7-CHAPTER4
ベルが出来るだけ音をたてないようにそろり、と扉を開いて外に出た。
夜風が心地良い。ミルフィは深呼吸してから、宿屋の入り口の階段の端に座った。見上げると相変わらずの星空だ。
ミルフィがぼうっとそれを見ていると、おや、と声を掛けられてミルフィは飛び上がりそうになった。
ディルムだった。同じように静かに扉を開いたのか、ミルフィは背後にディルムがいたのに全く気が付かなかった。昼間と違ってフード付きの上着を完全に脱いでいて、ローブの模様がきらきらとしている。
ディルムは驚いたように言った。
「ヴァルダスはどうしたんだい」
「寝ちゃいました」
「ティエンと同じだな」
ふたりはくすくすと笑った。
並んで星を見上げていると、ディルムが言った。
「僕も星を見に来た」
「夜は何も被らなくて良いから気が楽なんだ」
ミルフィはディルムを見て、訊ねた。
「どうしてディルムさんは普段フードを被っているんですか」
「ああ、周りから見えないようにしてるんだ」
「狼なのをね」
夜空に視線を向けたままディルムは答えた。
「そうなのですか」
「でもヴァルさんは特に何もしていません」
驚いてそう言うと、ディルムは苦笑した。
「あいつは街に寄らないからだって言うけど、気にしてないのが一番の理由なんじゃないかな」
「以前は僕に似たような格好をしていたんだけどね」
ヴァルダスがフードを? ミルフィには想像出来なかった。街に入る前に嫌そうな顔をしていたのは、あくまで人前に出るのを好まなかっただけのようだ。
「でもあいつには今の姿が似合ってるよ」
「マント姿も様になってるしね」
「ディルムさん、お答えいただけたらで良いんですけど」
言いにくそうに口にしたミルフィを、ディルムが不思議そうに見た。
「どうして狼であることを隠すんですか」
ああ、とディルムはまた前を向いた。
「狼というだけで追いかけて来たり、武器を向けたりするやつがいるんだよ」
まあ、とミルフィが驚くと、ディルムは続けた。
「ただの狩猟なのか、でなけりゃ何か目的があるんだろうけど、鬱陶しいったら」
ディルムは不満げにため息をついた。
「基本はこの街のようにどこも平和なんだ」
「けれどたまにね、そういうやつが突然目の前にやって来る」
「もちろん、どこそこにいる兵士もだ」
ミルフィはヴァルダスの戦いを初めて見た時の、あの赤い布を着けた鎧兵士を思い出した。
「何なんだろうな、あいつらは」
「会うと何かと面倒だから、ああしてフードを被ってる」
「まあそんな時があっても、たいてい僕より先にティエンが向かっていくんだけど」
ミルフィは昼間のティエンを思い出して、ふふっと笑った。
「ほんとうに大好きなんですね、ティエンちゃん」
「ディルムさんのこと」
はは、とディルムは照れ臭そうに笑った。
「これじゃあ良いひととの出会いもないよな」
そう言いながらもディルムはまんざらでもなさそうだった。
そしてそのあと遠い目をしてから、微笑んだ。
「自分から敵に向かっていくのは、子供の頃からヴァルダスも同じだった」
「僕が相手に気付く前に、ヴァルダスはもうそいつに向かって走ってるんだ」
「服がめくれて尻尾が思い切り見えてたし、あれじゃあ隠してても意味がない」
ミルフィはそんな少年時代のヴァルダスを想像してくすくすした。
「ただあいつの場合は真正面から向かっていっても、強かったから問題なかったのかもなあ」
「相手を倒してしまえば、狼だとばれることもないしね」
「ただ、以前は強さだけを求めるように戦っているように見えたけど」
ディルムは穏やかな瞳でミルフィを見つめた。
「今はそれだけじゃないのかも知れないね」
ミルフィは慌ててディルムから目を逸らした。
「最近、ダガーの使い方を教えてもらいました」
「出会ったばかりなのですがわたし、少しでもヴァルダスさんのお役に立ちたいんです」
ディルムは、はは、と笑った。
「一緒にいる時間の長さなんて関係ない」
繊細な蔦の模様が小さく星に光る。
「ヴァルダスと君の様子を見て安心したよ」
そう言えば、とディルムは改めてミルフィを見た。
「ミルフィ、君はどこから来たんだい」
優しい声で訊ねた。
「上手く言えないけど、何だか不思議な子だなと思って」
「何となくだけどね」
ミルフィはディルムに微かな笑みを浮かべてから、重ねた自分の指先に視線を落とし、静かに呟いた。
「此処から少し、遠いところからです」
「ほんとうに、少しだけ」
「そうか」
ディルムは前を向いた。少しの間を置いて、
「いつかは――」
と言いかけて俯いたが、結局何も言わずに立ち上がった。
