共に、明日へ

 温かい日差しが少女の瞼を照らし、陽光の眩しさにサレナは重い瞼を上げる。


 懐かしく、儚い夢を見ていた。触れると砕けてしまうような脆い夢。夢の中での母との最後の逢瀬。淡い、微睡みの幸福は儚く脆い。


 毛布をかけていた身体を起こし、目を擦る。


 指に触れた乾いた欠片。それは涙が渇いた欠片だと知っている。知っているからこそ、あの夢は母が自分に送ってくれた奇跡だと理解した。


 手を伸ばせば離れてしまう。指に掛けようとすればすり抜けてしまう。手に入れようとしても、胸に抱きしめようとしても、夢は夢なのだ。夢であるからこそ美しく、曖昧な情景であろうと記憶に残る。失いたくないからこそ、記憶は夢という形で思い出を保存する。それは人魔問わず、生物が持つ希望の糸口なのだ。


 サレナは巫女装束のまま履物を履き、ゆっくりと世界を認識するように立ち上がると、椅子にもたれ掛かっていたアインへ視線を向ける。


 損傷した黒甲冑と乾いた血がこびり付いた黒の剣、腕を組んだまま微動だにしない剣士は、彼女の視線に気が付くと真紅の瞳を交差させた。


 「……もう起き上がって大丈夫なのか?」


 「はい、問題ありません。あなたは大丈夫なのですか? アイン」


 「問題ない。鎧は多少損壊したが、時間が経てば元に戻る。それより」


 これからどうする? 辛うじて瞳だけが見えるフルフェイスの下で、明日の事を、今後の予定を聞いたアインに、サレナは少しだけ戸惑ってしまう。


 明日の事、今後の事、そんなものを一度も考えた事は無かった。


 変わらない明日がやって来る日々、巫女としての使命に黙殺されていた未来への展望。自分が生きているということは、アインが自分を救ってくれたという証明だ。

救ってくれたからこそ陽光で目を覚ます事が出来たし、彼と明日へ歩む事が出来る。そんな些細な幸福と、自身に舞い降りた奇跡に、少女は不意に目頭が熱くなり、無意識に涙を零した。 


 「どうした? 何処か痛めたのか?」


 「いいえ、違います、違うんです」


 「泣くな、泣かれちゃ、困る。どうしたらいいのか分からん」


 魔族を一方的に虐殺した人間とは思えない焦ったような姿。どうしたらいいのか本当に分からないと云った様子でバイザーを掻いたアインは、突然立ち上がるとサレナの頭を優しく撫でた。


 「……お前のしたいようにすればいい」


 「私の、したいように?」


 「サレナ、お前は世界を見てみたくないか? 言っていただろう? この世界は俺達が見たことの無いモノで溢れているって。

 俺は旅を続けるつもりだし、自分の記憶を取り戻したいと思っている。だから、サレナさえ良ければ、旅をしないか? 

 無理にとは言わん、避けられない戦いもあるだろう。命が危険に晒される時もあるだろう。

 だが、誓わせてくれ。お前に、サレナの為に誓わせてくれ。俺の剣はお前の為にあると。お前を守り、敵を討つ為にあると」


 膝をつき、剣の柄をサレナへ向ける。


 無意識に言葉が浮かんでくる。守りたい者へ向ける誓約の言葉と意思の表明。


 己が剣の刃を自分の胸へ向け、柄へ相手に握らせる。その意味は己が命を相手に預け、己が力は守護すべき者の為にあるという誓いの表れだ。アインは瞳を閉じ、頭を垂れると言葉を紡ぐ。


 「我が剣は汝の敵を討つ刃である。汝が嘆くのならば我が剣を以て涙を払おう、汝が怒りを胸に抱くのならば、我が剣は汝の怒りの刃であろう。汝の笑顔の為ならば、我が命はその為にあろう。汝の道が茨で覆われているのならば、我が剣が茨を斬り裂き道を切り拓こう。どうか受け取って欲しい、我が誓約を、我が意思を」


