アゲハ蝶の鱗粉

アゲハ蝶の鱗粉

 傘を忘れて駅前で立ちすくみます。

 目の前の整合性のとれたコンクリートの地面には、集団心理の絨毯が敷かれています。

 その上を沢山の人が分かったふりをしながら歩いています。

 俺はその光景をただ眺めているだけです。

 傘を持った学生やサラリーマンやらに次々追い抜かされました。

 俺には家に帰るのに急ぐ理由がありません。

 水溜まりに映る歪んだ自分の顔を見つめます。

 どうやら雨脚が強くなってきたみたいです。

 どうでもよくなって前に足を踏み出しました。水溜まりから弾けるように飛沫が上がり、靴に入りますが不思議と気になりません。

 空気を大きく吸い込みます。

 俺は決めました。

 思い出の屋上へ向かおうと思います。

 ピンセットで摘むように慎重に言葉を選んだ場所に行こうと思います。

 と足を踏み出した時に、右肩に何かがぶつかって俺は体勢を崩し、膝を地面に着いてしまいました。

「すみません」

 俺はぶつかったであろう人に向けて謝りました。後ろを見るとその人はもう向こうに行ってしまっていて、どんどん後ろ姿が小さくなっていきます。

 なぜ俺は謝ったのでしょうか。

 なぜ思い出の場所へ行こうなんて思ったのでしょうか。

 まだこの場所に引っ越してきて、一週間しか経っていないのに。


 風のように過ぎ去る一週間は、何も成し遂げず、無駄を大量生産して、心臓を逆撫でるだけでした。

 なぜこの地へ引っ越してきたんでしょうか。

 それまで俺はなにをして生きてきたのでしょうか。

 朦朧としたまま、流れていく雲目掛けて足を進めていると、なにやら見覚えのある道を進んでいることに気づいて思わず「えっ」なんて呆気ない声を出してしまいました。

 あと5分もしないところにその屋上があるマンションがあることを、俺はその時確信しました。

 やはり、この道の光景には見覚えがあります。

 左に見える少し古そうな一軒家からスパイシーなカレーの匂いが流れ出て鼻を刺激したのがフラッシュバックして思わずお腹がなりそうになってしまうほどなんですから。

 雲で太陽は隠れているのに、あの向こうに見える公園のベンチで座った時の木漏れ日の角度まで鮮明に見えてしまうほどなんですから。

 きっと気の所為ではないのでしょう。

 ですが、進めば進むほど、この視界を広げれば広げるほど、違和感を感じずにはいられないのです。

 それは、それは……なぜでしょうか。

 なぜか、この光景が、景色が、肌に当たる生暖かい空気さえも空虚なものに感じてしまってならないのです。


 ついにその屋上があるマンションへ着きました。

 6階立てで屋上を見るには少々首が痛くなります。

 側面に向かうと、よくありそうな螺旋上の非常階段がありました。

 白いペンキはほぼ剥がれ落ちていて、触れれば手が茶色に染まってしまうであろう手すりが酷い老朽化を表しています。

『立ち入り禁止』『危険』と注意書きが見えましたが、気にせず俺はその階段を登り始めました。

 一つ一つ駆け上がる度にパラパラと粉が落ちます。もう長くはもたないでしょう。

 それどころかこの時間、この登っている間、この刹那に螺旋階段が崩れ落ちて終わりを迎える、なんて妄想をしながら「それも人生」と勝手に結論付けて俺はほのかに笑みを零します。

 微小に息を弾ませながら、最後の一段を進み、やっと屋上に着きました。

 俺はすぐさま走りその空間の中心へと走ると、周りをぐるりと見渡しました。

 四方は2mほどの金網で囲まれていて、少し閉鎖感を感じると思いきやそうでもなかったです。

 もう長い時間人が来なかったのか、数本の通気管や換気口には若干の緑が絡みついていました。地面のあらゆる裂け目からも生命を感じます。

 俺はその中から一輪の黄色い花のたんぽぽを摘みました。

 見えるはずのない足跡に重ねるように進み、前を向くとそこだけは金網がありませんでした。

 俺はそのたんぽぽを段に添えます。

 今夜も酒を飲もうと思います。




 俺はクズです。本当にごめんなさい。いつも矛盾しながら生きています。

 自分のことはどうでもいいとか言いながら、どうでも良くありません。約束を守るといいながら守りません。自分の信念を高々と掲げ、自分ですぐに曲げます。そのくせあとで後悔します。まるで人間みたいです。

 俺はよく自分を卑下します。そんなの誰が聴いても嬉しくありません。弱さも振りかざせば暴力です。俺は暴力を周りにふるっています。

 俺は嫌いという言葉が苦手です。なぜなら、嫌いというのは拒絶だからです。僕はなにに対しても拒絶したくないので嫌いという言葉は使いません。それを踏まえて、俺は俺が嫌いです。

