15
「ぱんぱかぱーん! ようせいはんのう〜」
一枚のぺらぺらの紙を両手で持ちながら、詩子は楽しげに笑う。
青木ヶ原樹海に作られた自衛隊の仮設基地。防護服で全身を包んだ詩子は、特別な『隔離室』にいながら、ビニール越しに立つ洋介に紙を見せる。彼もまた防護服を着ており、その紙を見ると大きなため息を吐いた。
紙ぺらに書かれていたのは、『特殊殺傷性菌類 陽性反応』という一文だけ。
余程急いで印刷したのか、本当にこの文言だけが書かれている。極めてシンプルで配慮のない、故に合理的でそこそこ詩子好みの書き方をされた紙だ。
しかしこれは死の宣告である。
……死亡した岡島風太郎の体内を解剖、調査したところ未知の菌類が検出された。体組織の何処からでも採取出来るほど増殖しており、また臓器の一部が腐敗するなど『捕食』された形跡が見られたという。
この菌は現在特殊殺傷性菌類と名付けられ、バイオセーフティーレベル(病原体の危険性に応じたランク付け)はⅣに設定された。これは最上位の階級で、主に天然痘やエボラウイルスが属しており、エイズウイルスや狂犬病を上回る扱いである。いや、これすらも足りないというのが実情だ。
この菌は宿主に感染すると、しばらくは喉や肺などでゆっくり増殖 ― 厳密にはこの辺りの細胞と相性が悪く増殖が鈍いと思われる ― しているが、内臓に広がると急速に増殖。瞬く間に宿主を食い殺してしまうと考えられている。
問題は、菌は肺や喉にも無数にいた事。研究が不十分なため確実な事は言えないが、呼吸器系に細菌がいたからには呼気により菌がばら撒かれている可能性が高い。菌の感染力は極めて強く、詩子のように、同室に十分程度一緒にいるだけで感染するほど。万一電車内で咳き込もうものなら……
加えて現状、治療法が存在しない生存率ゼロパーセントの感染症である。詩子と陽介はそれに感染していた。
「……教授、よく笑えますね」
そんな病気に感染したら、普通は隣にいる洋介のように意気消沈するものだ。しかし詩子は違う。
死ぬのは怖くないし、むしろこれでヒトについての研究が捗るとすら思っていた。そして様々な方面に働き掛けた事で、今も詩子は鱗毛人研究を続ける事が出来ている。感染の検査があるため今までこの狭い部屋に閉じ込められていたが……もうその必要はない。『完治』が認められるまで一般人がいる市街地には行けない(つまり国家公認の『追放』)代わりに、鱗毛人研究に没頭出来るのだ。
一応現時点で鱗毛人研究の主目的は、鱗毛人の生態解明ではなく、彼等が保菌していると思われる特殊殺傷性菌類の治療法解明に変わっている。しかし詩子にとっては些細な違いだ。
おまけに、今では鱗毛人と接触するのに防護服は必要ない。直接の接触が許可されていた。
「当然です! 何しろ菌が出していると思われる強力な抗菌物質により、私の身体は今や特殊殺傷性菌類が潜む血液を除いてほぼ無菌状態。つまり彼等に伝染病を伝える心配はなく、故に生で! 接触出来る訳ですからね〜。うふふ、直に触れ合う事で分かる情報もありますし、これでまたヒトを理解出来る……!」
「……なんとまぁ前向きな。その抗菌物質を出す性質の影響か、この特殊殺傷性菌類、実験する限り普通の抗菌剤は全部効かないじゃないですか。治療法なしですよこれ」
「なら前向きな話題を一つ追加しましょう。あらゆる菌を撃退する物質を生み出す菌。この病気を克服した暁には、人類は万能薬を作り出せます。ウイルスも検出出来なかったらしいですからねー。神経にいる筈の水疱瘡すら消えたのに、わたしはこうしてピンピンしています。人体に対し、極端に無害な成分なのは確実ですから、薬と使う上で問題はないでしょう」
勿論長期使用の弊害は分かりませんけどねー。そう言いながら詩子は、少しばかり考えを巡らせる。
風太郎の死から現時点で二十日の時間が流れている。
どうやら岡島風太郎はかなり免疫力が弱かったらしい。タバコや飲酒、睡眠不足などの不摂生に加え、食生活も脂質と塩分・糖分の多いものが主体だと、周辺調査から明らかとなっている。おまけにPCやスマホの閲覧履歴から推測するに、死亡するまでの数日間は特に生活が不規則だった。投稿した動画の伸びが見るのが楽しくて、つい夜更しをしていたのだろう。
このため彼は極めて免疫が弱っており、結果、特殊殺傷性菌類の増殖を抑え込めなかったと思われる。つまり普通の人間なら、一週間かそこらで死ぬ事はない。
……尤も、それが判明する程度には他の死者も出ている訳だが。死の三日ほど前に彼と接触した者の中に感染者が出ており、それがここ最近バタバタと死んでいる。国は未だ正式な発表はしていないが、関係者兼感染者候補である詩子達にはそれが知らされていた。
「健康的な人間の場合、生存期間は凡そ二十五日……教授の場合、あと四日程度です。四日で何が出来るというのですか」
「さぁ? 何も出来ないかも知れませんね〜。でも、出来ないとは限りません。少なくとも後継に資料の一枚ぐらいは残せるでしょう。というか、そもそもですね」
「そもそも?」
「わたしの死後もあなたは生きているのですから、そこまで意気消沈しなくても良いと思うのですが」
