第19話 重なり合った二人の意志と未来③
取り戻せるものと取り戻せないものがある──一度はだし巻き卵の感動で吹っ飛んだ鬱蒼とした気持ちが、まるで反動を加えたかの様に跳ね返って戻ってきた。
ユウナはこちらの世界にない和食を再現できた事で、俺達が本来享受できたはずの青春も再現できるのではないかと考えた様だ。
だが、一方の俺はユウナ程前向きにはなれていなかった。だし巻き卵の味を久しぶりだと感じて、剰え涙してしまう程に、自分達は元いた場所から遠く離れたところにいるのだと改めて実感してしまったのだ。
「エイジくん……?」
心配そうにこちらを見つめるユウナから逃げる様に、俺は自らの手に視線を落とす。
その手は今や綺麗になっているが、ほんの数時間前は血塗れだった。
果たして、この手でこんな優しい味のものを食べてしまってもよかったのだろうか。俺の知る世界のものと触れてしまってもよかったのだろうか。
そんな疑問と罪悪感が心の中を否応なしに支配していく。
「考えてみろよ。今日だけで、俺は何人殺したよ? 今日だけじゃない。この二年で、どれだけの魔族を、魔物を、そして人を殺した? もう数え切れないだろ……日本の凶悪犯罪者より遥かに殺しまくってるじゃんか」
戦いに次ぐ戦いに加えて、聖剣に魔法や闘気といった大きな力を持ってしまったせいで、何人殺しただとかの感覚が更に薄れてしまった様に思う。
戦場で銃器を扱う兵士ももしかしたらこんな気分なのかもしれない。自分の力を遥かに超えた力を持つと、その罪悪感さえもなくなってしまうのだ。
ユウナはそれに対して、何も言わなかった。いや、言えなかったのだろう。この二年間俺が何をしてきたかを、誰よりも知っているのだから。
「そんな俺が青春? ちゃんちゃら可笑しいだろ。こんな血生臭い手で楽しめる青春なんて、あっていいわけがない」
目を閉じればうっすらと脳裏に浮かぶ、夕暮れの教室。そんな教室で、俺とユウナは二人残って他愛ない話をしていた。
彼女と一緒にいるのは今も変わらないはずなのに、今の俺達は随分とあの場所から遠い位置にいる。それは座標的な意味だけではなく、精神的な意味に於いてもだ。
あの世界でただの高校生だった俺は、この世界では強い力を持つ勇者である。きっと、日本にいたらここまでちやほやされる事も、担ぎ上げられる事もなかっただろう。普通の学生として今も学校に通っていたに違いない。
だが、それと引き換えに、人どころか小動物さえも殺さずに済む環境を失い、当たり前に人や魔物を殺さなければならない環境に身を置く事になった。
魔王と戦っていた頃は、何人殺しただのを気にしている余裕なんてなかった。ただ生き残る事に、ユウナを守る事に必死だった。だからこそ、その過程で徐々に変わっていた自分の感覚に気付けなかったのだろう。
だが、魔王を倒して落ち着いてしまった今、変わってしまった自分とこうして相対する事となってしまった。夕暮れの教室で彼女と笑い合っていた頃の俺とは程遠い自分と、向き合う事になってしまったのである。
「俺はもう、まともじゃないんだよ……!」
空になった皿を地面に叩きつける事で、理不尽さへの怒りと悔しさを示した。
皿は木製だったから当然割れなかった。からんからんと音を立てて、転がっただけだ。
「……そうじゃないよ」
ユウナは暫く黙った後、俺の手に自らの手を重ねてこちらをじっと見た。
「まともじゃなくなっちゃったから……元の私達に戻る為に、私達はあの青春を取り戻さないといけないの」
そこで、ハッとして彼女の顔を見る。
彼女は悲痛な表情を浮かべていた。その表情は寂寥感に満ちていて、これまで見せていた明るい表情からは想像ができない程辛そうだった。
「私だって、もうあの時と同じじゃない。変わっちゃってるよ。目を覆いたくなるような悲惨な光景だって何度も見てきて……私の力が及ばなかったせいで救えなかった人もいて。そんな経験を何度もしちゃったら、何も知らなかった高校生の頃と同じではいられないよ」
そうだった。
ユウナは確かにまだ人を殺めていない。だが、その代わり──〈
俺の知らないところで、俺とは異なる苦しみや罪の意識を、彼女はずっと背負い続けていたのだ。
