短編小説「明美」

答えなくていいと思う」


明美は、喉元まででかかった不安を押し殺すようにして、やっとの思いでこの重圧のかかった沈黙を破った。


彼女がこの仕事を始めたのは、単に生活をするためだった。DV被害者の救済。田原代表の務めるこのNPOに彼女が参加したのは、1998年の頃だった。


「トシさんは、私にしか打ち明けない弱さがあって・・・トシさんはね、弱い人なのよ・・・それで去勢を張って、それで、感情が止められなくなってしまうのね」


八つ当たり。


男女間の関係というのも人間関係だから、それは長い時間をかけて醸成されるものもあれば、ジェットコースターのようなものもある。


「暴力を振るう側の男」という一つの悪魔化された図。


または、この悪魔化された図を揶揄することによって「暴力を振るう側」を正当化しようとする狡猾な心。


そういった、それぞれの猜疑心や、またはエゴが蠢く、そういう救いようのない現場が私のみてきたものなんだ・・・


明美は思わず小さなため息をついた。


「それで、その緩み・・・許しで、それを繰り返すことであなたは下に見られてきたんじゃない。敦子さん、それでまた彼をゆるしたら、あなたはまた傷つけられることになるでしょう」


敦子さんは、ついにエスカレートした内縁の夫の暴力によって、眼窩複雑骨折・鼻の骨の骨折・・・という段階にまで達していた。


「警察沙汰」


であったが、敦子さんが夫である「トシ」に忖度をし、被害届を出さなかった。


精神的隷属。


つまり、そういう「優しさ」とか「誠実さ」といったものが、「武力」に裏打ちされていない時、私たちは「暴力者」の「お目溢し」を受ける以外に、生存の手段はないんだ。


トシさんの顔色を伺いながら。


暴力に震えながら。


「でも・・・あの人がたまに買ってくれるラベンダーの花がね、それを見たら私、今までのつらいこと吹き飛んでしまう気がして」


「精算」


「そういう冷たい言葉であの人のこと表現しないで」


ああ。


私は外野か。


結局、「人助けをしている」私に、私は酔っているだけか。


良かれと思って。


私は、あなたからトシさんを取り上げる「悪い人」に、なっているのかもしれないわね。


「わたしが」


きっと、あなたに、敦子さんを「助けている」っていう「絵面」を、私自身で消費して、私は自己愛を満たして・・・私は、あなたのことを利用していたのかもしれない。


私は、これっぽっちもあなたのことを考えていなかったのかもしれない。


そう、私自身がこのNPOに入って活動したのも、もちろん私自身がDV被害を受けたこともあったし、


それは言葉によって相手を「小さい檻」に入れるのが「巧み」なあの人によって、「モラハラ」を受け続けた、


でも、やっぱり我慢しなさい、我慢するのが女の子でしょって、


わたしんちは古風だから、そう言われてきたのよ。


そう、


そして、首をつって死ぬまで我慢し続けるんだ。


誰にも言えないまま。


「わたし・・・・明美さんには感謝しています」


「でも、やっぱりトシさんのところに戻るのね」


「はい!」


・・・・・なぜ?


私は目の奥に熱いものがこみ上げると同時に、敦子さんに対しての・・・まるでこれまでの「感情移入」、つまり自分自身と同一化させていた心理状態から「引っ剥がされた」ときの反動としての「憎悪」・・・・


そう、わたしは敦子さんに「憎悪」していたんだ。


「へっ、トシに殺されちまえよ」


私の中の一部が、そう私の中で囁いた。


私の中には、複数の人格がいる。


そして、たぶん・・・・これはふつうのコトなんだ。


相手を罵り、危害を加えようとする自分。


それを制止し、相手を守ろうとする自分。


自分を責め、自分を傷つけようとする自分。


いろんな自分が蠢いていて、それらの牽制のしあい・・・が


「私の人格」だ。


明美はそれを確信した。




12月3日、


敦子さんは帰らぬ人となった。


原因はトシ・・・により複数箇所を出刃包丁で刺されるという結末で、


私は複雑な思いを抱えたが、




やはり人は死ぬんだ。


これは・・・敦子さんのケースは、これは真新しいものではないんだ。


人は罪深い。


そして、ある人は死に、ある人は生き残る。




明美は静かに、ドアを開けた。



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