第一章 北へ-1



 もう二日になるが、外の景色はほとんど変わらなかった。

 乾いた大地と乾いた空。時折、大地は赤茶ける。駅と駅の間に、緑はほとんど見えない。駅の周辺に、わずかに木々や畑の緑が散在する。だが、それだけだった。 

 目指す北には、標高二万メートルの山脈が聳えている。けれど、山はいっこうに近くならなかった。客車の中の乾燥した空気が、細かな土埃の臭いとともに、喉と鼻を刺激する。

 汽車は、うんざりするほどのんびりと走っていた。フラゴンが乗っている客車には、フラゴンの他に十四、五人の乗客が乗っているだけで、座席はがらがらだ。

 火星の鉄道は人を運ぶためのものではなく、物を運ぶためのものだ。旅を急ぐ者は、みな飛行船を使う。火星に来て北半球へ向かうこの汽車に乗って、シルヴィアス・フラゴンはようやくその事を知った。

 正確に言えば、火星北半球に限ってはそうだ。フラゴンが乗る列車の編成は、客車三輌、貨物車十八輌である。他の客車に乗客の姿はほとんどない。

「もう二百年経とうとしているのに」

 この独り言を、変わらぬ景色を眺めては何度呟いたことだろう。

 火星の開拓地のことである。火星に初めて鍬が打ち下ろされてから、地球歴で二百年は目の前だった。

「もっとも、火星暦で言えば、百年足らずだが……」

 フラゴンは尻を動かして、座席の位置をかえた。座り続けて、骨まで痺れてしまった感覚がある。

「それでも、この旧式の汽車はどうだ。火星北半球縦断鉄道とは、よくも名付けたものだ」

 知らず不平と苦笑いが出る。そこで、フラゴンはいつも可笑しくなった。最初そのことに気づいた時のことを。

 そうなのだ、この鉄道は、地球で言えば百年近く前に敷設されたもので、ここは観光地でもなければ、急速に都市が出来る発展植民地域でもないのだ。ましてや、火星の中心地でもない。鉄道が旧式だと文句を言う者がいる筈もなかった。旧式で当たり前だ、とフラゴンは思った。

「たしかに、南半球と北半球では、まったく違う。別世界だな……」

 フラゴンが、北へ行くと言った時、心配そうな顔をしていた、移民局係官の顔を思い出していた。

 フラゴンは移民ではないが、火星、特に北半球は火星移民総局が全ての管理を行う。フラゴンが持っているのは、いわば特別鑑札とも言うべきもので、一切の規制から免除された通行証だった。当然、一般には出されないものだ。フラゴンの知名度がもたらした特別措置だと言えるだろう。


 シルヴィウス・フラゴンは、三〇九三年頃、今から二十年前には、もう一端の作家だった。その時、フラゴンは二十四歳だった。妻と子供がふたり。息子と娘で、長男は四歳、長女は生まれたばかりだった。幸せだった。

 充分に、フラゴンは世の賞賛と敬意を受けていた。フラゴンの代表作である『幽かな地平の光』は、ひとつの社会現象と言って良いほどの熱狂を生み出していた。

 月面都市を舞台に、渡りの労働者の姿を通して、世界の歪み、現代が抱える病巣を描いたものだった。絶賛の嵐の中、フラゴンは淡々と作品を世に送り出した。それが、彼の評価を不動のものにした。

 そして、彼の生い立ちも、幾らかはそのことに貢献したかも知れなかった。彼は、幼い頃に祖父と両親を失っていた。作家として有名になったと同時に、フラゴンの生い立ちも面白半分に取り沙汰された。

 フラゴンの祖父と父は、当時急成長の宇宙船建造で会社を興し、莫大な富を築いたが、砂漠緑化計画への投資と、月面鉱山の不振、公転軌道上コロニーで全てを失った。成功の輝きは一瞬にして消え、凋落は雪崩に似ていた。

 フラゴンが辿った運命の道筋を、マスコミは安っぽいお涙頂戴にして書きたてた。フラゴンに関する全てが話題となった。まともなものもあったが、大方が興味本位のものに終始した。

 フラゴンは彼を取り巻くそう言った騒ぎに無頓着だった。世の人々にはそう見えた。だが、フラゴンは自身を戒めていたに過ぎない。禁欲的でないにせよ、フラゴンは自分が有頂天になることを厳しく戒めた。こんなものはすぐに過ぎ去ってしまう、傲慢は恐ろしい。そう思っていた。必ずそこには、父と祖父の姿が浮かんでくる。

 母はフラゴンが幼い時に病気で死んだ。もともと体が弱い人だった。思えば、父ががむしゃらに仕事にのめりこんでいったのは、母を亡くしてからだったような気がする。

 会社を失い、没落した父と祖父は、運命から見放され、相次いでこの世を去った。フラゴンは、世の中の不可思議さを教えられた。父も祖父も、会社は失ったが生きていた。だが、世界はふたりが生き延びることを許してはくれなかった。