「でも、だからこそ……だからこそ、今の私達にはあんな時間が必要なんじゃないかな。毎日が楽しくて、ドキドキしてて、新鮮で、また早く明日にならないかなって思えるようなそんな時間が。じゃないと……耐えられないよ」
ユウナは泣きそうな顔で笑って、ほんの少しだけ首を横に傾けた。
そこで漸く気付いた。きっとユウナは俺よりも早く今の自分と向き合っていて、今の俺みたいに苦しんでいたのだ。
そして同時に、俺がそうした苦しみを内在させている事にも、俺よりも早くに気付いていたのだろう。だからこそ『一緒に青春を取り戻そう』と提案したのだ。俺達二人の心を救う為にも、それが必要な事だと彼女はあの時から既に悟っていたのである。
ユウナは俺なんかよりも全然大人だった。
「ねえ、覚えてる? こっちにきたばかりの頃……私、辛くて毎日泣いてたよね」
「まあ、そうだったな」
彼女の言葉で、二年前に転移させられた直後の事を思い出す。
ユウナは俺みたいにアニメや漫画の知識があったわけではないから、この異世界転移という状況を受け入れて理解できるようになるまで、少し時間が掛かった。
あまりに過酷で残酷な世界に耐えられなくて、怯えて足がすくんでしまっていたり、殺し合いの戦いが目の前で繰り広げられているのを見て、怖くなって泣いてしまったりしていた。その光景に慣れた頃合いであっても、夜中にこっそりと泣いていたのを見ている。
今では〝聖女〟として立ち振る舞い、余程の事がない限り動じない彼女にも、そんな駆け出しの時期があったのだ。
それも仕方ないと思う。いきなり殺すだの殺されるだのといった世界にただの高校生が放り込まれて、すぐに順応できるわけがない。
「でも、エイジくんは全然泣いてなかった。私と同じで大変なはずなのに、泣き言の一つも言ってなくて。それどころか、ずっと『大丈夫だから。俺が絶対に連れて帰るって約束するから』って……私の事、勇気付けてくれてたよね。私、あれで随分救われてたんだよ?」
「……そうだったかな」
確かに、当時の俺はこの世界に早く順応していたと思う。聖剣バルムンクを渡されてから、魔物の命を奪うまでは短かった。
ユウナの様になってしまっていたら、とてもではないが〝勇者〟としての役割は果たせなかっただろう。
だが、それは自分の感情や思考を捨てる事で順応したに過ぎない。そうしないと、守るべき人を守れないと悟ったからだ。
ただ、その反動が今こうしてきているわけで……今となっては、当時の判断が正しかったのかはわからない。ユウナの様に少しずつ慣らした方が結果的には良かったのかもしれない。
「私が不甲斐ないばっかりに、一人で全部背負い込ませちゃってて、すっごく無理させちゃってたんだなって……最近になって、やっとわかったの」
「…………」
なるほど、そういう事か。
そこでようやく、ユウナから今日言われた『あんまり無理しないで』という言葉の意図を理解した。彼女はずっと、俺の心がこうして重荷に圧し潰されそうになっている事を知っていたのだ。
大切な人を護る事、そして使命を果たす事、それを目的として生きている間に、〝勇者〟としての役割なんかも勝手に背負い込んでしまっていて、そうしている間に俺の心は自分らしさをどんどん失っていたのだ。
「今まで面として言えなかったけど……二年間、ずっと支え続けてくれて、ありがとう」
ユウナは柔らかく微笑んで、御礼を言った。
その言葉からも、心から感謝しているのが伝わってくる。伝わってくるからこそ、余計に辛くなってしまった。
「やめてくれ。〝勇者〟としての役割だとか、使命だとかは果たせたのかもしれないけど、肝心の約束は果たせなかったじゃないか。礼を言われる筋合いなんてない」
あっちに連れて帰る──結局、その約束だけは果たせなかった。
果たすつもりで頑張っていたけれど、いざ使命を果たしても何も起こらず、結局元の世界に帰れなかったのだ。
異世界に転移させられたのも、使命を果たしたのに帰れなかったのも、どちらも俺の所為ではない。俺の所為ではないけれど、約束を果たせなかった事への罪悪感は拭い去れない。
「ねえ、エイジくん。勘違いしないで」
そこで、ユウナはくすっと笑った。
そこには呆れている様な、少し可笑しそうな雰囲気さえも漂っている。これまで見せていた泣きそうな笑顔とも、寂寥感に満ちた笑みとも、俺を気遣っている笑みでもなかった。
