14
都内某所にある国立病院。その建物内にある長い廊下を、詩子と洋介は早歩きで進んでいた。
二人とも白く分厚い防護服を着ている。気密性の極めて高いもので、顔面は透明なプラスチック製の『面』で覆われ、口許にはガスマスク状の装備がある。直接外気を吸わないようにするためのものであり、即ちそれは此処を漂うものが、極めて危険である事を物語っていた。
何時も朗らかに微笑む詩子の顔にも、僅かながら緊張が滲む。前を先導する病院職員も心なしか緊張しているようで、案内役にも関わらず足取りは速い。
防護服の中で開かれた職員の口の動きも、きっと何時もより早いのだろう。
「此処に搬送されたのが今朝の八時頃。自分で救急に電話しています。最初は立って歩けない程度の……ええ、その程度だったのですが」
「搬送されてすぐに悪化したのですか?」
「そうです。勿論我々も対応しましたが、しかしあまりに症状の悪化が激しく……手に負えませんでした」
職員はそう言うと、ビニールで囲われた区画の中へと入る。詩子と洋介もその後に続く。
中では何人もの職員が、忙しなく行き交っている。区画の外へと出る時には消毒液が波々と入っている箱に靴ごと浸かり、防護服を纏った身体に消毒液を吹き掛けられ、そして出ていく。防護服は別室で脱ぎ、そのまま使い捨てる。折角消毒した服を捨てるなんて一般人には勿体なく思えるかも知れないが、これは対応としては基本的な類である。
何分、どれほど危険な相手なのかもまだ分かっていないのだから。用心に越したことはなく、万が一にも外に漏らす訳にはいかない。
「この部屋に遺体があります。ですが病理学者以外は立入禁止です。こちらの窓から見てください」
「分かりました」
とある部屋の前まで来た詩子は、職員に言われた通り小さな窓から室内を覗き見る。
そこには、ベッドの上に横たわる岡島風太郎の姿があった。
……いや、恐らくは風太郎、と言うべきだろうか。前情報がなければきっと判別出来なかったと詩子は思う。
ベッドに寝る風太郎の顔面は真っ青。まるで大量の血を抜いたかのような、不気味な色合いをしていた。対して目は真っ赤に血走り、今にも破裂しそうな様子。口から溢れ出た赤黒い血も、異様な風体を引き立たせる。
詩子は解剖医の免許を持っている。そのためこれまでの人生で遺体を見た事は、一度や二度ではない。バラバラ遺体や腐乱死体などもそれなりに解剖してきた。
確かにそうした、無惨な亡骸に比べれば、原型を留めているだけ『マシ』な死に方と言えるかも知れない。しかし詩子の直感は、別の見方を示す。
この遺体は『危険』だと。
「……確認しますが、彼の体液や飛沫に触れた可能性のある職員は何名いますか?」
「最低七名です。救急搬送時の救急車で吐瀉物に触れた隊員一名と、その吐瀉物を清掃した職員二名。咳をしていた彼の診察をした医師一名、彼を病室に運んだ看護師二名。症状が急変した際の吐血を浴びた看護師一名」
「その彼等と接触した者は?」
「把握している限り、隊員は手足の消毒後、別の現場に出動したため隊員三名と患者二名と接触。救急車内を清掃した職員はその後の清掃作業時に、看護師数名とすれ違ったと証言しています。医師は二名の患者を問診しました。吐血を浴びた看護師はすぐに隔離しましたが、搬送時に立ち会った看護師二名は合わせて三名の患者と会話しています」
「……分かりました。迅速な対応、ありがとうございます」
詩子の言葉に「いえ……」と職員は申し訳なさそうに答える。
今の詩子の物言いは、決して皮肉ではない。病院側の対応は極めて迅速だ――――風太郎の死を聞いた詩子が内閣府に通達して病院を封鎖させるまでに、風太郎の死後から三時間は掛かっているのだから。
「一二三教授、これはやはり……」
「迂闊な事は言えません。ですが、恐れていた最悪の可能性を考えるべきでしょう」
洋介から問われ、詩子は間延びしていない、『本性』を露わにした言葉で答える。淡々とした狂いない発言に、洋介は息を呑む。
詩子が考えていた中で最悪の可能性。それは、鱗毛人の病気がヒト社会に蔓延する事だ。
