13-CHAPTER3
レシピの材料は鞄にある素材でぎりぎり間に合いそうだ。ん、待て、とヴァルダスは目を見張った。材料のひとつにあるのは、虫の羽……。
ミルフィはまだこのレシピを熟読していなかったようだ。しかし今はそんなことを言っている場合ではない。
ヴァルダスはもう何も考えず、先ほどの雑木林に走ると、ひっくり返ったままのかごを手にし、それを振ると中を完全に空にした。そして大木の幹に張り付いていた先ほどの小さな虫を手に取った。そやつらがたまに噛んでくるのでヴァルダスは苛々しながら手のひらを振り、かごに乱雑に放り投げていった。
戻ってきたヴァルダスのかごの中を見たシャンはひえ、と仰け反った。シャンもまた虫が苦手であった。
ルーは海辺の岩の裏に巣食う色々なものを見て慣れていたので、シャンがあらかじめ用意していた小鉢を手にし、冷静にヴァルダスに渡した。
「材料が全て集まって良かった」
「シャン、此処で騒いでいても仕方ない」
「とりあえず今はヴァルダスに任せて、わしたちは待っていよう」
おろおろしていたシャンの背中をさするようにしてルーが言った。シャンはこくこくと頷いた。
駆け足で部屋に戻り、ミルフィの真っ白な顔を見ながら、ヴァルダスは小鉢に全ての材料を入れると、中身を潰しはじめた。
ミルフィの白い顔を見るのは二度目だ。それも二日続けて。昨晩も不安であったが、今も同じ気持ちだった。ヴァルダスは自分の手足が汗で湿ってくるのが分かり、握っている小鉢の棒が滑りそうになる。
あの砂浜で持っていた布をひたすら当てたように、今も手首を動かすしかない。あのときと同じ、ヴァルダスは焦ってしまう。
潰した中身を更に良く練ってから、レシピにあるとおり少量の水を混ぜた。すると若干の青みを持った、どろりとした液体が出来た。つんとしたにおいが鼻をつく。
ほんとうにこれで良いのだろうか。あのときの傷とは違い、今は身体の中に異常がある。目に見えない、異常がある。どうなっているのか、どうなってゆくのか、想像もつかない。
しかしもう、あとには引けない。
ヴァルダスはミルフィの首を少しだけ持ち上げると、小鉢を傾け、薬を飲ませようとした。ところが、小鉢の縁が丸みを持っていることもあり、うっすら開いたミルフィの唇の端からは直ぐにこぼれてゆく。そしてそれは、思ったよりも粘度が高かった。それがさらに薬を飲ませるのを困難にした。
そのうち、中身は減って来た。それはミルフィの胸元を汚すばかりで、先ほどから変わらず口中にはほとんど含まれていない。虫は林に行けばまた獲れるが、鞄の中で保存されていた草花は、使い切ってしまった。
向こうに行って、確実に飲ませることが出来るような
ミルフィの手が静かに持ち上がり、ヴァルダスの手に触れた。
はっとして振り返ると、ミルフィは消え入るような声を出した。
「いかないで、くだ……」
ミルフィは閉じたままの瞳から、一筋の涙をこぼした。そしてまた意識を失ってしまった。
ヴァルダスは机の小鉢を即座に手に取ると、手首を大きく傾け自分の口に一気に薬を含んだ。それからミルフィの唇にそれを押し付けると、力を込めて喉に流し込んだ。
どれほどの時間が過ぎたのだろうか。それはほんの少しだったかも知れないし、ずいぶん長いことそうしていたのかも知れない。
ミルフィは、ゆっくりと目を開け部屋の天井をぼんやりと見た。
そして雑木林と赤いキノコのことを思い出すと、がばっと起き上がり、しかし胸がぎゅうと苦しくて、激しくむせてしまった。
すると目の端に何かがいて、ミルフィが咳き込みながらも確認すると、それはうずくまっているヴァルダスであった。
「ヴァルさん!」
ミルフィは転がるようにしてベッドから降りると、ヴァルダスの背中に手を当て、顔を覗き込んだ。目を強く閉じたままのヴァルダスの息は荒かった。もしかしてわたしと一緒にキノコの毒を吸ってしまったのだろうか。
