永遠の瑠衣
箱枝ゆづき
第一話 黒猫少女との出会い
お前なんか要らない。産むんじゃなかった。そんな傷つくことを年に数十回は僕に言っていた親。内心、だったら産まなきゃよかったんじゃないか、こちらは産んでくれと頼んだ記憶はないと僕は頭の中で反論する。決して口には出さない。口に出すとさらなるひどいお仕置きが待っているからだ。
いつもお仕置きに怯えていて、僕はお仕置きをされないためにいつも親の顔色を伺い、親の愚痴を聞き、共感をしてあげることに徹した。そうすれば親は気分が良くなり、傷つく言葉を投げかけたり、お仕置きをしてこないからだ。ただ毎日愚痴を聞くのは本当に疲れて勉強をしても頭に入らなくなる。毎日精神的にいっぱいいっぱいなのだ。なので僕は勉強する時間がだんだん減っていき、徐々に成績が落ちていくが、それでも親から成績のことで怒られ、お仕置きをされる。お前のせいだろと心の中で呟くが、決して口には出さない。
このような歪んだ家庭で育てられた影響か、僕は人を見ると相手の裏側を探るようになってしまっていて、常に顔色を伺う癖がついてしまっていた。こんな癖を持っていればほんの少しの感情の変化まで読み取れるようになってしまう。少しでも相手が嫌な顔をすると、ああこの人は僕に対して良い感情を抱いてないなとすぐに勘付くようになってしまい、どうせすぐにこの人も歪んだ僕のことが嫌になる、と、自分から距離を置くようになる。そうなれば人を心から信用できるはずもなく、人を信用できなければ信頼できる友達なんてできるはずもない。そもそも親すらも信用していないのだ。
僕は、大半の人から必要とされず、いつも孤独だった。家には親という家族が居るはずなのに、度重なる傷つく言葉を投げかけられたからか、稀に「お前は大切な息子」などと言われても嘘にしか聞こえず、愛情すら感じることもできず、親は毎日僕に対して仕事や取り巻く環境、生活に対する愚痴しか言わない。
僕の話を少しでもすると「甘えるな!」の一言で片付けられるのはわかっていたので僕は本心を出したいその気持ちを無理矢理抑え込む。自分の本心を出せない虚しさから疎外感を感じていて、家に居ながらも僕は孤独だった。
そうやって僕を押さえつけて、命令して、僕の意思を踏み躙ってきていた親は、家族は、僕を家に置いて遊びに出掛けていた最中に交通事故という災難に襲われてあっさりとこの世を去り姿を消した。こんな突然に親が亡くなっても悲しさはなく、涙が流れることもなく、逆に僕を虐めていた罰が下ったんだ、と、どこか清々しさすら感じるような気分だった。
葬儀や財産の相続など全てが終わると、実家は売却されて、僕はワンルームのアパートに住むこととなった。
親の命令と虐待と束縛からの解放、一人暮らしという自由の身になったはずなのに、僕の周囲の人間関係はどんどん悪化の一途を辿るばかりだった。親が亡くなってから親戚とも疎遠となり、いつの間にか頼れる人も居なくなって、僕は完全に孤独となっていた。
残りの学生生活は、親の遺産を切り崩しながら過ごして、社会人になるまで食い繋ぐ日々。親が早く亡くなってくれたおかげで、生活費のやりくりや家事は失敗を何回か繰り返しながらも自然と身に付いた。生きるためには必要だったからである。生きるためにはお金が必要なので、節約する術も身につけた。
学校でも自宅でも誰と会話するわけでもなく一人で過ごす。孤独に慣れてしまったためか寂しさも感じない。しかし頭では『何故僕は産まれてきたのだろうか』などと哲学めいたことを考え、心にはいつも空虚という穴が空いていた。
◇ ◇ ◇
わらわには
