コヨリ曰く
わたしには椋伍という名前の可愛い弟がいる。
上の字は、ムクノキみたいにまっすぐ素直に育ちますようにと願いを込めて両親が決めた。下の字はわたしが決めていいと言われたから、国語辞書で探して「伍する」から選んだ。
ひと目見た時から「この子はきっといろんなものに好かれてしまう」と思ったから、奪われないように、壊されないように生きて欲しくて。
「あら、素敵な名前」
メモを渡すと垂れ目がちの目尻をさらに下げて笑ったお母さんに抱っこされて、弟が宙へ手を伸ばす。やんちゃなこの子にぴったりね、と生まれたての柔い頬を指で撫でる母にバレないよう、引き攣りそうになる頬を必死に堪えてわたしも笑った。
ベッドの脇に、わたしの向かいに、全身が真っ黒に塗りつぶされてるような姿の女の人が立っていた。早巻きのテープみたいに何かを喋っていて、愛おしそうに弟を見ているのが何故だか分かる。
まだ目が開かないはずの弟は、その先に何かがいるらしいことに気がついていて、伸ばした小さな指先がついにその女の人の手にツンと触れると、途端にジュウと蒸発するような音を立てて溶かした。⋯⋯溶かした?
「えっ」
「ん? どうしたの?」
「なんでもない」
びっくりして声を上げたけど、お母さんがさらに何かを聞いてくる前に、ねう、うねう、と弟がぐずり始めたから、穏やかにあやし始めて話が流れる。
女の人は痛みに叫び悶絶していたけど、それでも弟のことが可愛いらしい。
まるでうっとりとするように首を傾けて、ベッドの縁に溶けた手を揃え置いて、近づけるだけ近づいて弟を眺めるのをやめなかった。
母と弟が退院する頃には、その黒い女の人は生前の面影が伺えるまでに綺麗になっていた。
病院の敷地を出る時に弟に指を握ってもらって、満たされた顔で白く輝いて消えていったから、多分昇天したんだろう。
こんなことがずっと続くんだろうな、と漠然と思っていたけどまさか幼稚園、小学生と歳を重ねるごとに頻度が上がるなんて思ってもみなかった。
「チューリップばたけに手がおちてたから、たなにいれてあげたよ」
「えっどこの?」
「ようちえんの」
「だ、誰の⋯⋯?」
「りょうちゃんの」
こういう事は日常茶飯事で、
「知らないおじさんがかっこいいブンブンごまくれたよ」
「あら、よかったねえ。どんなの貰ったか見てもいい?」
「うん! これ、ね。漢字が書いてる! なんて読むかお姉ちゃんわかる?」
「あー⋯⋯その、ちょっと読んじゃ駄目なもの、かな」
「えー、またー? じゃあ作り方マネするから、こっちはお墓つくってもいーい?」
「いいよ。お姉ちゃんがジュッとしておくね」
こんなふうに、すぐに弟は駄目なものを理解してくれたし、不満そうな顔はしても言うことを聞いてくれていた。
だからあの日も大丈夫だと高を括っていたのに。
「りょーごとはぐれた」
からりと晴れた日の正午。弟と一番仲がいい男の子がずぶ濡れになって家まで訪ねてきた。
「直弥くん!? ど、どうしたの」
「りょーごと、はぐれた」
眠たそうな、ぼんやりとした目で繰り返す彼と目線を合わせるために膝立ちになった瞬間に、ふと違和感を覚える。
直弥くんが半分に割れてる。体じゃなくて中身の話。
肉体は魂の器だ。その魂は肉体にパック納豆みたいにたくさん入っている。そのひとつひとつが肉体を持つ人のもので、死期が近かったり、死んでしまったりしない限りは減っていかないと私は思っていた。
それが彼の場合、一度半分だけ削り出してまた入れ物の中に戻したみたいに分かれている。
「どこに行ってたの。ねえ、なおくんお願い。なおくん!」
「コヨリ? なにをそんなに騒いで⋯⋯なおくん!? どうしたの一体!?」
廊下にひょこりと顔をのぞかせたお母さんが、声をひっくり返して駆け寄ってくるけどそれどころじゃない。
直弥くんの両手を握って祈るように何度も問いかけると、少しだけ目に光が戻った彼が「山に行ってた。なにしてたか、わかんない。寒くて冷たかったのがりょーごの声でなくなった」たどたどしくそう告げて、ふつりと糸が切れたように崩れ落ちた。お母さんが悲鳴をあげて抱き抱える。
