を見て見ぬふりしてきた罪滅ぼし」で払ってくれている。そんなことで僕の傷は癒えるはずはないのに。
かといって、僕一人で払えるかと言われると到底無理だ。奨学金も母親がなんの見栄かわからないけど、申し込むのを断固として拒否した。自分の今の貯金を切り崩しても、バイトを何個も掛け持ちしたところで払いきれない。本当の意味で家族と離れるにはまだまだかかってしまうということだ。
「はぁ……」
大きいため息が出る。こんな姿だけは咲さんには見られたくない。昔の頃思い出してしまって、力が抜けたなんて、恥ずかしい。黙っておこう。これは自分の問題だ。僕が一人で乗り越えないと意味なんてない。
その時、事務所に誰かが駆けこんできた。事務所内の棚にはお客さんの注文品が保管されている。それを誰かが取りに来たんだろうと顔を上げる。
「総一郎、大丈夫か!」
「え? はい?」
そこにいたのは咲さんだった。今日は咲さんも朝からバイトだったはず。服装も動きやすさ重視のパーカーとデニム姿に、ダウンコートを羽織っていた。混乱した様子で僕の目の前に立つと中腰になり、目線を合わせる。
「今、休憩中で、ここに来たら、『駿河くんがさっき倒れて』って、スタッフの人が教えてくれたんだ。特別に事務所に入っていいって店長さんからも……」
「倒れてはないですよ。少しクラっとしたというか……」
「体調悪いことに変わりないじゃんか。風邪か? 総一郎、布団かけずに寝てる時多いもんな」
額に手を置かれる。たぶんお店に来てすぐに僕の一件を聞かされたんだろう、手が冷たい。ひんやりしていて、むしろ気持ちいい。
「それは咲さんが寝ながら布団を全部巻き取っていくからですよ」
「そうなのか?」
「そうです」
咲さんは小首をかしげつつも、
「とりあえず、無理はすんなよ。ダメだと思ったら早退させてもらってさ」
「ええ、そうします」
「今日はワタシがご飯作るから、総一郎はまっすぐ家帰って待っててくれよ」
「わかりました」
「じゃ、しんどいのにワタシが長居してたらダメだからな。バイト戻る!」
そう言うと咲さんは事務所から嵐のように去って行った。こんなところ見られたくなかったのに。でも咲さんと会話して少し気持ちが和らいだ。身体の中からじんわりとあたたかさを感じる。僕は立ち上がると、店内での仕事へ戻った。
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