そのわらわは住処もない、食べ物もない。仲間もおらぬ。たまに出会う猫はわらわに敵意を剥き出しにし威嚇してくる。わらわは怖くて逃げ出す。雨が降れば冷たく、慌てて屋根のある所を探し、風が吹けば土管の中に身を隠して、寒さに震えながら風が止むのを祈る日々。
腹が減った……。
公園で水道の蛇口を人間が使用した後、運良く閉め忘れや閉めが甘かった時に流れる水を啜る日々。偶然地面に落ちていた食べかけの弁当を食べてから、もうかれこれ七日くらいは何も食べておらぬ。空腹でふらふらしながらおこぼれを恵んでもらおうと一度鮮魚店の老店主に擦り寄ったら、
「黒猫は縁起が悪い! シッシッ!」
と手の甲を突っぱねられて追い払われてしまった。あれからしばらく歩いていたが、道行く者は誰もわらわに情けをかけてくれぬ。この辺りの人間は『黒猫は縁起が悪い』と思っておると学習をする。
もしもわらわが人間だったら、どうにかして飯にありつけるかもしれない。いや、それもどうやるのかなんてわからない。それにわらわは猫である。猫であるが黒猫であるがために何故か追い払われる。なんということじゃ、八方塞がりではないか。
肋骨が浮き出て痩せ細っていく体、日に日に力が入らなくなっていく四肢、命が尽きるのも時間の問題。わらわもこれまでか……。
力の入らぬ足でふらふらと道を四足歩行で歩いておると、前から学生服を着た男子生徒が歩いてくる。どうせ情けはかけてくれぬじゃろうが、このままではわらわは行き倒れで死んでしまう。
一か八か、足元に擦り寄ってみる。これで追い払われても、もうわらわは逃げる体力も残っておらぬ。
「にゃあー……」
もう声もかすれかけておる。男子生徒は立ち止まってわらわを視認すると、しゃがみ込んでわらわの頭を撫でてくる。撫で方はとても優しく、思わず目を細めてしまうような絶妙な力加減である。
「どうしたの? めちゃくちゃ声が枯れてるじゃないか」
と大切なものを扱うような手つきでわらわの体を触り、
「痩せてる……、ちょっと待ってね」
とカバンの中を探り始め、透明な紙に包まれたものを取り出した。それを広げると、中から白い握り飯が姿を現した。それを男子生徒はわらわに差し出してくる。
わらわは男子生徒の手から夢中になって握り飯を食らう。空っぽだった胃袋にほんのり塩の効いた米が染み渡る。美味い。今まで食べたどんな食事よりも美味いぞ!
あっという間に平らげてしまう。まだ足りぬような気もするが、さっきまで力の入らなかった四肢に若干力が戻ってくる。とりあえずこれで命拾いをした。この男子生徒はなんという優しさじゃろうか。まるで神のようである。
「おいしかった?」
うむ、と返事をする代わりに喉を鳴らして男子生徒の脚に顔を擦り付ける。
「こんなに人懐っこいし、君は捨てられたのかな。黒猫は可愛いのにな」
この男子生徒は『黒猫は縁起が悪い』という偏見を持っておらぬようである。そして見ず知らずのわらわにここまで親切で優しい扱いをしてくれておる。ここでこの男子生徒と別れたら二度と会えぬかもしれぬ。そして、これからこのような優しい人間に巡り会える確率も少ない。また食い物にありつけない日々が続き、野垂れ死ぬ可能性の方がはるかに高くなってしまう。
ならば、この男子生徒の家に連れ帰ってもらうしか生き残る道はない。わらわはしゃがんでいる男子生徒の膝へしがみつくように乗って、胸に顔を擦り付けて喉を精一杯鳴らす。
「君はすごく積極的な性格してるなぁ」と男子生徒は嫌がることもなくわらわを膝の上で撫でてくれる。そして優しく両腕で包んでくれておる。わらわの行動を受け入れてくれておる。もうこの男子生徒が一縷の望みである。わらわは必死に男子生徒の顔に顔を擦り付ける。
