歪む

 下校中、道端に蠢く何かに目をやると、黒い昆虫がひっくり返って脚をワナワナとばたつかせていた。

 僕は一瞬躊躇したものの、すぐに傍へと駆け寄り虫へと手をかざす。救いを求めて行き場を失い空を掻いていた6本の脚は、差し伸べられた僕の手にしっかりとしがみついてくれた。表へ手のひらをやり、姿をまじまじと確認してみるとメスのクワガタだった。クワガタは水を得た魚のように元気に僕の手の上を歩き回り、腕を伝って頂上を目指そうと昇ってくる。それをもう片方の手で阻止すると、くるっと方向転換をしてあさっての方向へ飛び立っていった。

 僕が見捨てていたらあのクワガタは一生起き上がることも出来ず、やがて疲れ果てて野垂れ死んでいただろう。その後はもう、ばらばらになるまで腐り果てるか、蟻の巣へ食糧として運ばれるのみだ。僕はなんだかいい事をした気分になった。限りなく生きている価値が無いに等しい僕にでも救える命があったのだと思うと、あの小さな命が何とも愛おしく感じられた。

 蝉のけたたましい鳴き声がやがて大きな振動となり、じっとりと汗の染み込んだ頭蓋骨に響く。頭痛がする。これだから夏は嫌いなんだ。まあ外に出ることなんて滅多にないのだけど。

 僕は高校2年生の一学期間、いわゆる不登校をしていた。授業どころかテストも受けていない、課題すら提出していない。判定素材が無い僕の成績は惨々なもので、ほぼ全ての教科において赤点という結果をつけられていた。4ヶ月間家に引き篭って呑気に暮らしていた代償とでもいうように、僕は夏休みの初めの一週間、「赤点補講」というかたちで学校への登校する義務が課された。このクソ暑い中、引き篭もりが一週間毎日登校だなんて面倒で仕方ない。でも、みんなが毎日眠い目を擦って学校へ足を運んでいた時間に僕は床に就いて、みんなが部活を終わらせて家路に着く頃に僕は眠りから目を覚まし、みんなが眠りに着く頃に遅い夕飯を摂っていたのだ。このくらいの代償は甘んじて受け入れようと思う。

 とはいえ僕が不登校になったのも今年度の一学期からで、それ以前は他のみんなと同様毎日学校へ登校していた。なんなら1年生の頃は皆勤賞だったくらいだ。僕は友達と呼べる存在はいないが、人と話すことが苦手という訳でもなく、良くも悪くも目立たないごくふつうの生徒だった。虐められているわけでも、誰かとトラブルがあったわけでもない。そんな"ふつう"の僕がなんで学校へ行かなくなったのかというと、単に行く必要が感じられなくなったからだった。思えば僕は思春期に突入してからずっと、えも言われぬ寂寥感と無気力に襲われていたのだった。友達も恋人も、勉強へのモチベーションも高い志も無い僕。なんとなく当たり前だからと学校へ通い、24時間のうちの約9時間を浪費する毎日がふと無意味に思えた。4月6日、2年生一学期の始業式の日、はじめて学校をズル休みした。ドキドキした。家族には正直に「行く気になれない」と話した。思えば、わけもなく甘えるのもはじめてのことだった。両親は何も言わず、学校に「風邪ぎみ」と連絡を入れて快く休ませてくれた。それから僕はずっと学校へ行っていない。

 今日はその赤点補講初日。みんなからしてみたら、夏休み1日目だ。学校に着いた頃、まだ時刻は8時をまわったところだった。電話で担任から指示されたとおりに3階の空き教室へ入り、黒板に貼られた座席表に僕の名前が書かれているのを確認して、指定された席へ着く。まだ始業まで30分あるというのに、成績に赤をつけられた生徒達はほとんど教室へ集まっていた。赤点を採る生徒というのは当然、僕のような引き篭もりだけでなく、単純に勉強が出来ない奴やまともに授業を受けていない不良もいる。10人にも満たない程の教室はザワザワしていた。

 そんな教室で、僕ともう1人、僕の斜め前の席に着いてじっとしている女の子がいた。綺麗な黒髪を高い位置でふたつに結んで、酷暑の夏だというのにピンク色のカーディガンを羽織っていた。重たい姫カットからちらりと見える耳には、たくさんのピアスの穴が空いていた。

