僕が見た小さな奇跡の話を聞いてほしい。

津道あんな

第1話

それは僕が吉田メンタルクリニックでバイトを始めて3年目になろうかというときの出来事だったと思う。僕は心理学を勉強中の学生で、面接に来た中で一番催眠術にかかりやすかったからという理由で採用されたことを不思議に思わないくらいにはここでの日常に慣れてきていた。


***

「ガッツリしたもんが食いたいねえ」

そうこぼしていた先生のために牛丼を買いに行ってクリニックのあるビルのエレベーターを待っていると、中から見覚えのある女性が出てきた。数か月前に初めて来たときは濃い隈のせいでげっそりとして見えた顔は、隈が随分と薄くなりうっすらとではあるが化粧もされているようだった。順調に回復していることに一安心して僕はエレベーターに乗り込む。目指す先は僕のバイト先、吉田メンタルクリニックだ。

「昼飯買ってきましたよー」

「おー。助かる」

午前中の診療を終えた先生はベランダで一服中だった。

事務室の狭い机に買ってきた牛丼を置いて、昼食の準備をしながら僕は背中に声をかける。

「さっき佐々木さんとすれ違ったんですけど、不眠、治ってきたんですね」

「今のところはね」

「すごいですね。他のところではカウンセリングを何度受けても寝れなかったって言ってたのに」

「彼女には合ってたんだろうね」

「先生の腕じゃないんですか?」

「それもなくはないよねえ」

煙を吐き出しながら軽い口調で僕の振りに気さくに応えてくれるの吉田先生だ。

精神科医の先生が一人で切り盛りしている小さなカウンセリングルームは、一般的なカウンセリングの他に催眠療法という治療も取り入れている。

催眠療法というのは心身ともにリラックスし、潜在意識が顕在意識よりも優位な催眠状態で行う心理療法で、アメリカでは公式に認められた治療法らしい。僕もバイトの面接時に体験したけれど、それは不思議な時間だった。例えるなら映画に夢中で見入ってしまって、確かに自分はいるのだけれど映画の主人公と感情も体験も同期していて涙は出るし鳥肌は立つという体験だけれど、なかなかうまく表現ができない。

催眠療法の1回の診療時間は2~3時間かかる上に1回5万円という強気な価格設定でも、口コミで評判を聞きつけた他のクリニックでは効果がでなかったとか服薬せずに治したいという患者さんが来るのでほぼ毎日催眠療法の予約はある。

実際に吉田先生の腕は良いらしく、長年リストカットを止められなかったけれど止められるようになったり、親との関係に悩んでいたけれど相手を赦せるようになっていったという患者さんは多い。

「牛丼か。いいね」

「いつも通り並盛つゆだくでトッピングは温玉です」

「ありがとう」

先生と昼食を取りつつ、午後の準備のために予約の確認をとる。パソコンの予約表にには午後は通常のカウンセリングが4件と白川さんの催眠療法が記載されていた。

催眠療法が多くの人に効くとは言っても全ての人に効く訳ではない。白川さんは後者の患者だ。もともとは長年連れ添った夫を亡くした喪失感から鬱気味になり、カウンセリングを受けに来院された。鬱気味の症状は完治してしばらく姿を見せていなかったが、あるとき催眠療法で故人に会えるかもしれないという噂をきいたらしく、それから毎週催眠療法を受けにくるようになった。かれこれ2年以上通っているが、望むような効果は得られていない。

「午後は白川さんだよね」

今日はどうアプローチしようかと考え始めた先生に思わず尋ねてしまう。

「今更の質問ですけど、本当に催眠療法で故人に会えるんですか?」

「理論上は可能だよ。ただ僕も経験がないから分からないんだ。そのことはもちろん白川さんには伝えているよ」

「そんな低い確率に500万以上費やしているんですね……」

ざっと計算した額に僕は眩暈がした。僕が500万円を自由に使えるなら何に使うのか一瞬考えてみたけど、普通の大学生である僕には額が大きすぎてよく分からなかった。

「どうしても旦那さんに会いたいんだろうね」

「……愛ですね」

「……愛だねえ」

しんみりとした雰囲気の中、僕たちは牛丼を口に運んだ。


***

「今日もお話できて楽しかったわ」

カウンセリングルームから出てきて清算を済ます白川さんの第一声はそれで今回も旦那さんと会えなかったのだと分かった。

「その、……」

「会えなくてもこうしてあの人のことを誰かとお話しできるのはとても楽しいのよ。そうそう今日はあの人が好きだったマドレーヌを焼いてみたの。吉田先生にはお渡ししたからあなたもぜひ召し上がって」

