直弥

 クセェとこには誰も寄り付かねェ。俺の痩せていく体ひとつでそれは、十分すぎるほど証明できた。


 当時、親父にケチをつけて無理やり別居に持ち込んだらしい母ちゃんは、家にいることが少なかった。いつも派手な服着て、フィルムに包まれたコンビニの握り飯を三つぽっちと俺を置いて「じゃ」つってドアの向こうに行ってたから、それ以上のことは知りようもねェ。それくらい俺は赤チャン寄りのガキだった。


 母ちゃんが全く帰って来なくなった頃、泣いても喚いても、ただでさえ汚ぇ部屋がさらに荒れても誰も来ちゃくれなかった。初めは壁を殴れば怒鳴り返されてたのにそれがなくなって、ある時壁に耳を当ててみたら、どうやら無視されてるらしいことを知った。


 俺以外に誰もいないそんな狭ェ世界で、それ以上何ができた? きっとこのまま体がガキに戻って同じ時間に行けたとして、俺には答えが出せねぇ。そんな気ィするわ。


「直弥」

 

 親父が迎えに来てくれたのは、俺が虫の息になった頃だった。定期的に俺の様子を知らせる、つー約束を母ちゃんが反故にしてどっかに消えたから、心配になって来たらしい。

 もうこのあたりは俺も記憶が曖昧で、親父も気ィ遣って詳しく教えてくれねェ。

 あの日の事で覚えてンのは、突然肺に流れ込んできた空気の美味さと、親父のゴツい腕と、野次馬のうざってえ視線。それと、厳つい親父の――こっちまで切なくなっちまうような悲しそうな目と、降らされた俺の名前。

 結局、そういう人しかごみ溜の中に飛び込んでくれる人間はいなかった。


 終わったことだ。もう今は気にしてねェ。

 母ちゃんがそのあとどうなってようがどうでもいいし、親父との二人暮しは正直言って楽しいし。問題あったのは周囲な。

 ぐちゃぐちゃ汚ぇ噂流して、大人でもガキでも俺にわざわざ「これってホント?」とか直訳したらそういう意味合いのコト聞いてきやがる。ネグレクト? 知らねェよ、イタイケなガキに余計な言葉教えてくんな。


 溜まったモヤつきに限界が来てブチ切れた俺は、幼稚園に入る直前にすげえ荒れた。同じ組のガキも喧嘩売ってきたり、馬鹿にしてきやがったらボコボコにした。幼稚園の先生も俺の生い立ちにばっか目がいってちゃんと叱ってくれねェ。その癖クソ生意気なバカタレ共のことを叱るわけでもねェ。

 環境が前より整ってるはずなのに、とんでもなく生きづらかった。


「それ、じげってヤツ!?」


 幼稚園の年中になった頃、同じ組になったガキがやけに興奮してそう聞いてきた。自分からこうして純粋に近づいてくるヤツがいなかったから、かなりビビったけど、羨んでくるアイツが眩しくて普通に会話したし、その日の内に名前を覚えてダチになった。


 椋伍。お前ホント不思議だわ。お前の声だとどんなに滅茶苦茶な話でもスっと入って来る。

 

「なおやはケンカも強いし見た目カッコイイけど、いっつも怒ってんのもったいねーよ」

「オレこういうヤツだし」

「ちっがうよぉ。おべんとキレーに食べたり、ブランコ待ってるのがいたらすぐ代わったりさァ、すごくオトコマエなとこあるのにそうやって隠すじゃん。ケンカちょっとにしようよ」

「え、やめろってハナシじゃねえの?」

「なおやケンカすぐにやめるのはムリじゃん?」

「ん、まあ」

「だからちょっとでいいんだって。コーコーセーになるまでにゼロにしたらいいじゃん」


 そんなふうに笑ったお前にどんだけ救われたか知れねェ。お前の言う通り誰彼構わず喧嘩買うのも、威圧すんのも辞めた。それだけで雑音が随分減って、息がしやすくなった。普通の遊びもお前が誘ってきたから知れて、テメェがまともになっていくような、あの頃の俺が綺麗になっていくような気になれた。


 だからずっと、小学生になってからもお前に何か返したかった。お前だけじゃねえ。こんな俺でも受け入れてくれて、親父が仕事でなかなか帰れねえ時には面倒見てくれた、お前のお母さんとコヨリちゃんにだって感謝してもしきれなかった。

 祭りの準備で忙しい二人に代わって「ヤベエ」って噂の井戸をなんとかしたかったのもそんな理由で、あんな惨い結果になるなんて思ってもみなかった。

 恩を返すどころか取り返しのつかねえ事をした。コヨリちゃんは死んで、椋伍は壊れた。一家は×××を離れて長い間会えなかった。手紙は椋伍のお母さんが俺を心配して何度も寄越してくれて、俺も土地を離れて、それでも届く便りにただ返事を書く日々が続いたある時、


「岸本直弥。趣味はコンビニでエロ本読んでるオッサンを窓越しにガン見することです」

「幼なじみの口からそんなセリフ聞きたくなかったんだけど!?」


 出戻って転入した中学で突然椋伍と再会した。

 なんだ、元通りじゃねえか。初日からあの頃みてぇに話してくれたアイツに胸をなでおろして、罪もほんの少し軽くなった気になってよォ。

 全然そんなことねえのはすぐに分かって、罪が増えた感覚にしばらくアイツの目が見れなかった。


 なあ、今何考えてる?

 ヤベエのには首突っ込まねェんじゃなかったのかよ。なんだよその気色悪ィ紙。お前そんなんじゃなかったじゃねーか。しかもなんで天龍に関わってんだよ。シカトしろや。


「冷てえ」

 

 骨身に染みる冷えに、思わず呟いたら口ン中に水が流れ込んだ。全身は氷に包まれてるんじゃねえかと思うほど寒いのに、体の中までソイツで凍えさせられる。

 前にもあったな。

 アレだ、古井戸に落ちた時同じカンジだったわ。お前がえらく泣きながら謝る声がするから、あの狭い部屋を思い出してしょうがなかった。お前があそこに放り込まれてるみてーな気になって、必死で出してやってくれって叫んだんだよ。


 完全に忘れてた。


「死んでたら何してもいいのかよッ!!」


 空気で体が浮あがるみてぇに、意識が覚醒する。真っ暗などこかをゆっくり沈んでいくのに気づいて、のろのろそれの正体を探る。みず、水だ。俺、ああ、井戸か。察した瞬間、降ってきた何かに全身を押さえつけられて、泣けなしの酸素が全部出ちまう。

 何かは慌てた感じで俺の脇に避けて、肩を貸す体勢になったから取り込んだ水を一気に吐き出せた。ああ。空気が痛くて美味い。空に天井ができていくのを酸欠でぼんやりしながら眺めてりゃ、


「オレ消えてもいいです!!」


 そう耳のすぐ近くで、椋伍がどこかに向けて叫んだ。

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