「ああぁ、こんな懐かれるとほっとけなくなるよ。家に来るかい?」と、男子生徒はわらわを抱きかかえて立ち上がる。そして歩き始める。わらわが捨てられていた場所からだいぶ離れてしまったが、まぁよい。
男子生徒の腕に包まれておると、わらわの命は助かったと強烈な安堵感が押し寄せてくる。それと同時に、この男子生徒の温もりを感じて安寧の地を得たような、幸せな気分になる。
抱きかかえられたまましばらくすると、男子生徒の家にたどり着いたのか、彼は注意深く周囲を見回し、無資質なフェンスに囲まれたアパートの階段を登り始める。
「声を出さないでね? 僕の家はペット禁止だから。内緒で連れて帰ってるからね?」と申すので、わらわは声を出さないことにする。
玄関のドアを開けると、ワンルームの部屋が覗いた。随分広く感じる。それはわらわの体が小さいからであろうか。
「君は偉いね? 本当に声を出さなかった。不思議な猫だな」と申すので、わらわは男子生徒にしか聞こえないようにゴロゴロと喉を軽く鳴らして顔を擦り付ける。すると男子生徒はわらわを床に下ろしたので、わらわはとりあえずクッションの上に腰を落ち着けることにする。なんとかこの男子生徒にお礼を言いたい。ここまでわらわを優しく扱ってくれた人間は生きてきた中でこの男子生徒だけである。だが、いくらこちらが何を言っても、この男子生徒には「にゃあ」としか聞こえないのである。人間になりたい……! 人間になってこの男子生徒にお礼を言いたい!
そう強く願うと、急に体が熱くなり、ボン! という音と共に目線が高くなった。
「……えっ!?」男子生徒は目を丸くし驚愕の表情をしておる。声を出してみると、「あー」と猫の鳴き声ではない人間の肉声が出る。これならばお礼を言っても伝わるはずである。
「先程はわらわに飯を恵んでいただき、礼を申す」
わらわは深々と頭を下げた。
「あの! その、君、とりあえず裸だから服を着ようね!?」すると彼は顔を真っ赤にして慌ててタンスの引き出しを引っ張り出し、中身を漁り大きなTシャツを1枚こちらに寄越す。そうか、なんだか肌寒いと思っておったが、人間は服を着ないと寒いのじゃな。わらわは遠慮なくそのTシャツに袖を通すと、彼は、
「君、さっきまで猫だったのに……どういうこと!? しかも女の子じゃん!」
「人間になりたいと思ったら、人間になれたのじゃ」
「そ、そんな簡単に猫から人間になれるものなの!?」男子生徒は軽く引きながら疑問を口にする。
無理もない。わらわも何故人間になれたのかわからんのじゃ。
「おぬしの名前を教えてほしいのじゃ。わらわは瑠衣と申す」
と自己紹介をすると、男子生徒はまだ慌てた様子で、
「ぼ、僕は、ヒナタです」と名乗った。ヒナタ……? 読みから推測するに、漢字はおそらく日向であろうか。なかなか中性的な名前である。おなごのような顔をしているだけあるのう。
「えぇっと……ごめん、まだ理解が追いついていないよ。君がさっきの黒猫だってことはわかったけど、どうして急に人間の姿になったんだい?」と訊ねてきた。
「じゃから、おぬしにこのように親切に扱われて、お礼を言いたかったのじゃが、何を言っても通じないようじゃから、人間になってお礼を言いたいと思ったら人間になれたのじゃ」そう説明をしてやると、ヒナタは目をぱちくりさせておった。
「とんでもない展開で頭が付いていかない……」
「それでじゃ、図々しいことを承知の上で頼みがあるのじゃが、聞いてもらえるかのぅ?」
「な、なんでしょう?」
「わらわを、ここに置いてほしいのじゃ。ヒナタは親切なのじゃ。わらわは気に入ったのじゃ」とわらわは素直に頼むと、ヒナタは少し悩んだ後、
「わかったよ。好きなだけ居てくれて構わないよ」と言ってくれた。やはりヒナタは優しい。本当に優しい男じゃのう。