口ごもる僕に白川さんはラッピングされたマドレーヌを手渡してきた。

「ありがとうございます。この後いただきますね」

「お口に合うと嬉しいわ。感想は来週聞かせて頂戴?」

上品に笑う白川さんをお見送りした後、カウンセリングルームを覗いた。今日の予約は白川さんが最後で、僕はカウンセリングルームを掃除してバイトを上がることになっている。ベランダで一服する先生を横目に掃除機をかけ、ゴミを捨て、机を拭きいつも通りのルーティンをこなしていく。観葉植物への水やりを終えて「お疲れ様です」を口にしようとしたときだった。

「マドレーヌ、食べてきなよ。コーヒー入れるから座ってて」

こうして白川さんから手作りのお菓子をもらうことは今までもあったのに、一緒に食べようと誘われたのは初めてだった。珍しいことに驚きながら普段は座ることのないカウンセリングルームのソファーに腰かけた。

いや、ちょっと待て。マドレーヌを食べたらカスが落ちてまた掃除機をかける必要があるのでは?と落ち込んでいるとコーヒーが運ばれてきた。

「コーヒーはブラックでいいよね」

「はい」

「じゃ、食べて」

先生は向かいに座るとじっと僕のことを見つめる。視線の強さに戸惑いながらもマドレーヌを一口齧ると蜂蜜の甘さの中にほんのりとレモンの香りがした。一人暮らしの大学生では到底味わえない複雑な味に自然と頬が緩むのが分かった。

「感想は?」

そう聞かれるよりも早く二口目を齧ってしまったから、僕はもぐもぐと頬を動かす。ごくりと飲み込んで僕を観察する先生の視線を感じながら思ったことを口にした。

「……優しい味がします。もちろんコーヒーとも合うでしょうけど、甘さはくどくないし、最後にはレモンの香りがふわっとして、その余韻をコーヒーで流しちゃうのが勿体ないように思うんです」

「そうなんだ?」

「はい。旦那さんのために作った味なんだなって思うと勿体ないっていうか。いつまでも味わっていたいなと思えるというか」

思ったことをそのまま口にしたら想像以上に気障な台詞になってしまった。吉田先生はにこにこと僕を見つめるだけだから余計に恥ずかしい。

「……今のは忘れてください。美味しかったんです」

先生をなるべく見ないようにしながら、残りのマドレーヌをまた一口齧る。恥ずかしさから逃げるには残り全部を大口で頬張ってしまえばいいのだけれど、僕にはできなかった。

ちまちまと食べ勧める僕を見ながら先生は思いもよらないことを口にした。

「小林くんさ、来週、白川さんとデートしてきてれるかな?」

「ふぇーとでふか?」

「そう。デート」

口の中に何もなくなった後もしばらくコーヒーを飲もうとしなかった僕に先生は「いけるかもしれない」とこぼした。


***

「今日はよろしくお願いします」

「こちらこそだわ。私に我儘に突き合わせてしまってごめんなさいね」

翌週、僕と白川さんは吉田メンタルクリニックではなく都内の銀杏並木が有名な場所で向かい合っていた。

先生は僕が帰宅した後、白川さんに電話をかけ、治療方針の検討のために旦那さんと行った場所で特に印象の深い場所を巡ってはどうかという提案をして、そのために次回の診察時にアルバムを持ってくるように伝えたらしい。素直にアルバムを持ってきた白川さんから数時間みっちりと旦那さんの思い出をききながら、一緒に巡る場所を決めて、その数日後の週末、デートをすることになった。

