サナギ
蟻カス
朝顔の歌声
起床即、遠くから響く蝉の鳴き声が、まるで女の泣き叫ぶ悲鳴のように聞こえて俺は顔を顰めた。
ミ
一際大きい蝉の鳴き声が部屋に響く。窓の外に目をやると、蝉が横たわっていた。窓ガラスに激突して死んだようだった。蝉は節足を縮こまらせて、ふっくらとした腹をこちらに仰々しく見せつけている。気分が悪くなった俺は真っ黒なカーテンを隙間なく閉め、完全に光を遮断した。
「圭一、ほなお母さんパート行ってくるから、お腹すいたら冷蔵庫のもの好きに食べてな。」
扉の外から母親の心細げな声が聞こえる。程なくして玄関の扉を施錠する音が聞こえた。俺がいるのに、俺がどこかに行くはずもないのに、母親はいつも必ず施錠してからパートに行く。
外に出なくなって一週間が経つ。この一週間で俺の生活は堕落した。逆に言えば、一週間前までの俺はごく普通の健全な高校生、関谷圭一だったのだ。何が俺を部屋に引き篭もらせてしまったかというと、理由は単純明快、失恋、だった。何よりも愛していた彼女に振られた。俺が重かったんだって。元々彼女に会いに行くために足を運んでいたような学校に、もう行く必要が感じられなくなったのだ。別れ際、彼女はヒステリックに泣き叫んだ。彼女の叫び声が脳みそのシワにこびりついて剥がれない。
俺はベッドに横になり携帯に手を伸ばす。俺と外界との繋がりはもはやSNSだけだった。蝉の死骸が落ちている窓の外とは、真っ黒な遮光カーテンで隔たっていた。部屋の明かりも付けない。携帯の光と俺だけの部屋。
無感情でTwitterを開き、画面をスクロールしていると、1時間前の、1つのツイートが目についた。
『摂津市内、死にたい人を募集しています』
Twitterをしているとこういうツイートを見ることも少なくない。一緒に死ぬ人を探している自殺志願者だ。珍しくもなんともない。ただ、摂津市、その3文字が俺の住んでいる市だったから、少し興味が湧いた。
死にたい人、か。暗い部屋に引き篭って、たまに食事や入浴の為に部屋の外に出る。家からは決して出ない。世間からは決して知られることの無い存在。クラスメイトは、突然学校に来なくなった俺が生きているのか死んでいるのかも知らないだろう。ただ、だからって俺は死にたい人なのか、と考えた。"I want to live." 生きたいとは到底思えない現実。どちらかというと、死にたいのかもしれない。
俺は二の句を考える間もなくその投稿にリプライを送った。『一緒に死にませんか』。さすがに手が震えた。背中が冷たくなった。送ってしまえば後戻り出来ないことになるかもしれない。返事は直ぐに来た。『摂津駅で今すぐ会いましょう』。気が早い奴だなと俺は苦笑いをした。
久々に寝間着から着替えた。学校のジャージが標準装備になりつつあった俺にとって、ただの白Tシャツと黒いスラックスすら堅苦しい衣装に感じられた。Tシャツに袖を通す時、履き潰したスニーカーの紐を結んだ時、ああ俺は1週間ぶりに外に出るんだと思った。
俺は携帯と財布のほか、何も持たずに家を出た。鍵を持っていないから、玄関の施錠はしなかった。真っ直ぐ摂津駅に向かった。一週間ぶりの外の空気はじめじめとしていて、灼熱の暑さで、やっぱり外に出たって良いことなんてひとつもないなと思った。そういえば勢いで会うことになったけど、持ち物何も持ってきていないし、大丈夫かな。待ち合わせるにしても相手の素性を知らないんじゃ出会いようがないじゃないか。
俺はそいつに『どんな姿で待ってますか』と、横断歩道を渡りながらメッセージを送った。
『金髪で、背中に長峰と書かれた青いジャージを来ている男がいたら僕なので、話しかけてください。』
長峰、
聞き覚えのある名前だ。隣のクラスの、もうずっと学校に来ていないという男子の名前がそんなのだったような気がする。それに名前の書かれた青いジャージ。間違いない、同じ学校の生徒だ。そしてきっと隣のクラスの不良の長峰くんなんだろう。
しかし長峰くんだとして、何故自殺するに至るのか?不良だから学校に来ていないんじゃなかったのか?金髪だし。不良って自殺とか考えるのか?汗で背中にTシャツが張り付いて気持ちが悪い。頭の中を疑問が駆け巡る中、俺は摂津駅に着いた。
長峰くんはわかり易すぎる風貌で、奇妙なオブジェの横に突っ立っていた。ブリーチを繰り返してゴワゴワになった金髪に太陽の光が反射してギラギラと輝いていた。袖口の解れたジャージの背中には確かに"長峰"と書かれていた。なんかこいつやばいんじゃないのか。よく見ると目の焦点も合っていないし。俺は上擦った声で彼に話しかけた。
「な、長峰くん?俺Twitterで待ち合わせした奴なんやけど。」
長峰くんは焦点の合わない目を俺に向けて、ぱっと顔を輝かせた。
「おーーーー!セキヤさんか!!よう来てくださった!おれ嬉しい、よろしく!!」
突然大きな声で叫ぶからびっくりした。マジかこいつ。周囲の人がこちらを振り返り怪訝そうな顔をしているのが見えて俺は慌てて長峰くんに次の言葉をかけた。
「えっと、33HRの長峰くんやんな?俺32の関谷圭一っていうモンやけど...。」
「えーー!自分同高なんか!?しかも隣のクラス!?運命とちゃう!?」
まさか一週間前の俺が、あの長峰くんと出会うことになるだなんて思いもしていなかっただろう。長峰くんはあっという間に俺に懐いた。ギラギラした金髪が鬱陶しかったし焦点の合っていない目が気味悪かったけど、馬鹿で良い奴そうな印象だった。