「恩に着るのじゃ」ともう一度頭を下げると、
「でも一つだけ条件があるんだ」と申してくる。
「なんじゃ? 申してみよ」
「僕は、その、女の子を相手にすると、き、緊張しちゃってさ、たまに変なこと口走るかもしれないの」
「ふむ」
「そういうときは無視してくれていいからね? あとね、お風呂とかトイレとか覗かないでね? 恥ずかしいからさ」
と少し頬を赤らめてもじもじしながら言う。なんと可愛らしい男子なのか。しかし覗きたいとは思わないし、覗くつもりもないのだが。というか、さっきからヒナタはおなごのようなことを口走っておる。
「何が恥ずかしいのかは理解できぬが、ヒナタがダメと言うのならやらぬ」
「そ、そっか。よかったぁ。じゃあよろしくね、瑠衣ちゃん」
「うむ。こちらこそよろしくなのじゃ、ヒナタ」
こうしてわらわは、新しい住処と寝床、安寧の地を見つけたのであった。
◇ ◇ ◇
拾ってきた猫がまさかの人間の女の子になるという、まるで漫画のような展開で僕の家に居候することになった、黒猫の瑠衣ちゃん。
瑠衣ちゃんは長い黒髪が綺麗でまつ毛も長い、小柄な和風美人さんなので、一緒に住んで緊張するかなと思ったけど、瑠衣ちゃんは意外と大雑把で僕の目の前で着替えたり、トイレに鍵をかけずに入ってたりと、油断すると僕がキャーと叫びそうな光景を目の当たりにしたりもすることから、他の女の子と違い過度に気を遣いっぱなしというわけでもなく、かといって適当に扱ったりするわけでもなく、なんだか幼い妹と一緒に暮らすような感じだった。
ある日、部屋で壁を背もたれにしてクッションに座りテレビを見ていたら、隣に座っていた瑠衣ちゃんが僕の膝の上に手を突いて顔を覗き込みながら訊いてくる。
「ヒナタ、おぬしは時折寂しそうな表情をすることがあるが、何故じゃ?」これは瑠衣ちゃんの純粋な疑問であると即座に気付いた。僕は一瞬、歪んだ家庭で育ったことを瑠衣ちゃんに知られたくないと思ったが、隠していても仕方のないことだとも思ったし、瑠衣ちゃんなら別に知られても構わないような気がした。なので、
「僕ね、両親が居たけど、交通事故で亡くなって、一人暮らしなんだ」と、素直に打ち明けることにする。
「母上も父上もおらぬのか?」
「そう。死んじゃったの」
「それは悲しいのう」と瑠衣ちゃんは涙目になる。僕は慌てて、
「もう気にしてないから、大丈夫だよ」と答える。
「なら、何故寂しそうな顔をするのじゃ?」と素直な疑問を投げかけられて、僕は家庭環境のことをぽつりと話し始める。ひと通り話終えるが、こんな重い話にもかかわらず瑠衣ちゃんは、
「ふむ、つまりヒナタは一人だから寂しいと、そう思っておるのか」当たらずも遠からずなんだけど、まあ似たようなもんかと僕が思っていると、瑠衣ちゃんは僕をくりくりとした目で見て、
「ならば、わらわがおるから寂しくないのじゃ!」と笑顔で猫のように無邪気に顔を擦り付けてくる。その行動に僕は呆気にとられたが、しばらくするとなんだか涙が込み上げてきた。
「……」ああ、この子はなんて優しいんだろうか、こんな歪んだ家庭で育った、歪んだ僕にこんなに明るく慰めてくれるなんて。
「ヒナタ、何故泣くんじゃ?」と、瑠衣ちゃんの眉毛がハの字に変わってしまったので、僕は慌てて涙を拭いて、
「こ、これは嬉しくて泣いてるだけだから!」と口にすると、
「そうか! なら、わらわはヒナタとずっと一緒におるぞ!」と、笑顔でまた体を擦り付けてきた。そんなことをされると涙が止まらなくなっちゃうよ。
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