「僕では役不足かもしれませんが、今日は精一杯エスコートしますので。よければどうぞ」

そういって腕を差し出すと、白川さんは「嬉しいわ」と言って僕の腕に自分のを絡めた。

吉田先生からは「なるべく当時の旦那さんになりきって接してほしい」との指示を受けていたので、前日に先生が書き留めていた旦那さんに関するメモを読み込んでデートに臨んでいた。

メモによると後の旦那さんになる人と初めて出会ったのは白川さんが15歳で旦那さんが17歳、お付き合いを始めたのは白川さんが18歳で旦那さんが20歳、22歳と24歳で結婚し、旦那さんが75歳で他界するまで二人で生きてきた。子どもは望んでいたけれど恵まれず、親族から後ろ指をさされていた白川さんを守ってくれた。器用ではないけれど、節目節目では日頃の感謝の気持ちを言葉にしようと頑張ってくれた。

箇条書きで書かれた特徴からは、どれも白川さんへの愛情が見えて、どうしても、もう一度、旦那さんに会いたいと思う白川さんの気持ちが少しわかった気がした。

スタート地点の並木道だけでももたくさんの思い出があった。

「ここで初めて会ったんですよね?」

先日アルバムを見ながら教えてもらったのを思い出しながら聞いた。

「そうよ。当時はこの並木道の向こうに高校があって、そこに兄が通っていたの。あの人と兄は同級生だったわ。ある日、私は兄の忘れものを届けにきたところでね。てっきり兄だと思って呼び止めたのがあの人だったの」

「勘違いだったんですね」

「そうなの。兄と背丈が同じくらいだったからてっきり思い込んでしまったの。『兄さん』と呼びかけたら見知らぬ顔が振り向いて恥ずかしかったわ」

「意外とお転婆だったんですね。そのとき忘れ物はどうしたんですか?」

「あの人が届けてくれたの。兄に忘れ物を届けたいんですと話したら『原田は学友だから僕が届けよう』と言って忘れ物を預かってくれたわ」

「お兄さんと旦那さんはお友達だったんですね」

「そうよ。私は知らなかったけれどその当時から仲が良かったらしくって」

ゆっくりと並木道を歩きながら話の続きを促す。

「私が高校を卒業したときに兄から改めてあの人を紹介されたの。最初に会ったときの言い方がひどくぶっきらぼうだったから紹介されたときは驚いたわ」

「そうだったんですね。……もしかして旦那さんは忘れ物を届けにきた白川さんに一目惚れしたんですか?」

「ふふふ。そうよ。3年間ずっと思っていてくれて私が高校を卒業したら告白しようと思っていたらしいわ」

「告白までのお話だけでドラマができそうですね」

ロマンチックだなあとこぼした僕に白川さんは嬉しそうな笑顔を見せた。

次に訪れたのは並木道にほど近い場所にある場所だった。最近できたばかりのマンションの一角には昔喫茶店があったらしい。白川さんは目を細めて座席があったらしい場所を見つめながら話してくれた。

「お付き合いを始めてからあの人が学生の間の待ち合わせ場所はいつもここだったわ。窓際の席によく座ったわ」

「そうなんですか」

「あの人はコーヒーを片手に推理小説を読んで私を待っていたわ。私が来ると今読んでいる小説の犯人は誰々だと思うと説明してくれるんだけど一度も当らないの。可笑しいでしょう?」

「僕もそれやりますけど全然当たらないです」

「あらそうなの?意外と難しいのね?」

「そうなんですよ。最後にどんでん返しがある場合が多くて。旦那さんは推理の後はどんな話をされたんですか?」

「それがね、あの人、推理を語り終えると黙ってしまうの。仕方がないから私が話し出すと聞いてくれて相槌を打ってくれるのだけれど、コーヒーばかり飲んでいるからつまらないのかしら?と思って一度聞いたのだけれど、そんなことないというばかりで。だから喫茶店では私ばかりが話していたの」

「口下手だったんですね」

「そうね。たしかに若い頃は口数も少なかったわ」

白川さんにならって僕も古き良き喫茶店をイメージしてみる。ベロア生地の椅子に深く腰掛けて、ミステリーを読みながらも、きっと度々を窓の外を眺めていたんじゃないだろうか。窓際の席が多かったのはきっと少しでも早く白川さんを見たかったから。それでもいざ対面すると最初は準備していたミステリーの推理を話すことができるけれど、緊張して次の話題が見つからない。そんな不器用な男性を想像すると僕も胸がきゅんとした。