「お母さん、なおくんをお願い」
「コヨリ!?」
「りょうちゃんを連れて帰ってくるから」
制止を振り切って家を飛び出して向かったのは、東方山。井戸神様がおわす山。あそこの神様は信仰する人が少しずつ西野山に流れているせいで荒れ始めていて、最近では独特な、嫌なザラつきを木の葉や霧、水から発するようになっていた。
それが直弥くんの体にまとわりついた水には間違いなく含まれていたから、気づいた瞬間からもうずぅと心臓が凍りそうで、走る足は疲労で感覚がなくなっても止められなかった。
「りょうちゃん!!」
山の麓にある、少し小高い丘の上。来るべき儀式の為に、手入れだけは先に進めていたその場所は雑草も要らない木も除かれて、とても見通しが良かった。
そこに雨ざらしの古井戸がぽつんとひとつあって、その陰から見えた小さな足に、わたしは金切り声に近い叫びを上げて駆け寄った。
「りょうちゃん!! りょうちゃん!!」
枯れ草や濡れた土がこびり付いて汚れた弟は、直弥くんと同じくびっしょりと全身が濡れていて、張り付いた衣服やTシャツからむき出しになった腕からも、氷のような体温が伝わった。じわりと視界が歪んで、涙があふれる。
「やだ、やだよ。お願い起きて。なんで半分なの。なんで壊されてるの、なんで」
嗚咽混じりに喚いて縋って、体を揺さぶる。目は開かない。脈が弱い。
そこまできて、突然その激情が私の中で湧いた。
カッと頭に血が上って、力任せに古井戸の蓋を空いている方の腕で押し退けて「井戸神様!!」とお腹の底から叫ぶ。
「お休みのところを大変失礼致します、どうかお聞かせください!! 何故弟を半分食らったのですか!? この子と一緒にいた子どもの半分を戻したのは何故ですか!? 二人はあなた様にどのような不敬を働いたのでしょう、お聞かせください!!」
ごう、と井戸の底が震える。生暖かい風が、身を乗り出したわたしの顔に吹きかかった刹那、ぐん、と意識に映像が流れ込んだ。
「井戸から変な臭いすんの」
井戸の蓋を内側から見ている視界だった。隙間から陽の光が漏れて、直弥くんの声がそんなことを言っているのが聞こえる。
「知りたくねーよ。帰ろうよ、なおやぁ」
「でもうんこみてーな臭いなンだもん。気になるだろ」
「そんなこと言うなよぉ。ゆったじゃん、そこ神様が居るって。バチあたりだから帰ろうよ」
「だから余計うんこキレーにしねェとダメだろ。コヨリちゃん祭り近いんだし、忙しいだろうから手伝ってやろーぜ」
「わっバカそこ」
バキン、と蓋の真ん中あたりが割れて井戸の中へ落ちてくる。小さな手が焦ったように割れた破片を掴もうと空を掻いたけど、間に合うはずもない。パシャンと水音が少しして響いて、あーあ、と直弥くんが井戸を覗く。
「壊れたじゃん。しかも臭っ。サイアク」
こんなんじゃもう誰も来ねーわ、こんなとこ。
その言葉の反響音が止まない内に、井戸はずんと重たく空気を吸い込んで、直弥くんを中に引き込んだ。
「⋯⋯。わたしの弟は、身代わりになったんですね」
映像が途切れて、わたしは井戸にしなだれ掛かるようにして脱力した。
むせ返るような古い水の臭いがあたりに立ち込めても、気にならない。どうでもよかった。虫の息の弟を抱き寄せて問いかける。
「わたしの半分は代わりになりますか?」
反応はない。無理もないなと思った。そんなことで収まるはずがないんだ。そこまで考えて、少しだけ笑いが込み上げた。もう覚悟は出来ている。
「この先何も感じず、何も見えずに過ごすことになっても構いません。私の半分にそちらも添えて差し上げます。どうか彼と弟をお許しください」
井戸から低く唸る風の音が聞こえてくる。
ああ、よかった。
「りょうちゃん、一緒に帰ろうね」
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