第3話 吉隅さん
電車の窓から外を見ていた。緑の多かった風景がビルに変わって行く。東京に来たんだなと思った。
駅を降りたら、とにかくすぐに現地へ向かうように言われている。寄り道は厳禁だそうだ。が、実際に駅を降りたら、その建物は目の前にあった。寄り道のしようがなかった。
ホール前には、すでに人がたくさんいて、にぎわっていた。この人たちはオケを見に来たのか、それとも吉隅さんを見に来たのか、と考えたりした。
少しして開場の時間になった。列が短くなるたび、期待で胸が高鳴った。
チケットをちぎってもらいプログラムを渡され指定の席に着くと、深く息を吸い、吐き出した。
一人で、こんな大きい会場でオーケストラの演奏を聞くのは初めてのことで、緊張していた。周りの人たちは、小さな声で何か話して楽しそうだ。その人たちの、いかにもこういう場に慣れている感じが、私をより固くさせた。
プログラムを見たりしていると、あっという間に時間になった。オケの人たちが出て来て拍手。音を合わせた後、指揮者とソリストが現れた。拍手が起こる。私も一生懸命叩いた。一瞬後、しんと静まり返り指揮者が手を上げ、音楽が始まった。最初から最後までドキドキし過ぎてどうしようかと思った。
協奏曲が終わり、何度目かのカーテンコールの後、吉隅さん一人の演奏が始まった。協奏曲と同じ作曲家の曲だ。弾き終えて立ち上がると一礼して去って行った。涙がこぼれた。音楽を聞いて、こんなに感動したのは初めてかもしれない。そんなことを言ったら光国は怒るだろうか。でも、この涙がそう言っている。
休憩時間になってロビーの物販コーナーを見たが、吉隅さんのCDはなかった。売り場の人に試しに訊いてみたが、CDは出していないそうだ。残念な気持ちでいっぱいだ。
後半は別の作曲者の交響曲だった。どこかで聞いたことのあるフレーズで、興味深く聞いた。拍手をいっぱい送った。
ロビーに出ると、行列が何本も出来ていた。ここで待っていれば出演者に会えるらしい。少しして吉隅さんが現れた。もうそれだけで涙腺がゆるんだ。
だんだん列が短くなり、とうとう私の番になった。
「あの。今日の演奏、すごく良かったです。あの。感動して…、感動してしまって…」
我慢しようと思ったが、ぼろぼろと涙が流れていった。吉隅さんが目を見開いて、それからうろたえたような顔になった。迷惑行為だとわかっているのに、どうしようもない。
「ごめんなさい。えっと、今日は本当にありがとうございました。私、飯田光国の知人で、藤田美子といいます。あ、違います。そんなことどうでもいいんです。本当に、素敵な演奏をありがとうございました」
余計なことを言ってしまったことが恥ずかしくて、私は急いでその場を離れた。
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