 俺は周りに恵まれています。なのに、言い訳ばかりしています。得意なことは期待を裏切ることです。いや期待されていると思っていたバカです。

 僕は焦っていました。いや今もです。透明の見えない檻に囲まれているようです。不安と焦りが出てきて、机に伏せて、しまいには布団の中に潜り込みます。

 他人に理想を押し付けます。そして勝手に失望します。俺は自分がされて嫌なことを平気でします。それを言い訳しています。要するに自分勝手なんです。

 挙句の果てには鬱だとかパニックだとかなんか色々なものを抱えましたが、それは言い訳で、それも自分です。

 モノクロの世界で生きてました。見えた色を調合してみましたが、やはり色が付きません。

 自分に自信がもてないです。自分に価値を見いだせません。そのくせ口だけは達者です。

 俺はクズでどうしようもない甲斐性なしです。

 全てにおいて、俺は俺のことが嫌いです。


 そんな俺が23歳になった頃、彼女と出会いました。

 彼女はとても魅力的でした。なんていったって話していて一番楽しいんです。価値観を共有し合えるんです。

「それはそれは夢みたいなものでした」なんて、ありきたりな表現では幾分どころではなく言葉が足りません。

話すときりがないし、どこがと言われれば言葉を濁してしまうかもしれませんが、とにかく、少しずつ少しずつ彼女に惹かれていったのです。

 やがて、俺はその人に迷惑かけたくないからといって避けようとしました。なぜなら、傷つけないように、彼女の世界に自分を入れないように、彼女の人生を歪ませないように、そう思ってしまったからです。

 人は何かを手に入れたと同時に、失う可能性についても考えなくてはならないと思います。だから俺は眺めようとしたのです。それは間違っていたのだと、今になって思います

 そのように考えがあるのにも関わらず、俺は彼女に近づき、あまつさえ想いを伝えてしまいました。

 驚いたことに彼女も同じ想いを抱いていてくれていました。

 どうしようもない嬉しさが込み上げてきたと同時に、また俺は俺のことが嫌いになりました。

 それからはもう最高の日々でした。今でも思い出すのです。何度も手を繋ぎ、何度も口を重ね、風が吹き、雨が降り、日は照らし、そして二人が歩いていく風景を。

 そんな日常を何度も、何度も、思い出すのです。

 彼女は俺に色を足してくれました。彼女は俺にほんの少しの自信を与えました。彼女は俺を変えてくれました。彼女は俺を愛してくれました。彼女を俺は愛しました。

 そう、俺は愛していたのです。今飲んでいるリキュールが入ったグラスが小刻みに揺れているのがその証拠でしょう。この胸が苦しいのがその証拠でしょう。焼き付けられるような痛みがその証拠でしょう。

 あぁ、酔っているのかも知れません。

 ここがバーということも忘れて割れるぐらいにグラスを握りしめながら、目から流れ頬を伝い零れ落ちるその雫を止めることさえ出来ないのだから。

 後ろでは熱心にダーツを放つ男たちがいるのにです。

 カウンター横にある窓から見える景色を見ると、外ではまだ雨が降っているようでした。窓枠ぎりぎりに見えるうっすらとした月には音が纏わりついている気がしました。

 俺はグラスの中のリキュールを無理やり口に入れました。言葉と共に飲み込むともっと苦かったです。

 グラスをテーブルに置き、氷が崩れて音が響く。空になったグラスをマスターは見るとこう言いました。

「どうですか、もう1杯いりますか?」

 俺は俯きながら左手を振り、断りました。

 するとマスターは表情一つと変えず少し間を置いてからこう答えました。

「ではおすすめがございます。『アゲハ蝶の鱗粉』はいかがでしょう」

 俺の顔を見て、マスターはほくそ笑んだように見えました。

『アゲハ蝶の鱗粉』という言葉は俺の耳に妙にザラザラとした感触を残しました。

 俺は頷きました。


 俺はいつからこの世界にいたのでしょうか。

 そう問うと、途端に言葉は暗闇に吸い込まれていきます。言葉の虚しさが静謐とした空間に響きます。なんと無力なのでしょうか。

 少し前には彼女がいて、ずっと同じ場所にいたはずなんです。さっきまで酒を飲んでいたのではないかと頭に過ぎりましたが、もうそんなことどうでもよくなっていました。

 これが本当に俺が選んできた道なんでしょうか。

 本当にこれが俺が望んだものなのでしょうか。

 ボタンの掛け違いで、たった一つのことで全てが元に戻って歯車が噛み合うようなものではないのでしょうか。

 ふと、前を見つめると、ふわりふわりと一匹の蝶が俺を横切りました。

 アゲハ蝶です。

 どこかで身に覚えがあった気がします。しかし蝶と同じようにゆらりゆらりと揺れて何も思い出せません。

 暗い夜に羽ばたく黒い鱗粉が青白く輝きます。

 俺は危機感を覚えました。

 ──見蕩れてはいけない。

 蝶々はまた僕の周りをゆらりゆらりと舞い、誘います。

「Shall we dance」

 蝶々は耳元で囁きました。

 ──踊ってはいけない。

 しかし、導かれるように歩いてしまうのです。そう、確信的な足取りで。

 俺は嘘のない心を錆びないようにしなければならないのです。

 魂を研がなくてはならなかったのです。

 チラチラと光るアゲハ蝶が目の前で舞う。

 おもい一雫が肩に落ちたのを感じました。

 そして俺はまだ音が鳴る踏切をくぐってしまったのでした。

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