その面々、闘争者につき~そいつは俺より強いのか。強かろうとも押し通る~
南雲麗
第1話 刀VS山神
雨風が強くなる中、男が一人、山を登っていた。その足取りは確固たるものであり、かつ早足だった。しかもただの山道ではなく、獣道だった。木の根がむき出しになり、時に岩肌が顔を出す。気を抜けば滑り落ちかねないような道行を、男は腰を落とし、ぐいぐいと進んでいた。
東方風の男だった。編笠をかぶり、擦り切れの袴に草鞋と脚絆。上には黒く汚れ、袖の擦り切れた着物を纏っている。左の腕にはしっかりと刀――東方風の剣。わずかに反りの入ったもの――を握っていた。
男が頂上へと近付くにつれ、雨風が山を覆い尽くしていく。並の人間では飛ばされるか、気力が萎えるか。そういう質の雨風だった。それでも男は、歩みを止めなかった。決して大きくもない体を前に傾け、ずい、ずいと進んでいた。笠越しでありながら、その動きに迷いはない。地の筋肉、そして気力が強いのだろう。突き進むという言葉が、まこと正しかった。
やがて男の視界に、空が見えた。稜線である。黒雲と雷雲が、彼の視界を満たしていた。しかしそれでも、男の歩みは止まらなかった。より早く、より重々しく。男は足取りを山に残していった。
「ヴォオオオオオオ……」
不意に、おどろおどろしい叫びが響き渡った。地の底からの呼び声か。あるいは天からの告げる声か。おそらくは、聞く者によって異なる類のものであろう。男は笠を放り投げ、戦構えへと入る。東方における
髪は頭頂部でまとめられているが、それ以外があまりにもぼうぼうだった。髭ともみあげが一体化し、顔の半分以上を覆い尽くしている。目立つ特徴があるとすれば、爛々と光る右の眼を中心として、五弁の花を象った墨か焼印が刻まれていることであろうか。もしやすると、東方で大罪を犯したのやもしれぬ。
「来るか」
男が口を開いた。よく見れば、その端は喜色に吊り上がっていた。これから幾年越しの恋人に会う。そんな悦びを思わせた。
「ブオオオオオオッッッ!!!!!」
しかし、ことはそんな艶のある話ではない。その現実を示すかのように、二度目の吠え声が響いた。地を鳴らし、天を穿つ。そんな言葉が似合う咆哮だった。事実、男の足元は軽く揺れた。
「おおっとぉ」
揺れに合わせて、男は小さくたたらを踏んだ。とはいえ、怯んだ様子はない。ましてや、滑る様子さえもなかった。むしろ踊りを、楽しんでいるようですらあった。しばらくすると、軽やかな、しかしどことなく禍々しい足音が耳に入った。
ダダダッ。ダダッ。
男はさらに身構える。間違いない。麓の村で聞かされた、『山神』だ。幾年かに一度、村を訪れて恐慌をもたらし、娘を差し出させる。そういう怪物だ。
「東方でもそういう類はいたが……大抵枯れ尾花だった。さてさて、貴様はどういう輩だぁ?」
男が足音の方向を睨め付けていると、やがて白い巨塊が姿を見せた。それは地面を蹴って大きく跳び、男の背後に顕現した。げに恐るべき跳躍力。いともたやすく、男を越えた。
「グァオ!」
巨体に似合わぬ軽やかさで着地した山神。それはちょうど、犬をそのまま大きくしたかのような生物だった。しかし
「なるほど、神と呼ばれるだけはあるか」
男は、舌なめずりをした。途方もない悦楽の予感に、心を躍らせているのだ。彼は学者でも、狩人でもない。強敵との邂逅を求める、ただの闘争者なのだ。
「汝を山神と見、畏みて申し奉る」
男の口から呪言めいた言葉が飛び出した。無論、獣に人の言葉など通用しない。巨体を高らかに跳ね上げ、牙を剥き出しにして男を襲った。
「っとぉ!」
しかし男は瞬間的に跳ねた。泥濘を蹴ったにもかかわらず、その身体は大きく打ち上がった。直後、山神の牙が大地を喰らう。男が立っていた箇所に、大きく穴が空いた。なんたる咬合力。
「我の生まれは遥かに東。
それでも男は口上を続けた。両の
「ガアアアッ!!!」
うるさいと言いたげに、山神が男の背後を取った。やはり跳躍の勝負では、山神の方が一際上回るようだ。唾と一緒に、先刻えぐり取った
「まだ終わってねぇんだよ」
男は素早く向き直り、腰を落とす。山神と視線がかち合った。それを是と見たのか、彼はつらつらと口を開いた。
「かつて享受せしは天下第一之侍たる誉。されど我は飽き足らず。さらなる敵を求めけり。大罪人の名を受けて、はるばる西へと旅立てり」
山神が再び動く。首を伸ばして、横に振るう。男は振るわれた方向へと跳ねる。逆に跳ねては、可動域が大きいからだ。そのまま互いに軽やかに動き、向き直る。
「我が姓は坂田。名は
男が、刀の柄に手を掛けた。腰を落とし、半身になった抜刀の構え。しかし抜かない。狙っているのは、後の先か。
「ガアアアオ!」
咆哮一閃をもって、山神が動いた。人間でいうところの三十歩の距離が、瞬く間に縮まっていく。ダダッ、ダダッと、軽やかにして禍々しい動き。だが刀十郎は動かない。刀を握ったまま、山神を見据えている。雨に穿たれようと、不動の構えだ。
「オアッ!」
十歩の距離。山神が三度跳ねた。今度は逃さぬという、強い意志を感じさせる踏み切りだった。山神には、なぜ目前の男が大人しく食われないのか分からない。だからこそ、必ず牙に掛けねばならなかった。己の矜持と空腹を、満たすためにだ。
「ガアッ!」
最高点に到達した山神が、降下に移った。大きく
「人呼んで、
頭を真っ二つに裂かれた山神の屍体に向けて、刀十郎は口を開いた。刀は黒天に掲げられているが、そこに血脂の痕跡は一切ない。一体、なにが起こったのか。
話は簡単だ。山神が降下に移り、おおよそ三歩まで迫った時。彼の刀が空を切り裂いたのだ。あくまで山神の身は狙わず、恐るべき疾さで、瞬く間に空を斬る。それによって生まれた空気の刃が、山神を引き裂いたのだ。空太刀。刀十郎の得意技にして、己より大きな者さえも斬って捨てる。サムライの絶技だった。
「……肉を喰らって天に帰す。にはちと大きすぎるな。牙を折って、地上への土産としようか」
刀十郎は山神の身体を横たえると、手際よく牙を剥ぎ取った。いつの間にやら雨風は晴れている。山神と目されていたのも、あながち間違いではなかったようだ。
「これを村へと持って行けば、路銀の足しにはなるだろうか。いや、俺が恐れられるやもしれん。ならば、村の外にそっと置き捨てるが最善か」
思案しながら牙を持ち上げ、男は麓への帰路に着く。しかし彼の背後で、山神の目が光った。二つに裂かれたにもかかわらず、その目が鋭く光ったのだ。
「アレが、新たなる
憑依を解きながら、視線の主は神に問う。半透明にしか見えぬその男の頭は、つるりと禿げ上がっていた。かつては大賢者と呼ばれ、今は神の
「……ユージオ・バールに知らせるべきか」
大賢者は、その場を去った。彼は肉体と引き換えにした恐るべき能力により、この世とは位相の異なる世界を回遊できるのだ。彼が目指すのはユージオの現在位置。「『地上最強の生物』と謳われる男」が佇む場所である。
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