まるで、何かを決意したかの様な、前向きな笑顔。それはあの時、『一緒に青春を取り戻そう』と言った時と同じものだった。
「私、もうあっちに帰りたいだなんて思ってないよ?」
「え⁉ なんで……?」
あまりの予想外な言葉に、俺は思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。ユウナは俺よりもこの世界に順応できていなかったし、当然今も帰りたがっていると思っていたからだ。
しかし、彼女の口から出てきた言葉は、俺が予想もしていなかった言葉だった。
「これからはずっとエイジくんと一緒に居る。この二年間、ずっと私の事を支え続けてくれたエイジくんを、これからは私が支えたいの。場所なんて……もうどこだっていいよ」
真剣な眼差しでじっとこちらを見据えて、ユウナはそう言ってくれた。
その言葉を信じられない想いで聞いている自分と、今まで辛く締め付けられていた心が柔らかく解れていくのを感じている自分がいた。
場所なんてどこでもいいから一緒に居たい──そんな言葉を誰かから言ってもらえるなんて、思ってもいなかった。
そして、この言葉を聞いた今、新たな考えが自分の中で芽生えたのを感じた。
──もう、帰れなくても良いじゃないか。
ユウナが傍にいる。彼女も俺と一緒に居たいと言ってくれている。それさえあれば、もう何もいらないのではないか。
彼女が傍にいるなら、こうして変わってしまった価値観と二年前の価値観の帳尻を上手く合わせて、この世界でも上手くやっていけるのではないだろうか。この世界に存在しないだし巻き卵を表現できた様に、この世界にない生き方を俺達ならばできるのではないだろうか。ユウナは俺に、そう思わせてくれたのだ。
俺も彼女と同じ決意を抱くと、ゆっくりと息を吐いて、こう伝えた。
「じゃあ……この世界でできる青春、二人でしようか」
「うん。エイジくんとなら、きっと何でも青春になるよ」
「それは結構なプレッシャーだな……」
「そう? そんな事ないと思うけどな」
そんな言葉を交わしながらも、二人の視線は交錯していて、次の展開に進む甘酸っぱい空気感が俺達の間では溢れていた。
互いの気持ちが合致したのを感じた時、俺達はどちらともなく顔を寄せ合っていく。
瞳を閉じると、ふわりと鼻腔が甘い香りで満たされた。いつもはうっすらと香る、ユウナの上品で優しい香りだ。それはとても甘美で、頭がどうにかしてしまいそうなほどに愛しい香りだった。
そして、それから間もなくして──唇に優しくて柔らかいものが触れた。
唇が重なるだけの、初々しいキス。でも、その重なった唇からは彼女の体温と確かな意志を感じて、一生離れたくないと思わされてしまう。
きっと、このキスは俺達が互いの本当の想いを認識し合った瞬間であると同時に、現世への未練を断ち切った瞬間でもあった。
変わってしまった自分達を受け入れて、この異世界でやっていこう。失ってしまった
自然と唇を離すと、その拍子に僅かに漏れた彼女の吐息が頬に当たって、そっと目を開けた。彼女が目を開けたタイミングも同じで、俺達は自然に見つめ合う形になる。
「……ほら。青春になったよ?」
ユウナは面映ゆい表情を浮かべながら、そう言った。
そう言った時の彼女の表情は普段の様な少女の面影を残しつつも、どこかいつもより大人っぽいところがあって。それだけで胸が苦しくなって、もう一度彼女を触れたくなってしまう。
そっとその華奢な肩に腕を回して抱き寄せると、ユウナは俺に身体を預けたままこちらに顔を向けて、もう一度瞳を閉じた。
そんな彼女を見ているだけで、我慢できなくなってしまうほどの衝動と胸の高鳴りが襲ってくる。そのドキドキと胸の高鳴る感覚は、何だかあの放課後の教室の延長にある様な感覚だと言えるのかもしれない。
そして、その感覚は、この世界に来てからは初めて味わうものだった。
──そっか。青春って、こんな感じだったよな。
昔の感覚を思い出しながら、そして新たに知る感覚を全身で感じながら、もう一度彼女の方へと顔を寄せる。
それから俺達は、失ってしまった青春を取り戻すかの様に、何度も何度も唇を重ねたのだった。
俺達だけにしか味わえない青春の味と、未来を思い描きながら──。
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