やがて緑が育つまで

雪見そら

1年生

 まだ熱気の残る音楽室。忘れ去られたみたいな静けさの廊下。壁とドアで隔てられたそこには、腕を上げて、手を伸ばして、少しだけ力を込めれば簡単に踏み入ることができる。たったそれだけ。それなのに、大きな隔たりがあるように感じられる。

 見たくない、聞きたくない。わかっていたはずの実力差が、決定的な違いとなって目の前に突きつけられる。

 口を開きたくない。「おめでとうございます」と言えないかもしれない。

「……小倉さん?」

 思わず、ハッと顔を上げる。一人分ほどの距離を空けた先に、緑色の上履き。黒のスラックス、グレーのブレザー、落ち着いた声音と裏腹に彷徨う目線。それが私の目線と交わった時、今自分がどんな顔をしているのか気がついた。恥ずかしくて恥ずかしくてたまらない。穴があったら入りたい、だなんて本気で考えるとは思わなかった。

「えと、ご、ごめん……」

「や、こっちこそ」

 そう言って、彼は、梶原は立ち去ると思っていた。というか、そうであれと願っていた。

「よ、っと」

 しかし、まあ、なんということか。あろうことか梶原は、その場所に腰を下ろした。ここは普通、立ち去るところではないのか。この状況でこの場に留まるという選択があるとは思わなかった。驚きのあまり、涙が引っ込んだことにすら気が付かなかった。

「僕さ、正直、受かるわけないと思ってたんだよね。オーディション」

 いきなり本題へと大股で近付くような言葉に、私は何も言えなかった。スカートにシワが付くのも構わずに、膝を抱え直す。

 七月に行われる大会への出場メンバーを確定させるオーディション。それが、今日だった。私にとっては高校に入学し、この部の一員になってから初めてのオーディションだ。受かりたい一心で、必死に練習を重ねた。

 しかし、結果はこの通り落選。メンバー入りが決まった部員やそれを祝福する他の部員の空気に混じることができず、落ち着くまで一人でいようと抜けてきたのだ。結局、今は二人になっているけれど。

「ほら、僕って初心者だから。練習はしたしオーディションも受けたけど、形だけって感じ」

「……でも、梶原は上手くなってるじゃん」

 そう言うと、梶原は素直に礼を言う。本当に何をしに来たのかわからない。傷心の同級生を慰めに来た……というわけでもないだろう。もし慰めに来たのだとしたら絶望的に下手すぎる。この謎の行動の意図を考えているうちに復活してきたし、そろそろ戻ろうか――そう考えた時、小さく息を吐く音がした。

「でも僕、今、悔しいって、思ってるんだよね」

 淡々とした口調の割に、少し震えた声。力んでいるようにも聞こえる。下を向いているからか、先程見下ろされた時ほど顔がよく見えない。

「……悔しいんだよ。俺、このまんまじゃ駄目だって」

 そう言ったきり、梶原は黙り込んでしまった。

 心臓が痛い。その苦しみを私は知っている。自分が情けなくて腹立たしくて悲しくて、まるで急に暗闇の底に突き落とされた、みたいな衝撃。あれを食らったら何も思わないわけがない。主語が大きい自覚はあるけれど、そう思ってしまうほどに、苦しいものだから。

 だから、上手くなりたいって思うのだ。明日も明後日もそのまた次の日も、ずっと上達し続けたいと。

「……私も」

 気がついたら口に出していた。

「私も、悔しい。悔しくて悔しくて、だから、上手くなりたい……!」


 その種を蒔いたのは、どちらだったのだろう。

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