これまでヒトと接触のなかった鱗毛人にヒトの病気に対する耐性がないと思われるように、ヒトにも鱗毛人が持つ病気への耐性はない筈だ。例えばヨーロッパ人は植民地を増やす過程で、現地に様々な病気を運んだが、逆に彼等も新大陸からやってきた病気に苦しめられた。コロンブスにより持ち込まれたとされる梅毒は、最も有名な例だろう。
風太郎は投稿した動画内で、鱗毛人に腕を掴まれている。大きな怪我をした訳ではないが、引っ掻き傷ぐらいはあったのかも知れない。鱗毛人に入浴などの習慣がない事はこれまでの観察から明らかであり、お世辞にもその身体は清潔なものではないだろう。ならば爪で引っ掛かれて出来た傷から、なんらかの病原体が侵入した可能性は大いにある。
未知の病原体に対し抵抗力がなく、風太郎はあえなく死んでしまった。そう考えるのが、現状彼の突然死を一番上手く説明出来る。無論本当にそうであるかは病理学者による解析を待たねばならないが。しかしながら最悪の場合、今すぐにでも行動を起こさなければ大変な事になる。
いや、もしかするともう手遅れかも知れない。
「……一番の問題は、この病気に伝染性があるかどうかです。そしてその伝染性が、感染後何時生じるのか」
病気には潜伏期間が存在する。風太郎の場合も、ネットに動画を投稿したのがかれこれ四日前だ。実際に撮影したのは一週間前との事であり、仮に予想通り鱗毛人との接触で感染したのなら、彼は約一週間病気を体内に宿していた事になる。
潜伏期間の間であっても、病原体は活発に活動している事がある。というより単に症状が出ていない状態を『潜伏』と呼んでいるだけで、病原体の活性・不活性はあまり関係ない。つまり一見健康的に見えても、その身体は病原体が大量に生まれ、口から吐き出されていた可能性は否定出来ない。
昨日接触した詩子や洋介に感染の可能性があるのは勿論、この一週間で彼と出会った全ての人間が感染しているかも知れない。その感染した人間が動き回れば、また感染者が増えていく。
一週間。時間にすれば極めて短いが、この間に一体どれだけの人々と接触するだろうか。自分が誰と何時出会ったか、覚えていられるのは何時までか。そもそも出会った人全てを覚えていられるものか。感染力の強さ次第では、今頃他国にまで渡っている可能性もある。
勿論、これはただの想像だ。しかし最悪の想定でもある。いや、現実がこれを超えてくる事はないとどうして言えるのか。自然の災禍というのは、何時だってヒトを弄んできたというのに。
「場合によっては人類の危機ですね」
「……大袈裟な、と言いたいですし、自衛隊員としては人間の底力を信じたいところですが。恐らくそんな楽観的な事を言っている場合ではないのでしょうね」
「ええ。我々も感染している可能性がありますし、出歩くべきではないでしょう。尤も、あの程度の接触で感染しているなら、割ともうどうにもならないと思いますが」
詩子の告げた言葉に、洋介は唇を噛み締めた。
まだ感染したと決まった訳ではない。
しかしその可能性は、決して低くない。不安になるな、恐れるなという方が無理だ。加えて、彼は国民の生命と財産を守るのが仕事の自衛官。疫病の蔓延を、ただ黙って見る事しか出来ないのが歯痒くもあるだろう。
対して詩子は肩を竦めた動きを見せるだけ。そしてここで、にこりと笑みを浮かべてみせる。
詩子もまだ死にたくはない。もっともっと、詩子はヒトを知りたいのだ。
しかし死を迎えるなら、それはそれで興味深い。古今東西のヒトが恐れ、今も抗おうとする不可避の現象。果たしてそれはどのようなものなのか、死の間際に何が見え、何を感じるのか。好奇心は尽きない。そして彼女はヒトが好きであるが、別段人類の存続に興味はないのだ。彼女はあくまでも自分の好奇心に突き動かされているのみ。
故に死は怖くない。避ける努力はするが死んだら死んだで構わないし、自分以外のヒトが死に絶えても特に悲しみはない。
だからこそ冷静に、打開策を考えられる。
「解決策が間に合う保証はありません。ですが現状、一つだけこの病気を克服しているかも知れない存在がいます」
「なんですって? それは一体……」
「鱗毛人です。彼等にそのヒントがあるかも知れません」
