第一章 First step/君彦3
「案内してくれて助かった。ありがとう」
「納得したものが買えて良かったですね」
悩んだ末、今回は昔から親しみのあるフィナンシェにした。これで佐野家の皆様と会話が弾む起爆剤になればいい。
「あの、一つお伺いしたいことがあって」
「なんだ?」
「よかったらこのあとラーメン食べに行きませんか?」
「ラーメン……」
「お嫌いでしたかね」
「いいや。ざっと記憶を思い返しても食べたことがないものでな」
「そうなんですね」
「むしろ俺一人では行くことがないだろう。連れていってくれ」
デパートを出て、近隣の商業施設のビルに入る。その中にラーメン屋があった。入ると、店内に響き渡る大声に少々委縮する。先に食事をしている客たちは、入って来た俺たちに見向きもせず、一心不乱に麺をすすっている。カウンター席に腰掛けると、
「何にします?」
と駿河がメニュー表を差し出した。
「味の想像がつかん。駿河はよく食べるのか?」
「大学に入ってから、咲さんに連れられてという感じですね。醤油が一番オーソドックスで、悩んだら醤油にしたらいいって言ってましたよ」
「ふむ。ならば醤油にしてみる」
駿河が店員を呼び止め、俺の分の醤油ラーメンと、駿河は塩ラーメンの注文を通してくれた。
「僕も知らないことが多くてなんだか申し訳ないです」
「いや、謝る必要などない」
「そうですかね……。せっかく訊いてくれているのに」
「俺があまりにも知らないだけだ」
読書量は誰にも負けてない。本さえあればこの世のすべてを網羅できる。そう信じて、自分は物を知っている方だと思っていた。たまに家の近くの書店や喫茶店に行くことはあっても、どこか新しい店に寄ろうなどと考えに至ったこともない。
「俺の世界はあまりにも狭いこと、頭に入れた知識だけでは渡れない。人の温かさ、食べ物の味に匂い。それらは自分自身で体験して、初めて知識と繋がるのだと大学生にしてやっと気づいた」
駿河は頷きながらただ黙って俺の話を聞いている。
「家族以外の人間は信用ならないものだと、幼い頃の出来事の数々から思いこんでいてな。だが、大学に入学し、真綾、桂、そして駿河。お前たちのように友好的な人間も少なからずいるのだと知った」
「僕も入っていて嬉しいです――そう考えると、神楽小路くんとは正反対ですね」
「どういうことだ?」
「僕は……」
グラスの水を数口飲んだ後、駿河は言った。
「家族が信用できませんでした。それは今も」
俺は駿河の方を向く。だが、彼はこちらを見ない。あえて、見てないのかもしれない。うねっている前髪が少し俯く彼の表情を隠す。駿河の言葉を聞き逃さないようにと神経が集中しているのだろうか。店の喧騒が一気に消え、俺と駿河だけのような感覚になる。
「牢獄のような家から、母の監視から逃れたくて。学校にいる時だけが少し自由を感じていましたね。もし、あのまま実家に縛られ、従ったままだったら、喜志芸に入学することもなく、咲さんとお付き合いすることも、神楽小路くんとこうして肩並べてラーメンを食べることもきっとなかったでしょう」
「駿河、お前は自分で自分の道を切り開いたのだな」
「そんな大それた……」
目の前にラーメンが置かれる。一気に広がる醤油の香り。駿河の注文した塩ラーメンはさらに無色に近い透明。駿河は割りばしを取り出し、俺にも手渡す。
「まぁ、学費や生活費は父が払ってるので、まだ家との繋がりはあります。大学を卒業したら、両親とは今度こそ絶縁すると決めていますが」
「そうか」
駿河の知らなかった覚悟に言葉が詰まる。人それぞれ生きてきた環境が違い、同じ人生など存在しないということを改めて感じてしまう。
「せっかくのラーメンがまずくなるような話をしてしまいましたね」
「気にするな。こう騒がしく、手軽に食べれるものの前だからこそ話せることもあるだろう」
「……かもしれませんね」
どこか安心したように駿河は笑う。俺が言うのも何だが、出会った頃より表情に険しさがなくなったように思う。言葉や声には優しさがあるも、その顔は無表情だった。喜怒哀楽が一瞬で変わる桂の影響なのだろうか。そんなことを思いながら、「いただきます」と二人で声を合わせて食べ始める。
「口当たりがまろやかで塩辛くないのだな。うまい」
「神楽小路くんのお口に合って嬉しいです」
「俺は基本何でも食べる」
「いいことじゃないですか。僕や咲さんは好き嫌いがあるので」
「駿河にも嫌いな食べ物があるのか」
「ええっと……恥ずかしながらきのこが苦手で……」
「ほぉ……。好き嫌いなく何でも食べるような印象だったのでな、意外だ」
「そうですか?」
恥ずかしそうに頭を軽く掻く。
「クリスマスプレゼントはもう用意したのか?」
「ええ、腕時計を。咲さんはもう少し時間を気にして欲しいので」
「まったくだ。あいつはすぐに遅刻するからな……。駿河も大変だろう」
「もう慣れましたよ。普通、あんなに計画性がなかったら放置したくもなるはずなのに、どうしても手を貸してしまう。僕はやっぱり彼女が好きなんだなぁって思います。先に惚れた方の負けというものです。ちなみに神楽小路くんは?」
「手袋を渡そうと思っている」
「この季節にぴったりですね」
母に「仕事」として手袋製作を依頼した。色や素材、すべて選び、世界で一対の手袋が完成し、先日送られてきた。真綾の手の型を取ることも検討したが、初めて渡すプレゼントなのだから驚かせたかった。
「渡す前の今、なんだかそわそわしませんか?」
「そうだな。どこか心が落ち着かない。真綾と会話している時は特に」
「ですよね」
そう会話し、お互い微笑を交わした。
ラーメンを食べた後、
「明日頑張ってくださいね」
駿河にエールをもらい、この日は別れた。俺は駿河と待ち合わせたバス停が並ぶ歩道に再び向かう。運転手に電話をかけるためにスマホを取り出し、通話ボタンを押す直前、手を止めた。
まだ日暮れまでには時間がある。あと少しだけ天王寺を歩いてみるとしよう。
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