 あれが世にいうところの地雷女子か、と僕が観察を続けていると、振り返った彼女とバチッと目が合ってしまった。校則でメイクは禁止されているのにもかかわらず、アイシャドウで目の下を赤くさせて、長いまつ毛が僕の前でバサバサと揺れていた。

「君も学校、いってないんでしょ!」

 彼女はニコッと笑いそう僕に言い放った。あけすけに言うなあ、と僕は思わず苦笑いで返した。それが僕とミクちゃんの出会いだった。




 彼女は名を「ミク」と名乗った。僕がミクちゃんに関して知ってることは、名前と、恋人に関することだけだった。その日僕はミクちゃんとなんとなく一緒に家まで帰ることになった。ミクちゃんに誘われたのだった。「あっつーい」とカーディガンの袖を捲ったミクちゃんの腕は、引っ掻き傷でビッシリだった。

「かれぴ、ミクのこと殴るんだよねえ、機嫌悪い時だけだけどさあ。」

 ミクちゃんは帰り道、笑いながらそう言った。突然そんな重たい話を切り出されたもんだから、僕は焦って目線を右往左往とさせていると、ふとミクちゃんの首筋に赤黒い痣がくっきりと残っているのが見えた。首吊りの痕____に見える。喉の奥に苦いものが広がるのを感じた。僕は何を言ったらいいかわからず、また苦笑いで返したが、ミクちゃんはもう僕の方を向いていなかった。

「あ、あさがお!久しぶりに見た。」

 ミクちゃんは民家の玄関に置かれた朝顔のプランターに駆け寄った。朝顔は僕も小学生の頃育てたことがある。僕の朝顔だけずっと芽を出さなくて泣きべそをかいていたら、担任の先生に「人間と同じように、植物も成長の早い遅いがあるんです」と言われたことを覚えている。当時はなにを言っているのかよく理解できなかったが、今ではわかる。あの朝顔は僕だ。

 初夏だというのにプランターの朝顔は盛りを過ぎたようで、萎れてしまっていた。

「萎れて下を向いてる花って、首吊り死体みたいだよね。」

 彼女は、自分の首のバラのように真っ赤な索条痕を、愛おしそうに撫でつけながら笑った。その痕はまるでミクちゃんの首を、今も締め上げて続けているかのように見えた。


 その日はミクちゃんと連絡先を交換して、家へ帰った。シャワーを浴びて部屋へ戻ると、まだ2時間も経っていないのにミクちゃんから大量のLINEが届いていた。予想通りのメンヘラ女なんだな、と苦笑しながら携帯に手を伸ばすと、またピロンと携帯が音を立てた。


『たすけて』


 初めはいたずらかと思った。ミクちゃんの茶目っ気たっぷりの態度を見ていたら冗談だと思うはずだ。でも、あの索条痕を見た後だと冗談とは到底思えなかった。

 ミクちゃんに何かあったんだ。僕は慌てて返信した。

『今どこにいる』

『家』

『家どこ』

 ミクちゃんは位置情報で現在地を送ってくれた。

『助けに行く、待ってて』

『だいすき』

 胸が高鳴るのを感じた。



 ミクちゃんの家は、古い木造アパートだった。ギシギシと音を立てる不安定な階段を昇って、2階へ上がる。そういや女の子の家に行くのなんて初めてだなあ、とか呑気なことを思いながら。部屋番号を確認して扉を開けると、目の前にミクちゃんがいた。ミクちゃんの肩越しに見える部屋の中は酷い有様で、コンビニ弁当のゴミや化粧品が散乱していた。

 そして何より僕を驚かせたのは、ミクちゃんの姿だった。ミクちゃんは涙と鼻水で可愛い顔をぐしゃぐしゃにして、泣いていた。頬に赤黒い痣がくっきりと残っていた。

『みくがわるいの、みくのせいでかれぴおこっちゃって、それで』

『きてくれてありがとう、鳴海くん、だいすき』

 ミクちゃんはしゃくりあげて泣きながら僕にそう訴えた。ミクちゃんの姿を見ていると、僕の中で桃色のような、赤色のような、真っ黒のような感情が渦巻くのを感じた。



 その日はミクちゃんの話を一通り聞いて帰った。助けてと送った頃にはもう既に彼氏は家を出ていたこと、些細なことで彼氏を怒らせてしまいしこたま殴られたこと、ミクちゃんはここに一人暮らしであることを聞いた。

