第30話 吊橋効果

「せい君、それじゃ三十分後ね」

「ああ、わかった」


 今日は、男湯には誰もいない。

 それがちょっと安心する。

 

 広々と、大きな浴場を占領した気分で足を延ばして肩まで湯に浸かり天井を見上げる。


 湯煙で何も見えない。

 まあ、俺の未来みたいだな。

 お先が真っ暗、というわけじゃないが不透明。

 果たして今日だって、帰って何もないわけじゃないだろうし。


「ふう……そろそろ出て、待っておくか」


 体があたたまったところで風呂から出て、体を洗って脱衣所へ。

 着替えてから、休憩スペースに行くと予定より早く出たはずなのに神岡が先にジュースを飲んで待っていた。


「あれ、早かったな」

「ふふっ、せい君と会えないのが寂しくて」

「……まあ、いいけど。さっ、帰るぞ」

「うん」


 やけに素直だ。 

 風呂に入って神岡の濁った心も少しは洗われたのか?


 帰りの夜道でも特に何か仕掛けてくる様子のない神岡を見ながらゆっくり夜風で涼んで。


 そして家に帰ってすぐ。


 玄関先で神岡は俺の袖をくいっと引っ張る。


「な、なんだよ」

「せい君、さっきので三回だよ」

「……何の話だ?」

「デート。お風呂デートしたじゃん、今」

「は? いや、今日はもう」

「一日に一回しかデートカウントしないとは言ってないよ? 昨日のお風呂デート、今日のゲーセンデート、そんで今のお風呂デートで三回だよ」

「んなバカな」


 いや、ほんと馬鹿な話すぎる。

 そんなトラップがあってたまるか。

 

「私はちゃんと約束を守ったよ? せい君はまさか、言ったことを反故するの?」

「そ、そうじゃなくて解釈が違ってたというか」

「そんな言い訳が通用するなら警察はいらないよ? あと、ニッパーもいらないよ?」

「に、ニッパーはどっちみち今は不要なんじゃ……」

「ダメだよ? ほら、せい君。デート三回したからキスだよ? ね、ちゅうして?」

「……」


 突然、危機に陥った。

 俺の袖を引きちぎる勢いで、神岡の力は強くなっていく。


「せい君、ダメだよ? 生徒会長なんだから人との約束は守らないと。ね、キスして?」

「……こ、ここで、なのか?」

「ここじゃなきゃヤダ。そうしないと玄関で一晩過ごすことになるよ?」

「……」


 正直、それならここで一晩過ごしてやると豪語したかったけど。

 現実的じゃない。

 兵糧攻めにあうだろう。

 外にも出れず、家にも入れず、そんな状態で何日だって神岡なら俺を足止めするに違いないと。


 そう、確信してあきらめた。

 俺は、一度天井を見上げてから呼吸を整える。


「……わかった。キス、だけだぞ」

「うん。ね、最初だからせい君からして?」

「……ええと、目は、閉じた方がいいのか?」

「せい君が好きなようにして? 私、いつでもいいから」


 そっと袖をつかむ神岡の手が離れて、そして俺の前に立つとゆっくり目を閉じる。


 少し顎を上げて、唇を差し出すように俺に向ける。

 その瞬間、辺りを甘い香りが包む。


 さっき風呂上がりで香水でもつけたのだろうか。

 それと、シャンプーや石鹸の香りと混ざって俺の頭はぼーっとさせられる。


「せい君? いいよ、早く」

「……わ、わかってる」


 これは茨の片道。

 ここでキスをしたら俺はもう、戻ってこれなくなるとわかっている。 

 わかっているが、その香りのせいなのかいつもより判断力が鈍い。

 もう、このまま瑞々しい神岡の唇に吸い込まれてしまえば楽になると。


 そんな言い訳をしながら、俺は神岡にキスをした。


「……んっ」


 唇が触れた瞬間、神岡が少し高い声を出してから俺に手をまわしてくる。 

 そして唇を押し当てるようにして、俺から離れない。


「ん、し、紫苑」

「まだ。もっとしたい」

「……」


 その快感は人生で味わったことのないものだった。

 これ以上はまずいと、何度もそう思いながらも俺も神岡から離れることができず。


 しばらくして、ようやく神岡がゆっくり顔を離すと。


「ふふっ、しちゃった」


 にっこりと笑った。


「……こ、これで満足か?」

「うん。せい君のキス、すごくいやらしくて気持ちよかった」

「わ、わかんなかっただけだよ。もう、これで俺は寝るからな」

「え、晩御飯食べないの?」

「今日はいい。寝る」


 俺はそのまま、部屋へ逃げ込んだ。

 これ以上神岡を見ていると、また変な気持ちになりそうだったから。

 

 部屋に戻ると、勉強机になど見向きもせず俺はさっさと布団に潜り込む。


「……いかん、胸の動悸がおさまらない」


 このドキドキは、初めてキスをした緊張からだろうか。

 それとも、玄関先という少し背徳感のあるシチュエーションのせいだろうか。

 

 はたまた。


 神岡とキスをして、不覚にも愛おしいと感じてしまったから、なのか。


「……いや、これは吊り橋効果だ。俺は、神岡にドキドキなんて」


 していない。

 そう、言い聞かせるようにして。


 俺は目を閉じた。


 まだ、心臓がドクドクと脈打つのを感じながら。

 

 

 

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