「ほなここじゃなんやし、マクドでも行きまっか!」
俺は長峰くんに引っ張られるがまま、ハンバーガー屋へ入った。
「いや~それにしても暑いなあ、マクドはええ避暑地ですわ!」
まさか一週間前の俺が、あの長峰くんと出会って、マクドで一緒にダブルチーズバーガーを頬張ることになるとは思いもしなかっただろう。
それにしても何故長峰くんはあんなツイートをしていたのか、疑問が頭から離れなかった。目の前でバンズのごまを1粒1粒剥がしながら摘み食いしている男が、まさか死にがっているようには到底思えない。聞いてもいいんだろうか。まあ一緒に死ぬことになるかもしれないんだし、いいか。
「長峰くん、長峰くんはなんで死にたいん?」
長峰くんはごまを剥がす手を止め、やはり焦点の合わない目をこちらに向けて言った。
「おれは、生きてたらあかんねや。」
出会ってからずっとヘラヘラしていた長峰くんが突然真顔になって、低い声でそう答えるもんだから俺は面食らった。なんとなく今、長峰くんを止めなければいけない気がした。
「なんでそんなこと言うん、生きてたらあかんってどういう意味や。」
「わからん、でもそういう人間がおるねん。それがおれやねん。」
よくわからないけど、長峰くんが神妙な顔でそういうから、本当にそんな気もして、俺は何も言えなくなってしまった。
「そういう自分はなんで死にとう思っとるんや。」
聞かれると思っていたから、用意していた返事を返した。
「俺は生きる実感が湧いてへん。ただどちらかというと死んでる方がしっくり来る気がしたんや。だから死にたい。」
マクドで昼間から男子高校生2人がする会話じゃないな、と思った。長峰くんはもうさっきの調子を取り戻していて、シェイクを啜りながら言った。
「なるほど、ようわからんわ!じゃ、早速死にますか、おれんちで!」
ダブルチーズバーガーが最後の晩餐か、と俺は苦笑いした。
「ここがおれんちやで、一人暮らしやから気にせんと、好きにくつろいでや。」
長峰くんの家は古い木造アパートの2階だった。日当たりが悪くジメジメしたアパート。隣に屹立するビルに書かれた『ニコちゃんローン』という金融会社の名前が、なんだかかえって虚しく感じられた。
長峰くんの部屋に入った俺は絶句した。長峰くんの部屋はもうとにかく荒れ果てていた。なんというか、人間が荒らしたようには見えない荒れ方だった。ただ散らかっているばかりではなく、壁紙はところどころ剥がれ、障子はビリビリに引き裂かれていた。足の裏に染み付くカビた畳の質感が気持ち悪かった。
そんな部屋の真ん中に、祀られているかのようにロープが2本置かれていた。
「長峰くん、俺たち、これで死ぬんか?」
「せやで、おれいっぱい調べたんやけど、首吊りが一番苦しゅうなくて確実らしいで!いっぱい調べたんやで!」
長峰くんは鼻息を荒くして「いっぱい調べた」ことをとにかく強調してきた。長峰くんは一体どんな顔で、自殺の方法を「いっぱい調べた」んだろう。
「あれももう見せちゃる!」
そう言って長嶺くんは隣の部屋から物干しスタンドを持ってきた。
「このロープをこの物干しスタンドにかけてな、首掛けたら即お陀仏や!どや、ええやろ?」
いや、その前に物干しスタンドがぶっ壊れると思うけど。ああ俺達は死ねない。そう確信した。でも、なんだか馬鹿らしくなって俺は何も言わなかった。代わりに残りの人生を好きに遊んで過ごそうと提案をした。
俺達は日が暮れるまでゲームをしたり漫画を読んだりして、余生を過ごした。
「関谷くん、そろそろ」
長峰くんが漫画を置いて相変わらず焦点の合わない目をこちらに向けていた。俺は来たか、と思った。
長峰くんはロープを物干しスタンドに括りつけながら話した。
「関谷くん、おれな、朝顔育ててん。でもおれ朝起きれへんから咲いてるとこまともに見た事ないねん。おもろいやろ。」
「おもろいな。」
「朝顔って蓄音機みたいな形しとるよなあ、朝顔が歌うとしたらどんな歌声なんやろな。」
これから俺達は自殺を決行する。でも絶対に死ねないだろう。それが分かっているのは俺だけだった。長峰くんは馬鹿だから、物干しスタンドと俺達の比重なんてものは考えてもいない。分からないんだ。長峰くん自身も自分が死にたい理由が分かっていないように。
「よし、これで完璧や。」
長峰くんは俺に笑いかけた。
「ほないくで。じゃあな、関谷くん!」
「じゃあな長峰くん。」
隣に並んで、2人でロープに首をかけた。途端。
バキバキ ドシン
俺達は尻もちを着いてその場に崩れ落ちた。
ああやっぱり。俺は笑った。やっぱ死ねへんやんけ、こんなオンボロ物干しスタンドで俺らを支えきれるわけないやろ、アホちゃうか長峰くん。まったくアホやなあ。
「なあ、やっぱり死ぬのとかやめへん?」
俺は目尻に涙を浮かべ笑いながら長峰くんの方を見た。
長峰くんは泣いていた。
長峰くんは静かに、啜り泣いていた。
俺があの時、「そんな物干しスタンドじゃ俺達を支えきれへんで」と言っていれば長峰くんは正しく死ねたのかもしれない。
俺はそれをあえて言わないことで、長峰くんを救ったような気持ちになっていた。
俺は、正しかったのか、長峰くんの涙を見ながら、そう思った。
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