 ミクちゃんの話を聞きながら、僕は性的衝動を必死に押し殺していた。性的衝動、と呼ぶのが正しいのかは分からない。ただ、ミクちゃんを今すぐ押し倒してぐちゃぐちゃにしてしまいたいという切望が僕の中を支配していたのだった。

 それでも僕がそうしなかったのは、ミクちゃんがあまりに綺麗だったから。ミクちゃんはばかで、純粋で単純だ。だからミクちゃんがDV彼氏を怒らせて殴られるのもミクちゃんは自分のせいだと信じて疑わない。僕はそんなミクちゃんの愛おしくて美しくて繊細な世界に没頭していたのだった。




 次の日の赤点補講、僕は朝6時に起きてミクちゃんの家へ向かった。親は何も言わなかった。ミクちゃんの部屋へ入るとミクちゃんはまだ寝ていた。すっぴんで眠るミクちゃんも可愛かった。僕はなんだか手持ち無沙汰で、部屋を片付けながらミクちゃんが目覚めるのを待っていた。

 赤点補講の始業まで1時間と30分の7時、ミクちゃんは目覚めた。

「鳴海くん...?なんでここにいるのお?」

 ミクちゃんはまだ寝足りないと言うように眠い目をこすりながら僕にそう問いかける。僕はなんて返せばいいのかわからなくなって、苦笑いして返した。ミクちゃんは何も言わなかった。ただ、ミクちゃんも笑い返してくれた。

「鳴海くん。」

「何?」

「ミクと鳴海くんでさ、夏休みが終わったら、海に飛び降りようよ。」

 有無を言わず僕は頷いていた。ミクちゃんといられるのならなんだっていい。死んだっていい。そのくらいミクちゃんに僕は心酔していたし、ミクちゃんには、出会ってたった2日目だというのに人をそうさせるふしぎな力があった。

 その後、僕達は2人で学校へ向かい、補講を終えた。

 ミクちゃんとの帰り道、何だか気まずい空気が流れたまま昨日の朝顔のプランターの前を通り過ぎる。そんな中で先に口を開いたのはミクちゃんだった。

「ミクね、死ぬなら海がいいの。綺麗な海に綺麗なまま飛び降りて綺麗なまま死ぬの。」

 僕はまた、なんて言ったらいいかわからなくなった。そういう時、僕は決まって苦笑いで返してしまう。いつものように苦笑いで返すと、ミクちゃんは頬を膨らませ怒った。

「もう、いつもそうやって君は曖昧に笑ってさ。ミクのことばかにしてるの?」

「そんなんじゃないよ。僕も海で死にたい、ミクちゃんと。」

 ミクちゃんは少し驚いたように、頬を赤らめてそっぽを向いた。なんだこれ、なんかいい感じじゃないか。地雷女子なんて好みじゃないと思ったけど、ミクちゃんはそんな俗な言葉で片付けられるような女の子じゃないんだ。もっと高尚な存在なんだ、ミクちゃんは。

「鳴海くんって最低。」

 頬を赤らめたままミクちゃんは僕にそう返す。ああ、ミクちゃんは誰よりも傷つきやすくて繊細なんだ。だからこそ、ミクちゃんは誰よりも人の傷つけ方を知っている。僕に傷ついてほしくてそんなチンケな暴言を吐くミクちゃんが、何よりも愛おしく感じた。


 家路に着くと、早速ミクちゃんからのLINEが鬼のように入っていた。僕はニヤニヤしながらそれを眺める。携帯を置き、とりあえず風呂へ向かい上がる頃には連絡はパタリと途絶えていた。

 ミクちゃんは気まぐれだから、とそれに対し僕は何も思わなかった。それが全ての間違いだったのだ。


 翌日、ミクちゃんは首を吊って自殺していた。


 第一発見者は僕だった。昨日と同じように、朝早く僕はミクちゃんの家に行ったからだった。ミクちゃんの首に元々刻み込まれていた索条痕をなぞるように、逞しいロープが括られていた。ミクちゃんのそんな姿を見た僕は、激しく勃起しながら、激しく泣いた。ベルトを外す手が震えて、上手くズボンを脱げない。慌ててズボンを脱ぎ、僕は激しく膨張したそれをこれでもかと擦り、快感を感じる間もないまま射精した。

 僕は翌日から補講にすら行かなくなった。事件の第一発見者になってしまったショック、ということで両親は納得してくれた。

 僕はそのまま学校を辞めた。

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