 「我、アインはサレナの為の剣であると誓う」


 古風な語り口。今はもう廃れてしまった騎士の誓約の証を示したアインはサレナの言葉を待つ。


 「……アイン、あなたは、私と共に歩いてくれますか?」


 「共に、その道の先が天国だろうと地獄だろうと、我は汝と歩もう」


 「あなたの旅に疲れてしまうかも知れません、あなたの重荷となってしまうかも知れません、それでも、私は共に歩いても良いのでしょうか?」


 「我が剣は汝の杖にも、我が歩みは汝の道と共に、永遠とわに誓う」


 騎士の誓約。それは自らの命を賭してでも守りたい者へ捧げる剣の誓い。


 一度交わして仕舞えばアインの生殺与奪権はサレナの手に握られ、誓いを破る真似をしたら絶対的な破滅が訪れる。重過ぎる代償と一人の人間の命を自身の手に握ってしまう騎士の誓約は、現人間領内では既に過去の遺物の一つとして数えられており、結ぶ者は存在しない。


 一度剣の柄を握り、剣士を自らの騎士としてしまえばもう後戻りは出来ない。


 誓約の代償はアインの命、見返りはサレナの身の安全と共に歩むと云う未来。

 

 普通の人間ならば柄を握らず金銭又は何かしらの報酬で彼を雇うだろう。何故ならば責任を負いたくはないからであり、一人の人間の命を握ると云う重い枷を手首に嵌めたくないからだ。剣の正しい使い方を知らない人間は武器に恐怖し、戦闘を忌避する。振るわれなかった剣はやがて朽ち、錆びつき、風化する。剣を握る者は責任を、敵を討つ剣は守護を。正しき者が結ぶ騎士の誓約は、正しき戦いの為に。




 古の時代、とある男と女が結んだ、あの日の為に。




 サレナは剣の柄に手を伸ばし、彼女の手の平には大きすぎる柄を握った。


 冷たい鋼の感触と血を啜った刃の重さ。アインが振るう黒の剣は漆黒の刃を持つ巨大な剣だった。彼の背に収まり、手に握られていた場面を見るよりもこうして柄を握り持つことで、その剣の強大な力を感じ取る。


 「汝……アインを我が騎士として、我が剣として、汝の誓約を受け取りましょう。汝の刃は我が道を阻む者を討つ漆黒の刃、汝の命へ我と共に歩む栄光を」


 騎士の誓約は、魂と意思、信念の誓いである。


 「我が意思は汝の剣を振るう為に、我が意思は汝の刃を研ぎ澄ます為に」


 一度交わせば破れぬ永遠の誓い。


 「魂を誓約に、意思を剣に、信念を我が騎士へ。我が騎士よ、倒れるな。敗れるな。明日へ進め。我と共に、果て無き未来へ進め。騎士アインよ、汝の誓約は我が受け取った」


 剣士は剣を背に、立ち上がる。右目には誓約の証である剣の紋章が刻まれ、それは彼が少女の騎士である証明である。そして、少女の左目にも剣士の紋章と同じ剣の紋章が刻まれた。


 「……アイン」


 「安心しろ、お前は俺が守る。絶対に」


 「……うん」


 この剣士は言った事は必ず実行する人で、自分の為に命と剣を捧げてくれた恩人でもある。鮮血の色を思わせる真紅の瞳。剣呑な雰囲気。大きな体躯。初めは恐ろしいと感じたが、今はその全てが頼もしい。


 彼を見つめていると頬が熱くなり、心臓の鼓動が早くなる。


 彼と目が合うだけで心を覆っていた不安の一切が、拭われる。


 これがどういった感情なのか少女は知らない。知らないからこそ、少しだけ恐ろしくなる。初めて持つこの淡い感情に翻弄されてしまう。しかし、知りたいのだ。彼を。記憶を無くした彼と、無くす前の彼を、少しでも知りたい。


 「アイン」


 「何だ?」


 「……ありがとう」


 「気にするな、俺はお前が生きていればそれだけで十分だ」


 明日への希望。未来への意思。少女が手にした自由は青空のように果てしなく広がり続け、何処までも続いて往く。


 この日、サレナは世界との出会いを果たしたのだった。

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