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 広い玄関から家の中は暗く、ほとんど先が見えない。天井の照明はオレンジの常夜灯設定になっているのだろう。ほとんど見えないが、見えるところは朱色でぼんやりと浮かび上がる。


「こっちよ」


 靴を脱ぎ一段上がると、まっすぐ進む。その後、何度か角を曲がった。広すぎて、もはや家とは思えない。暗い中、すぐ目の前のユリちゃんの背を追いかけるほかなく、今自分がどこにいるのかすっかり分からなくなった。


 もしユリちゃんを見失い離れてしまったら、私は一生、この屋敷の中から出られないだろう。そんな気がする。


「実理ちゃん、ここよ」


 ユリちゃんは立ち止まった。


 気付けば、長い廊下に立つ私の右側はずっとガラス窓が続いていて、きっとすぐ外は大きな庭になっているのだろう。そして、左側にはずっと白い障子が延々と続いている。


 ユリちゃんはその障子の一つをさっと引いた。


「さぁ、入って」


「あっ、おじゃまします」


 言われるままに中へ入る。他に人がいるような気がしたが、誰もいない。


 何畳あるのか見当もつかないほどに、広い和室だった。私たちのいる遠く向こう側にも障子がずっと続いているのが、うっすらとだけ見える。


 部屋の中央で、ろうそくの小さな火がチロチロと揺らめき、線香の臭いが鼻をついた。


 よく見れば、そこに布団が敷いてある。もしかして……


「宏樹よ。せっかくだから、三人でお話しましょうよ」


 ユリちゃんは布団へ近づいていく。


 どうしようか。さっきまで好奇心のような気持ちもあったはずなのに。本当にここまで来てしまったけれど、大丈夫なのか。


 あの布団には実際に、遺体があるというのか。それに、遺体は石田宏樹なのか。


 あんまり頭が働かないけども、やっぱりなんか変じゃなかろうか。


 たまたま、思い付きで深夜にジュースを買いに行き、偶然に小学校時代の同級生に出くわして、さらに奇跡的に、これまた小学校時代の一番の友人ともいえる人と再会して、その二人が結婚していて……それで、ついさっき会ったばかりで死んでいるなんて、そんなことある?


「実理ちゃん?」


 ためらっている私を、布団をすぐ前にして座ったユリちゃんが促す。


 これはもう、仕方ない。今から走って逃げる勇気はないし、そもそもこの家から自力で出られる気がしない。心の面でとっくに負けている。


「あっ、うん……」


 ユリちゃんの横へ行って、私は同じように正座した。


 目の前の布団には確かに、誰かが横たわっている。


 顔には白い布がかぶされ、その枕元には線香の煙がのぼり、ろうそくの火も揺らめいている。


 横になる誰かの、頭のすぐ横に座るユリちゃんは、かけられたその白い布をじっと見つめる。


 線香の臭いだけが漂う静かすぎる沈黙は始まった。


 この状況で発する言葉なんて、一つも思いつけない。ユリちゃんに対してかけるべき言葉は、もしかしたらあるのかもしれないけど、それが一体何なのかは見当もつかない。


 だから、ユリちゃんが口を開いてくれるのを、私はただ待とう。でも、ユリちゃんはどんなことを言うだろうか。全く想像はつかないから、それはそれで怖いし緊張する。


 それに、すぐそこに遺体があるというのも……


 実のところ、私は今まで一度も、葬式に行ったという経験はなかった。遺体と接するというか、遺体を見たことがない。ありがたいことに、父方の祖父母も母方の祖父母も皆、八十をとっくに過ぎても存命である。親戚とは縁遠いし、この通り友人知人も皆無という有様なので、葬式や人の死というものに出くわしてこなかった。


 そういえば、生まれる前に与えられたお役目を果たしたときに人は死ぬ、と昔どこかで聞いたけど。そうすると、私なんかはお役目をいつまでも果たせそうにないから、かなり長生きしてしまいそうだな。たった一人で、きっと悲惨に……って、お役目ってなんだよ。


 とにかく、そんな私の目の前に今、誰なのかよくわからない遺体があるのだ。


 こんな唐突に……いや、人の死は基本的に突然だろう。寿命を完璧に知る人なんていないだろうし。唐突なのは、唐突でいいのだろうけど……ところで、この人は本当に誰なの? 本当に石田君なのか。そこだけでもはっきりしてほしい。いろいろとすっきりしないというか、気持ち悪すぎる……


 沈黙は長すぎて、私の緊張は果てなく膨張していく。


 ずるずると答えの出ない事柄が頭の中を駆け巡り、脳や心臓の方が限界をむかえてしまいそう。動悸と、こめかみ辺りのドクドクする感じは治まらない。


「実理ちゃん……私と宏樹がどうして結婚したのか、知らないよね?」


「へっ!? あっ、うん……そういえば、知らないけど……」


 知るわけがない。結婚したことも知らなかったのだ。今さら、なんという愚門だよ。


 そうではあるが、二人の接点は何だったのだろう。小学校のとき、私だけでなく、ユリちゃんも石田君と親しかったことはないように思う。


「実は、結婚相談所っていうのかな? そこに登録してて、偶然ね、宏樹とそういうパーティーで再会したの。小・中学校のときは、ほとんど話したこともなかったけど、意外と気が合って。宏樹も私もパーティーに参加するぐらいだから、結婚願望は強かったし、そのまますぐに結婚したのよ」


「そうなんだ。すごい……運命的だね」


 心にもないことを言った。婚活パーティーでの再会か。遠く県外でもなく近所でやっていたのなら、まぁまぁ、なくはない出会いだろうと思う。

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