洋介は感染していない。それは同じタイミングで受けた検査により、明らかになっている事だ。
詩子は他人そのものには興味がない。だから彼が無感染でも「良かったですね」としか思わず、そこにあれこれ感情を抱く事はないのだ。逆の立場でも、「ご愁傷様ですね」としか思わないが。
勿論ヒトの心理に精通している彼女は、同情や逆恨みの感情自体はちゃんと理解している。しているが、それで変にくよくよされても、研究の進捗が止まってしまう。その方が余程詩子にとっては迷惑だった。
かれこれ一月近く行動を共にした洋介は、彼女の気持ちを理解したのだろう。顔を上げ、背筋を伸ばし、力強く拳を握る。
「……分かりました。気にせず、これまで通りサポートします」
「はい、よろしくお願いしますね〜」
笑顔と言葉を交わし、改めて『今後』の付き合い方について決める。
そう、これで良い。同情だの共感だの、詩子にはどうでも良い事だ。
大事なのは、研究を進める事。
「さぁ、教授。行きましょう。教授ぐらいイカれてないと、この謎は解けそうにありませんからね」
ビニールの膜を開き、洋介は詩子に手を伸ばす。
防護服越しとはいえ、致死性の病原体を持った人間に握手を求めてくる。
あなたも大概ではありませんかね〜と思いながら、立ち上がった詩子はその手を掴むのだった。
……………
………
…
自衛隊仮設基地から出た詩子は、防護服を着たまま鱗毛人の一家の下へと向かう。周りには護衛である洋介達自衛隊員の姿もある。
鱗毛人達は今、洞窟前でだらだらとしていた。食事も済ませ、リラックスタイムのようである。世間は大変な事になりつつあるのに、知る由もない彼等は極めて暢気な様子だ。
とはいえ詩子にとっても、あれこれ思う事もない。それよりも久しぶりの再会だ。新鮮な気持ちで彼等の下に歩み寄る。
鱗毛人一家は詩子達を見ると、特段警戒する素振りもない。詩子達が隔離されていた間も、彼等の事は自衛隊が調査を続けていた。基本的には排泄物の調査などが主で大した接触はしていないが、すっかり見慣れたという事なのだろう。
唯一大興奮していたのが、家族唯一の雄の個体である息子だ。
「オ、アゴゥ!? ゴオオゥッ!」
息子は詩子を見るや、猛ダッシュで迫ってくる。とはいえ敵意がない事は顔を見れば明らか。詩子は勿論、洋介達自衛隊も気にしない。
間近にまでやってきた息子は、詩子の周りをぴょんぴょんと跳ね回る。これは喜びを示しているのか、はたまた別種の感情か。興味深く観察しつつ詩子は思考に没頭
「教授。どうしますか? 防護服、脱ぎますか?」
する間際、洋介からそう問われた。
そう言えばそうだったと、詩子は自分が生命のタイムリミットと引き換えに手にした利点を思い出す。しばらく再会を喜んでからでも良かったが、それよりも早く接触をしてみたい。
「お願いしますね〜」
「了解」
詩子の要望に答え、自衛隊員達は防護服の後ろに回る。気密性の高いこの服は、簡単には脱ぐ事が出来ない。他の者による補助が必要だ。
突然詩子達が始めた行動に、鱗毛人達の視線が集まる。今までずっと防護服を来ていた詩子達が、此処でその服を脱いだ事はない。加えて鱗毛人達は裸だ。だからそもそも防護服を『服』だと認識していない可能性もある。
その推測が正しい事は、防護服の中から生身の詩子が姿を表した時、跳び上がるほど驚いた一家の反応から窺えた。ヒトで例えるなら、『そういう生き物』の中から別の生き物が現れたような感じだろうか。驚愕するのも無理ないだろう。
「(さて、驚いているところに接近したら、怖がらせてしまいますからね。まずは慣れてもらうところか、ら?)」
その場に座り、動かないよう努めようとした詩子だったが、ふととある個体が目に入る。
息子だ。彼は大きく目を見開き、更には硬直していた。まるで石のような様相である。母親と姉妹が離れる中、彼だけは動かない。
いや、それどころか詩子の傍に迫ってきた。カサカサと、黒い害虫のような素早さで。
「(おや、わたしに近付きますか。一体どんな心理なのでしょう?)」
予想外の反応に詩子が考え込む中、息子は息子で詩子に顔を近付け、まじまじと観察してきた。このままキスでもしそうな近さであるが、そういった文化はないのかしてくる様子もない。
行動の意図は不明であるが、しかし彼だけはあまり警戒心を抱いていないようだ。それはこれから直の触れ合いを重視していきたい詩子にとって、極めて好都合であり、尚且つ重視していきたい相手でもある。
まずは友好を示しておこう。
「これから、よろしくお願いしますね〜」
だから詩子は通じないと思いつつも挨拶。そしてにっこりと、可能な限り嫋やかに微笑んでみせた
「ホァオッ! ――――オゥ」
瞬間、息子は奇妙な雄叫びと共に身体を硬直。そのまま後ろへと仰け反り……ばたんと倒れる。
予期せぬ反応に、詩子も思考停止。
そして息子は、一向に動かない。
何が起きたのか全く分からない詩子は周りの自衛隊員達の方を見遣るも、何故か全員が詩子から目を逸らし、息子に憐れみの視線を向けるのだった。
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