「そろそろ部屋に戻るよ」
「話に付き合ってくれてありがとう」
「良い夢見てくれよ」
そう笑って扉を開け、宿に戻っていった。
しばらくして、ミルフィも戻ることにした。
部屋へと続く階段を登りながら、ミルフィは思う。ディルムさんは一見穏やかだが、意外と鋭い。何を言おうとしたのか、ミルフィは考えないようにした。
静かに扉を開けると、ヴァルダスは良く眠っている。ミルフィは足音を立てないように窓辺のテーブルに向かい、自分の鞄からそろりとポプリの入った小袋を取り出した。そっと両手で包んだあとそれを眺め、鼻に寄せる。
その香りに温室とローズが思い浮かぶ。中に仕舞われている小さな紙切れに触れながら、先日見た夢の景色を思い出していると、ベッドからううん、と声がした。
ミルフィはポプリを鞄に仕舞うと、ヴァルダスの傍に行った。ベッドは意外にもきちんとヴァルダスの身体を乗せていて、ミルフィは安心した。
星灯りで部屋の様子はよく見えた。こちらを向いて眠っていたので、ミルフィは腰を屈めてヴァルダスの顔を見つめた。
長いまつげ、すらりとした鼻筋、真っ直ぐに伸びた黒いひげ。
そう言えばヴァルダスの顔を此処まで近くで見たことがない。綺麗な顔だなあ、と尚も覗き込んでいると、突然腰に手を回されて、ぐい、とそのまま引き寄せられた。
「わっ、ヴァルさん」
ミルフィの声が聴こえていないのか、ヴァルダスの目は開かない。慌ててぽふぽふとヴァルダスの肩を叩いたが、一向に起きる様子がない。
ミルフィは困ってしまったが、回されている腕を何とかほどいた。そして背中を向けようとした途端、またも引き寄せられて、ミルフィはバランスを崩し、ベッドに倒れ込んだ。
ヴァルダスと向かい合っている。ミルフィは動悸と汗が一度に激しくなって、かちこちになった。ヴァルダスは寝息を立てたまま若干前屈みになって、ミルフィをぎゅうと抱きしめている。
どうしようどうしよう。
ヴァルダスに掛けておいた毛布は暑かったのか、床に落ちている。
ミルフィは頭が働かなくて、咄嗟にヴァルダスの胸に両手を当てた。
はだけた上着から出ている毛はふわふわで、幅が広くて、添えた両手よりまだまだ大きい。それが呼吸によりゆっくりと上下して、ミルフィの手のひらは吸い込まれそうな感覚に陥る。
穏やかな鼓動が響いてくる。
とくん、とくん、というその音をしばらく聴いていたら、いつの間にか動悸はおさまり、ミルフィはだんだんと眠くなって来た。
柔らかな胸板に触れていた手のひらの力が段々と抜けてゆく。ヴァルさん、と小さく言って、ミルフィは瞳を閉じた。
小さな部屋に、ふたりの寝息が重なっていった。
朝が来た。小窓から柔らかい光が差し込んでいる。
ヴァルダスは動けないでいた。自分の腕のなかで、ミルフィがすうすう眠っている。目だけで辺りを見回すと、毛布らしきものが床に落ちている。自分の首元はめくれている。俺はまさかミルフィを?
冷や汗をかいていると、ミルフィはますます身体を丸め、ぴったりとヴァルダスの胸元にくっついてきた。柔らかい花のにおいがする。
ああこれは辛いぞ、ヴァルダスは思い、頭の中を空にしようとした。しかしそうしようとすればするほど、頭の中は混乱し、身体はそわそわする。参った。
しかしヴァルダスは自分がこれ以上どうにかなる前に、とミルフィの肩を優しく揺らした。
「ミル、朝だぞ」
ミルフィはうっすら目を開けて、ぼうっとしていたが、目の前にヴァルダスがいたことを思い出すと、わあ、と言って、そのままどさっとベッドから落ちてしまった。
「おい、大丈夫か」
ヴァルダスが慌てて起き上がりミルフィを見ると、腰を押さえながらミルフィは、えへへ、と笑った。
ヴァルダスは落ちている毛布に改めて目をやり、
「ミル、俺は昨日店を出てからどうしていたか」
と恐る恐る聞いた。そこから既に記憶がないようだ。
「良く眠っていましたよ」
ミルフィが目を逸らし、ふたり一緒に眠っていたことについては言及しないので、ヴァルダスは焦ってしまった。
意を決して訊いた。
「俺は何か、したか」
その問いにミルフィは顔を赤くしてふるふる、頭を振った。
「では何故、ああして――」
「ほんとうに何も覚えていないんですね」
苦笑したミルフィにヴァルダスが尚も焦っていると、扉の向こうを誰かが通り過ぎる声がする。
「あたま痛い」
「あんなに飲むからだ」
ディルムとティエンだ。ふたりは我に返ると、慌てて荷物をまとめはじめた。
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