第2話

 夏を全速力で駆け抜けた先、いよいよ秋らしさが感じられる頃。ついに部活を引退した。クラスの誰よりも長く部活をやっていたからなのか、引退の話をしたらやたらと労われてしまった。

 そして、部活を引退したということは、小野さんともしばらく顔を合わせていないということにもなる。引退前だって小野さんと部活外で話すことなどなかった――というか、小野さんとの会話のほとんどは大抵事務的な会話か自分が振った雑談か「今何分?」だったので今更その他の会話が発生するわけもない。仲は悪くなかったものの、こうして思い返すと倦怠期の夫婦みたいで笑えてくる。断じてそんな間柄ではないけれど。

 そんなわけなので、今は誰かに時間を聞くこともない。授業中なら教室の時計を見ればいいし、休み時間や登下校ならいつだか小野さんが言ったようにスマホで確認すればいい。街中や学校に時計がたくさんあるように、世の中には時間を確認する手段などいくらでも存在する。だから、わざわざ腕時計をつけることもない。だって忘れそうだし。そう思っていた。



「あ! 小野さんじゃん」

「うわ、高村」


 思った以上に響いてしまった声に、案の定小野さんは顔を顰める。そういえば部活外で会うと微妙に塩対応だったなと思い出していると、先程まで顰められていた顔が少し緩み、あれ、と声が漏れた。


「高村、腕時計買ったんだ」


 とんとん、と自分の左腕を人差し指で叩いてみせる。紺色のベルトとシルバーのケース。几帳面な小野さんに似合うそれは、一年生の頃からずっとその左手首にあるもので、外しているのは見たことがない。自分の新しい装備とも言うべき腕時計はクラスの誰にも触れられなかったが、「今何分?」を散々されてきた小野さんにとっては見逃せない変化だったのかもしれない。


「ほら、試験の時ないと困るじゃん?」

「あー、そういえばそうか」


 小野さんは既に進路が確定しているようだが、こちらはセンター試験が控えている。必要に迫られたがために買ったというわけだ。


「でも、何か変な感じ」


 片手で教科書を抱え直し、右手で左手首を掴んだ小野さんの視線はこちらの左手首に向いている。


「もう、いちいち人に時間を聞くことなくなるね」


 どちらかといえばいつも硬い表情をしている小野さんが、やわらかく微笑みながら呟いた。茶色いベルトの腕時計。白い文字盤に、五線譜上の音符みたいにアラビア数字が踊っている。


「いや、聞くよ」

「シンプルになぜ」

「だって小野さんの方が先輩じゃん、時計の」

「時計くらい読めるでしょ君」


 廊下だからかいつもより抑え目なツッコミに笑う。

 そうやっていつもちゃんと返事をしてくれるから、これからもきっと君に時間を聞いてしまうんだろう。

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