風太郎に感染した病気が予想通り鱗毛人のものであるなら、鱗毛人はその病気に対しなんらかの抵抗性を持っている可能性が高い。もしも彼等の血液から抗体などを得られれば治療薬の開発が行えるだろう。
無論、これは可能性の話だ。仮に予想が的中していたとしても、効果が実証されるまでには長い時間が必要である。或いは鱗毛人にとっても致命的な病気であり、彼等も克服なんてしていないかも知れない。しかしなんらかの、即効性のある方法が見付かる可能性もゼロではないのだ。
よって必要なのは、やはり研究である。
「我々の隔離状態は維持するとして、鱗毛人研究は一旦わたしと鮫島さんの二人体制でやりましょうか。自分で言うのも難ですが、わたしが一番鱗毛人に詳しいです。というかわたしは研究を続けたいので、病気なんかで交代されると困ります」
「私欲が出てますよ……ただ、実際教授が一番の人選なのは同意します。鱗毛人は立場的に、少し政治的特色が強過ぎる。研究者が政権に近い、或いは一定の思想に染まっていると判断を歪める結果になるでしょう」
「その通りです。ま、今更外部の科学者を入れるにしても、人選の時点で揉めるでしょうから、すぐには決まらないでしょうが」
「確かに、国木田派や立花派の政治家達は今、鱗毛人に人権を認めていません。対して総理に近い者達は認める方向で調整している。ここで新しい科学者を入れるとなれば、双方自分の意向に沿った者を派遣したがるでしょうね」
「ええ。わたしが立花さんに好かれていないのも交代理由になりそうです。とはいえ現状を変更するほど彼の派閥はこの件に関して有力でもないでしょうし。わたしが手を出さずとも、あれこれ言い争って、結局現状維持になるんじゃないですかね」
「……正直なところ、人命が掛かっているのに政権争いなんてしないでほしいものですが」
「現時点では病原体がどの程度危険かも分かりませんからね。今回の惨事も彼の免疫力が極めて低いが故の惨事かも知れません。そもそも本当に鱗毛人が原因なのかも現時点では確定していない訳ですし」
何より、これを自分にも及ぶ危機と考えるのは少し難しい。
ヒトは何かを判断する際、『正常性バイアス』や『公平世界仮説』という傾向を持つ。正常性バイアスとは自分の周りで起きている出来事を「自分には関係ない」と考える事であり、公平世界仮説は「悪い事をしていたから酷い目に遭った」と不幸には相応の理由があったように考える事だ。
霞ヶ関の役人達からすれば、ボロアパート暮らしのフリーターなど自分とは住む世界が違う存在であるし、また動画投稿で鱗毛人の存在を公表した悪人でもある。彼が病死したとしても、役人達が興味すら湧かないのも致し方ないだろう。いや、役人に限らず、一般市民であっても同じように考える者は少なくあるまい。
しかしそれは誤りだ。風太郎と役人達は同じ生物である以上感染の可能性はゼロでなく、病死と機密情報公開にはなんの因果関係もない。完全なる誤認であり、対応を間違えている。
その事を自覚させつつ『対処法』を囁やけば、詩子の望む方向性に誘導するのは容易い。
「まぁ、わたしからちょいちょいっと口を挟めば、わたし達二人だけで研究する流れには持っていけるでしょう。立花派や国木田派の議員だって病気の事を知りたくない訳じゃないでしょうからねー。なんなら二つ三つ交渉材料となるネタは持ってますし」
「……今更ですが、一二三教授は科学者なのに政治闘争に慣れてません? というか交渉材料って……」
「あら、ヒトの歴史は政争の歴史ですよ? ヒトをこよなく愛するわたしが、政争を好まない訳ないじゃないですか〜。これでも個人的なお付き合いのある政治家さん、そこそこいますからね~」
くすくすと笑う詩子。これは純粋な、楽しさを表に出した笑い。
極めて友好的な笑いの筈なのに、防護服の向こうにある洋介と職員の顔は引き攣るばかり。
ちょっとばかり不本意に思いながらも、詩子は早速動き出す。
無論、血液検査と隔離を行うため、特別な部屋に案内されてからだが――――
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