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 恥ずかしすぎて顔を上げることができずにいるが、都合よく深々と頭を下げる形になったのは唯一の救いだ。


「いいえ、よかったら全部使ってください。さっき駅前で配っていたものですから……それより、あの……立山たてやまさんじゃないですか?」


「えっ!?」


 彼の黒い革靴とスーツの裾しか見えていなかった私は、思ってもみない意外な発言に肝を冷やし、瞬時に頭を上げるとその顔を認め、さらに驚き恥ずかしくなった。


「もしかして……い、石田君ですか?」


「やっぱり、立山さんだ! そう俺、石田いしだ宏樹ひろきだよ。懐かしいなぁ」


 ハッハッと楽しそうに笑う彼は、小学校の同級生だった。何年生だったかは定かでないが、同じクラスになったこともあるように思う。


 そうではあるけれど、ほとんど口をきいたこともなく、お互い全く目立つことのない存在だったので、今みたいに声をかけられなかったら、彼のことは生涯、思い出すことはなかっただろう。


 きっと、どこかですれ違っても絶対に気付かないだろうが、どうしてスーツ姿の大人になった彼を、すんなりとわかったのか。


 石田君だとわかった自分に対しても、驚いてしまう。


「……本当に、懐かしい……」


 心にもない言葉は出てしまった。


 あんなに誰にも会いたくなかったのに、どうしてよりによって小学校の同級生に出くわすのか。しかも、鼻を垂れ流しているところを助けられるなんて、無様にもほどがある。


 相手はスーツなのに、私はヨレヨレのスッピンで……


 また頭が痛くなってくる。一刻も早く、この場から立ち去らなければ。


「いやぁ、今日も残業でさ。俺、この時間に、わりとこの辺は歩いてるんだけど、まさか、立山さんに出会うとはなぁ。せっかくだから、俺も一本、買おうかな」


 石田君はズボンのポケットから小銭入れを出すと、私の立っている前にわざわざ入り込むようにして、赤い自販機にチャリチャリ投入した。


 そして、私の欲しかったコーラのボタンを押す。


 ペットボトルの、ドンッと落ちる音が響き渡った。


「立山さんは何買うの?」


 かがんで、自販機の取り出し口に手を突っ込みながら、石田君は私の顔を見上げる。目が合うと、彼はにっこり笑った。


「えっ、ええっと……」


 慌てて目をそらし、ポケットから財布を出すと目当てだった真ん中の自販機の右側、百円均一の自販機に百円玉を投げ、適当にボタンを押した。たぶん、何かの缶ジュースで、私はかがむとさっと取り出し、立ち上がった。


「あの、本当にティッシュ、ありがとう。助かりました。それじゃ……」


 うつむいたまま早口で言って、私はもと来た道を急いで歩き出す。


 最悪だ。ティッシュをあのタイミングでくれるなんて、いつから後ろにいたのだろう。くしゃみは確実に見ていたはずだ。よりによって、どうしてあんなに大きなくしゃみをしてしまったのか。


 あんなに小学校時代の同級生には会いたくないと思っていたのに。逆にこんな風に現実になるなんて、すごくない? これはもう、私の念のなせる業だったり……そう、考え過ぎて引き寄せているとか……


 だとしたら、もう何も考えてはいけない! いや、超絶ポジティブなことならいいかもしれないけど。超絶ポジティブ以外は頭の中を浮遊させては断じてならない!!


 そうは言っても……今の私に超絶ポジティブな思考など皆無なのだ。


 無理無理無理無理!!! それならば無にならなければ。脳の中、心の中は全て空っぽに。せめて今、家にたどり着く間だけでも。


 私は行きに下ってきた坂道を、ふくらはぎの痛みも気にならないほどに登っていた。


 すると、前方左側の、頭の上くらいの高さに、妙な赤い明かりが灯っているのが見え、不意に立ち止まってしまった。


 それは、大きな赤い提灯だった。忌中と墨で書かれている。


 忌中? ということは、葬式……いや、こんな夜中に葬式はない。もう午前二時になるような時間に……


 立派な木造の門の前、確かに門と提灯の調和はとれていて、不自然な感じはしない。だけど、こんなにも大きなお屋敷、この道沿いにあっただろうか……


 左右を見れば、やはり行きに通ってきた道に相違ない。そのはずだけど、このお屋敷の覚えはない。


 なんか変だ、怖い。なんでこんな時間に外へ出てしまったのだろう。早く立ち去らないと……


 ギィと嫌な音がして、中から木造の門扉が開けられた。


 黒い服装の、上品な女性だった。彼女と目が合う。そして、私たちは互いに驚き、目を見開いた。


「あっ、あなた……みのちゃん……? 立山実理ちゃんよね?」


「……えっ、もしかして、ユリちゃん!?」


 ユリちゃんも小学校の同級生だった。それに、ユリちゃんは当時、一番といっていいだろう仲の良い友達だった。


 例えば、教室移動するとき、トイレに行くとき、遠足のおやつを買いに行くとき、学校帰りに道草するとき……そういうときの私にとっての相棒はユリちゃんだった。


 ただ、中学校に入って学年の人数が増えクラスが離れると、だんだんと二人で一緒にということもなくなり、さらに高校も別になれば、もうすっかり疎遠になっていた。


 赤い提灯の明かりでぼうと照らされるユリちゃんの瞳はうるんでいて、なんともはかなげで美しい。そして私は、どうしてこんな格好で外に出てしまったのだろうと再び後悔し、ひたすらに恥ずかしい。

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