 目に見える人間が作り出したものではなく、目に見えぬ造型の底辺にある欲望と本能が世界の底辺の一方を支えていた。もう一方に何があるのか。フラゴンにはまだ理解できなかった。その時から、フラゴンは世界を支えるものが何なのかを見ようとし始めたのだった。

 フラゴンを引き取って育ててくれたのは、母の父、フラゴンにとってもう一人の祖父グレンファー・フラゴンだった。

 グレンファー・フラゴンは、孤児同然となったシルヴィウスを手元に引き取り育ててくれた。フラゴンの中に、娘の面影を見たのかもしれなかった。シルヴィウスがフラゴンを名乗っているのはその為である。

 グレンファー・フラゴンは、地方で醸造所を経営していた。そこからは、質の良いワインとブランデーとが生み出された。祖父は酒造りであり、農夫であり、植物学者でもあった。

 祖父は常に自然と向き合い、自然の力を畏れ、自然と共に作物を育て、植物と自然の中から、人間の世界を眺め理解しようとしていた。それまで、町のなかで暮らしてきた孤児同然の孫を、祖父は自然の中へ連れ出した。

 孫のシルヴィウスは何も知らなかった。自分の命以外ほとんど全てを失ってしまった孫は、虫も動物も砂漠も森も川も平原も湿原のことも知らなかった。祖父は孫を見て思った。この子はまだ色んなものを手に入れることが出来るぞ。

 それで、自分が知る自然の中へ孫と出かけ、目に見えないものが創る世界を感じさせた。主に自然が持つ力だった。微生物や草や水が営む浄化作用や還元、酸化、腐敗と再生などだった。自然の営みの中に、人間の世界があることを祖父は教えた。孫は世界を支えるもう一方のものを漠然と感じていた。

 やがて、孫は自然の営みのなかに意思があると考えた。それを自分に当てはめた。

 創造を高処へ導く意志。

 祖父は孫の手を取り、

「さあ、夕日を見に行こう」と言い、

「風に吹かれてみよう」と言い、それが朝であれば、

「一日の始まりに頭を垂れよう」

 それが夕方なら、

「一日の終りに頭を垂れよう」

 と言ったものだ。

 シルヴィウス・フラゴンの精神は、こうして形成され成長していった。父親と祖父からは世界の影を、もう一人の祖父からは光を受け取ったのである。父が付けたシルヴィウスと言う名と、祖父のフラゴンを名乗った。シルヴィウス・フラゴンの魂は、ふたつの財産を受諾し、自身の意思で承諾したのだった。


 二十六歳からの三年間を、フラゴンはひとつの作品を完成させる為に没頭した。これが「霧虹」である。最高の賛辞を受けることになった作品だったが、不幸が彼を襲った。地震によって発生した津波で、旅行中の妻と息子と娘を失った。

 作品は完成したが、フラゴンは家庭と家族を失った。彼の全てだった。妻と子供の死をきっかけに、シルヴィウス・フラゴンは旅人になった。独りぼっちになったからだ。帰る故郷をなくしたからだ。抱きしめる愛しい命を失ったからだ。

 埋めることも逃れることも出来ない闇が、フラゴンを捕まえた。底知れない深淵だった。闇はフラゴンを唆し、痛めつけ、甘美な姿態で死と狂気の寝台へと誘惑した。深淵の底から無限に落ちていく更なる深淵だった。フラゴンは死にもしなければ気が狂うこともなかった。どうにか踏みとどまった。皮肉なことに、怒りと憎しみがフラゴンを深淵から救った。祖父、グレンファー・フラゴンが言った、自然が持つ闇への憎しみと、自身への怒りだった。

 自然は光と闇を持っている、祖父はそう言ったのだ。自身の魂のなかにも、光と闇があり、フラゴンをさらなる深淵から救ったのは、魂の闇だった。

 それから、フラゴンは地球の至るところを流れ歩いた。失ったものから逃げるつもりだった。逃げられない。もう、何もかもが上手くいかなかった。逃げることさえ出来ない。次に地球から逃げ出した。月面都市へ渡った。失ったものが、今度は重荷になってフラゴンを押し潰そうとしていた。怒りと憎しみと、失ったものへの憧憬と思いは、フラゴンの中で煮えくり返り、吹き荒れ、言葉の嵐になった。嵐から逃れるには、思いを言葉にするしかなかった。

 そう言う訳で、フラゴンは作品を生み出し続けた。それしか、方法がないじゃないか。フラゴンは流れ歩き、公転軌道コロニーへも行き、今は火星にいた。フラゴンは四十半ばになろうとしていた。

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