人類定義

彼岸花

01

「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」


 一人の若い男が、夏真っ盛りを迎えた山の中を駆けていた。

 時刻は夜。車道どころか登山道すら近くにないほどの奥地であり、周りは暗闇に閉ざされている。空で輝く星と月が唯一の光源であるが、今日の天気は生憎の曇り。空の光は地上まで届かない。更に夏の暑さと日差しを帯びて鬱蒼と茂るほどに育った木々が、濃密な影を作り出す。

 自分の手すらろくに見えない闇の中を走るのは恐怖である。しかし男は、暗闇を恐れずに進む。

 何故なら男は今まで、この暗闇の中で『訓練』を行っていたから。着ているのは森の景色に紛れ込むための迷彩服。頭に被るのは分厚く頑丈なヘルメット。そしてその手に持つのは大きな銃……自動小銃と呼ばれる類のもの。銃には実弾が装填され、何時でも本当の、危険な射撃が行える。

 男は自衛隊員だった。今日は夜間での作戦遂行を想定した訓練をしている。新人ならば思った以上の暗さにビビりもするだろうが、彼からすればもうこの暗さは慣れたようなもの。それに(鍛えるという観点だとあまり良い事ではないが)この山での訓練は数えきれないほど経験しており、地形もある程度把握している。何も見えなくても、身体が様々な事を覚えているのだ。

 だから山も暗闇も怖くない。

 なのに男は、その顔を恐怖で引き攣らせていた。


「っ!?」


 走っていた男は、唐突に足を止める。背後から草むらを掻き分ける音が聞こえた……気がしたからだ。

 立ち止まった男は手探りで辺りを調べ、近くに大きな木がある事を知ると背中を密着させた。これで背後から心配はない。前に意識を集中させられる。

 男が息を潜めると、今度の物音はハッキリと聞こえた。

 ガサガサ、ガサガサ。決して速い動きではないが、着実に、男の方に近付いてきている。


「……クソッ」


 小声で悪態を吐く。本来、男の頭には暗視ゴーグルがある筈だった。しかし少し前に起きた『トラブル』により落としてしまい、今は肉眼で夜の暗闇を見通さなければならない。

 そう、トラブルがあった。

 いくら自衛隊員とはいえ、一人で山の中を歩くような訓練はしない。小隊を組み、仲間と共に行動していた。小隊長の指示に従いながら前進し、事前に設定した目標地点で作戦行動の練習を行う。ただそれだけの、あり触れた訓練だった。

 だが、訓練は実戦に変わった。

 『何か』が小隊に襲い掛かってきたのだ。訓練の一環、の訳がない。訓練とはいえ男がいた仲間達は実銃を持ち、山の中での射撃訓練だから実弾を込めている。ここで悪ふざけなんてしてみれば、『事故』が起きるのは容易に想像が付く。

 男だけでなく誰もが即座に、この事態が実戦だと気付いた。気付いたが、その時には遅かった。

 何かは猛烈な速さで、仲間達を攻撃していった。ボキリッ、という生々しい音を男は聞いている。恐らく骨を折られたのだろう。最前列を歩いていた小隊長が真っ先にやられ、次々に同じ音が鳴った。前に仲間がいるので銃も撃てず、二人やられたところで男含めた隊員達は逃げようとして――――最後尾にいた男だけが生き延びた。男も危うく死ぬところだったが、掠めた何かが暗視ゴーグルの紐を切っただけだった。

 しかし何かは男を逃すつもりがないらしく、今、こうして迫ってきている。


「……………」


 男は小銃を構える。引き金に指を掛け、息を整えた。

 迫ってきた何かは、男の姿が見えているのか。間近まで迫ったところで、ぴたりと立ち止まったのか音が止む。

 睨み合っているのか、或いは抜き足差しで側面に回り込んでいるのか、後退しているのか。暗闇を見通せない男には何も分からない。


「警告する! 接近したら、射撃を行う!」


 だから大きな声で、万一それが『何か』でなかった可能性を考慮して、大きな声で警告した。

 途端、


「ギィイィイアアアアアアァァアアッ!」


 人間のものとは思えない、猛々しい咆哮が辺りに響く!

 次いで、草を掻き分ける音が再び聞こえてきた! 猛烈な速さで自分に迫っていると感じ取った男は、警告通り銃の引き金を引いた。

 男が使う銃は三三式五・六ミリ小銃。

 二〇三三年に実用化された日本製の小銃だ。米軍及びNATO軍も開発に参加し、二〇三五年現在、自衛隊の主力武装となっている。米軍やNATO軍で使用している小銃と弾丸・弾倉に互換性があり、補給面での連携強化が図られた。

 無論威力についても十分なものがある。少なくとも普通の人間相手なら、胸や腹に一発でも当たれば致命的になるだろう。

 男は物音を『目印』にして小銃を撃った。正確な射撃ではないため、どれだけ命中するか分からない。しかし物音の大きさからして、何かとの距離は恐らく十数メートルしか離れていない。大雑把に撃ったとしても、無数に弾をバラ撒けば一発ぐらいは致命的な場所に当たる可能性が高い。おまけに自動小銃は一分間に九百発の連射性能を持つ。一秒で無数の弾がばら撒かれれば、如何に暗闇といえども外す方が難しい。

 事実、弾丸は何かに当たった。

 と硬いものに弾かれるような音を鳴らして。


「なっ……!?」


 音に気付き、男は驚愕した。自動小銃を弾くとは相当の硬さがなければ出来ない。音からして木や石に当たったようでもなく、迫りくる何かに当たった音としか思えない。

 そして何かの足音は、銃弾が何発当たろうとも止まらない。

 銃が効かない化け物。そんなのはフィクションの存在だと思っていた。否、フィクションでなければならない。銃弾が持つ運動エネルギーとは、生身の生物が耐えられるようなものではないのだから。ましてやちっぽけな短銃ではなく、軍事用の小銃だというのに。

 一体コイツはなんなのか。こんな化け物に勝てる訳が――――


「ギッ!」


 半ば諦めかけた時、呻き声が聞こえた。

 次いでどさりと地面に大きなものが転がる音が鳴り響く。男はそのまましばらく銃を撃っていたが、もう跳弾の音は聞こえない。

 引き金から指を外す。耳を澄ます。音は、何も聞こえてこない。

 何が起きたのか?

 考えてみるが、答えは浮かばない。何しろ男には暗闇の先が全く見えていないのだ。撃ったら何かが弾を弾き、何かが呻き、何かが倒れた……事実はこれしか分からない。

 やがて困惑する男を見兼ねたかのように、雲が動き、月明かりが地上に差し込む。淡い光に照らされ、それはついに男に姿を見せる。

 男は息を飲んだ。呆然と立ち尽くし、首を横に振る。自分の見た存在が信じられないとばかりに。この異常なものと比べれば、銃の効かない怪物の方がまだ現実的に思える。

 しかしどれだけ頭を振っても、現実は変わらない。

 地面に転がるは、消える事がなかった――――

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