「白川さんは喫茶店では何を飲んでいたんですか?」

「私はミルクティーよ」

「コーヒーじゃないんですね?」

「私はコーヒーが苦手でブラックを飲めるあの人が大人に見えたわ」

そんな他愛のないことを話しながら、また移動した。電車で移動した先は都内で有名な神社だった。お参りをする前に境内のベンチに座って休憩をしながらまた思い出をたどっていく。

「ここは結婚式を挙げられた神社ですよね?」

「そうよ。結婚式を挙げた場所でもあるし、何か困ったことがあったらあの人と二人で来た場所でもあるの」

「何度もいらしたんですね」

「何度も来たけれど、一番覚えているのは子どもができないと分かったときかしら。今は違うと思うけれど、当時は女性は子どもを産んで一人前と言われていた時代だったから離縁されてもおかしくなかったの。そのときにあの人とここに来て、無言でお参りを終えて。あの人がずっと何かを言いたそうだったから、私も覚悟を決めなきゃいけないなと思ったの」

「それで?」

「そしたらね、あの人が急に立ち止まって『君のことを一生守ると誓ったから二人で生きて行こう』って言ってくれてね」

白川さんの声は鼻声になっていたけれど、泣いてはいなかった。悲しいではなくて、本当に大切なものを眺めて慈しむような顔をしていた。

「それから小さなことも大きなことも困ったことが起きたら二人でここに来たわ。私が病気になったときも、あの人が病気になったときも。最後の願いだけは叶わなかったけれど、それ以外は全部叶ったから今日もお参りしようと思うの。あの人に会えますようにって」

「……僕も祈りますね」

「嬉しいわ」

僕の絞りだした気が利かない相槌に白川さんは笑ってくれた。


一日中かけて都内各所を回った。お二人とも東京生まれ東京育ちなこともあって、どこを歩いていても白川さんには旦那さんの思い出があった。

スタート地点であり、ゴール地点である並木道に戻ってきた頃には僕だけでなく白川さんも疲れ切っていた。

ベンチに座り込んでしまった白川さんに僕は近くの自販機でミルクティーを買って渡した。

「今日たくさん連れまわしてしまってごめんなさい。何度かに分けて巡ればよかったですね」

「そんなことないわ。久しぶりのデートで楽しかったわ」

白川さんは紅茶を一口だけ飲むと、手で包み込むように持ち直した。その横顔は寂しそうに見えて、やっと折り合いをつけられるようになった喪失感を刺激してしまったのかもしれないと思った。

今日一日ずっと過去の話をしていたから、最後くらい今の話しをした方が良いのかなと考えているとふとマドレーヌを思い出した。

「マドレーヌ、美味しかったです」

唐突に話し出した僕に白川さんは表情を少し和らげた。

「先週いただいたマドレーヌ、とても美味しかったです。蜂蜜とレモンの優しい味がして、コーヒーを飲むのが勿体ない位でしいた」

「そうなの?……良かったわ」

白川さんは一瞬大きく目を見開いて、何かに耐えるように目を伏せると紅茶を握る手に力をこめた。

「……ごめんなさいね。こんな偶然あると思っていなくて」

「偶然?」

「マドレーヌはあの人の好物なの。それを兄から聞いて、初めて手作りのマドレーヌをあの喫茶店で渡したとき、あの人は一口齧った後、とっても時間を置いて、また一口齧って、無言で最後まで食べたの。その後、いつものように私が話していたのだけれど、あの人は全然コーヒーを飲まないから、コーヒーを飲むのも嫌なくらいまずかったのかしら?なんて思ったわ」