ミルフィは不安で涙が溢れそうになったが、ヴァルダスの背中をさすったまま振り返って、目に入った自分の鞄をもう片方の手で素早く手元に寄せた。しかしそこには小さな塗り薬が底に転がっているだけだった。
咳込みながら、そうだ、と青いレシピのことを思い出したが、辺りを探っても見つからない。
今は何も出来ないのか。昨晩決めたじゃないか。わたしは薬を使う者なのに。使える者なのに。
そう考えている間も、とにかく咳が止まらない。胸がずきんと痛い気がする。しかしそんなことを気にしている場合ではない。
まずはルーとシャンのところへ、と思ったところで背中からぐうう、と苦しそうなうめき声がした。ミルフィははっとして振り返り、ヴァルダスの顔を改めて覗き込んだ。
「ヴァルさん!」
ミルフィが泣き声でヴァルダスの顔の前にしゃがみ、両肩に手を添えると、ヴァルダスは言った。
「苦い」
にがい? ミルフィはその場に転がっていた小鉢にはっと気が付き、残っていた微かな液体を小指にすくってなめてみた。
んっ、と思わず声が出る。確かにそれはとても苦かった。ミルフィが苦味を感じるほどなのだ、ヴァルダスが耐えられる筈がない。
ミルフィは即座に立ち上がると、キッチンに走った。
「あんた、無事だったんだね!」
「おお!」
ルーとシャンが同時に言ったが、ミルフィはむせながら頷いて、戸棚からふたつの大きなグラスを手にすると、水をたっぷり注いだ。そして咳き込みながら、ヴァルダスのところへ戻った。
「ヴァルさん、水です!」
ヴァルダスが瞳を閉じたままゆらりと顔を上げるのと同時に、ミルフィはヴァルダスの首を上に持ち上げ、なんとか抱えながらに口に流した。それはばしゃばしゃと辺りを濡らしたが、ミルフィは構わず水を飲ませ続けた。
すると、ヴァルダスは少しだけまぶたを開いて、おお、と弱々しく言った。
「ミル、無事で良かった」
ミルフィは溢れた涙がこぼれてしまい、力の入っていないヴァルダスはそのまま後ろに倒れたので、ミルフィはヴァルダスの腰の上に乗る形になった。しかしそのようなことはどうでも良かった。脇から腕を差し入れ背中に回し、力いっぱいに上体を上げ、尚も水を飲ませようとした。
「はい、わたしは大丈夫です」
「ヴァルさんが生きててほんとうに良かった」
その姿勢のまま、ミルフィは半泣きで言った。
ミルフィのあとに駆け足でついてきたルーとシャンは、開きっぱなしだった扉からふたりを見て、張りのあるミルフィの声を聴くと安心したが、青白いヴァルダスには、気が付いていなかった。
そしてそのままキッチンに戻ってしまった。
水を飲んだことにより口の中の苦味がいくらか緩和したのか、ヴァルダスは片腕をついたあと、ゆっくり起き上がった。そして目の前のミルフィを抱き込んで、はああ、と長いため息を付いた。
グラスは転がり、ふたりはびしょ濡れだ。ミルフィはヴァルダスの息が落ち着いたのに安心して、床に置いてあったグラスを手にした。
「もう一杯持ってきましたよ、飲みますか」
そうしよう、と答えたヴァルダスはそれをごくごくと飲んだ。その間にミルフィの咳が止まらないのに気付き、今度はヴァルダスが心配そうに背中をさすった。
「おい、平気なのか」
ミルフィは何とか頷いた。
「あまり覚えていないんですが、あのキノコの粉を吸ったんですよね」
ヴァルダスは大きく頷いた。
「そうだ、それで倒れたのだ」
「ほら、俺の言った通りだったろう」
ミルフィはむせながら、ほんとうですね、と苦笑した。
喉を通ってしまったキノコの粉が、ミルフィの咳を止めないのだろう。息が吸いにくいのか、呼吸が浅いように見える。
「大丈夫なのか」
「はい、ヴァルさんが作ってくれた、げほ、お薬で」
「時間が経てば、えほん、治るはずです」
ヴァルダスは眉を下げて、
「もう良いから、横になっていろ」
と言って、先ほどの薬にまみれ、そして水で濡れてしまったミルフィの顔と首周りを布でぬぐうと、ベッドに戻し、布団をかけた。
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