白川さんは大きく息を吐いて続きを話した。

「でもね、兄は旨いと言っていたから時々マドレーヌを作っては渡していたの。結婚してからも焼いていたわ。でもあの人は相変わらずで、ゆっくり一口ずつ食べて、その後しばらく飲み物を飲まないの。変な食べ方と思っていたんだけれど、子どもができないと分かってお参りした日にマドレーヌを焼いたら、あの人こう言ったの。『小夕子のマドレーヌが美味しいからコーヒーを飲むのが勿体ないんだ』って。その日以来、マドレーヌを焼く度に『コーヒーを飲むのが勿体ないね』って褒めてくれたの。だから今、小林くんに褒めてもらえてとても嬉しいわ」

笑いながら一粒涙を流す白川さんを見て僕の中でふと何かが閃いた。

「白川さんはいつの、何歳頃の旦那さんに会いたいですか?」

「……いつ、なんて考えたことなかったわ。若い頃も歳を重ねても、あの人はあの人だもの」

真剣な顔で尋ねる僕に対して白川さんはきょとんとしていた。その反応を見て仮説は間違っていないんじゃないかと思えてきて、僕は再度白川さんの手を取った。

「疲れているところ申し訳ないですけど、最後に一か所だけ僕に付き合ってもらえませんか?」


***

「きっと私が我儘だったせいなのね」

カウンセリングルームから出てきた白川さんは目元を拭いながらも楽しそうな声で話してるから、無事に旦那さんに会えたのだと分かった。

「いいえ、そうではないと思います。お話できる相手を限定せざるを得ないのは催眠療法の限界なのだと思います」

「今日はお別れしたばかりのあの人に会ったから、次回は20歳くらいの頃のあの人に会いたいわ」

「いいですね。お待ちしています」

二人で白川さんをお見送りすると吉田先生は「いやーお疲れ様」と笑顔で僕の肩を叩いた。

「旦那さんと言動の似ている小林くんとデートすれば何かヒントが見つかるかなーと思ったけど、それ以上の成果だったねえ。『長年一緒に居たことで会いたい人のイメージが複数あるんじゃないか。年齢を限定すればイメージを一つに限定できるんじゃないか』って仮説は僕じゃ思いつかなかったな」

お手柄だよとほめ倒してくれる吉田先生に僕も悪い気はしない。

僕が考えた仮説はこうだった。若い頃の旦那さんと結婚して一緒にお参りした後の旦那さんは全然態度が違う。けれど白川さんの中では同じ旦那さんだから、催眠療法中に旦那さんをイメージしてくださいと言われても、若い頃のイメージとそれ以降の相反するイメージが混ざってうまくイメージできていないのではないか。そう考えた僕は、吉田先生にイメージする旦那さんの年齢を限定したうえで催眠療法を実施してもらえないかとだ打診しし、それが功を奏して今に至る。

「ところで吉田先生はマドレーヌの話知っていたんですか?」

「まあね。度々思い出話に出てくるから今度焼いてきてくださいってお願いして焼いてもらったんだよね」

「それを僕に食べさせたら偶々反応が一緒だったと」

「そうそう。まさかだったよねえ。美味しいですって言われるだろうと思っていたから、あの後はマドレーヌを食べたら『コーヒーを飲むのが勿体ない』って言うように刷り込みしてやろうと思ってたから、その手間が省けてよかったよ」

にやりと笑う先生の目には本気だったと書いてあった。僕は曖昧に笑ってごまかした。


***

「本日のお会計は5万円になります」

「はい、これお金。小林君にはこっちね、マドレーヌ」

白川さん診察代と一緒に渡されたのはマドレーヌだった。

デート後に旦那さんと会えてから、白川さんはクリニックへの通院頻度を毎週から月に一度に減らした。そして月に一度会う度に、僕にマドレーヌをくれる。

「今日もありがとうございます。コーヒーと一緒にいただきますね」

そういうと白川さんは嬉しそうに笑った。

鬱状態と比べたら旦那さんに会えないことで悩んでいたときも随分元気になったと思っていたけれど、旦那さんと会えるようになった白川さんは比較にならないほど元気になって、心も身体も若々しくなったようだった。

「来月もよろしくお願いね」

「はい。ご予約承りました」

弾んだ足取りの白川さんをお見送りする。

思えばこれが吉田クリニックで体験した小さな奇跡の始まりだったのかもしれない。

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