現実逃避行 ーたまに逝くならこんな店ー
マ・ロニ
第1話 酒に逃げる ー酔いの旨味ー
仕事を逃げるように、いつもより早めに切り上げて、自宅へ向かう方向とは違う帰り道をたどり行きつく先は、街頭もない田舎道の暗がりに建つ、一軒の農家の広い庭先。
周囲を竹やぶや雑木林に囲まれ、家の敷地内に渓流が流れ、闇夜の静寂の中、自然の音色が微かに奏でられる。
足元を照らす灯りもない。今日は雲に隠れ、月や星の明かりでさえも届いてこない。己すら見失うかのような暗がりの先を示すのは、まばらな間隔で設えてある青白い踏み石だけ。
道を外さぬように、石をたどる。実際にはとうの前から道を踏み外しているくせに、今さら何を恐れているのか。なんとなく、自嘲気味になりつつ、庭の先にある古い蔵の人の出入りを戒めるかのような扉の前に立つ。
グッと力を入れて扉を開くと、わずかな灯りが中からこぼれるが、中をのぞけば外の暗闇が内をも支配しているかのように見通すことができない。
身体をわずかに開いた扉の隙間を縫うように割り込ませて蔵の中へと入る。燭台が照らす一角へと足を進める。蝋燭が照らすぼんやりとした橙色の光のたもと、カウンターの奥で、作務衣を来た中東アジア系の深いほりと鷲鼻をもつ、たくましい髭を蓄えた浅黒い肌の小柄な老人がグラスを磨いている。
「――いらっしゃい」
「お久しぶりです。連絡が届きましたので伺いました」
無口な店主は席に着いた私へ挨拶を一言済ませれば、手元で磨いていたグラスを置き、背面に設えてある酒だなから銘もない、装飾もない、ただ透明な瓶を手に取り、木栓を抜き、蓄えられた琥珀色をした液体をグラスへと注ぎ、私の前へと差し出す。
「幾年か前から仕込んで、樽替えした酒がいい頃合いになった」
それだけ言うと、別のグラスを手に取り磨き始める。この店では注文を取ることはしない。この店の主――「マスター」が差し出す酒を、静かにじっくりと楽しむだけである。
カウンターに設えてある、水差しとグラスから水を自分で注ぎ一口飲み干す。口の中が洗われるような透明な味。
グラスに注がれた濃い目の琥珀色の液体を、仄かな灯りに照らせば、夏の日の夕焼けのような色合いを感じ、そっと近づけば郷愁を感じさせる香りが立つ。
手に取り、ゆっくりと回せば香りが広がる。内側の液体が時を遅くしたかのようにゆっくりと流れる。息を吐き、口元へ当て、グラスを傾け、少しだけ口腔の中へと液体を注ぐ。
冷たく甘い香りの奥から締まるよう辛さが口から喉へと滑り落ちていく。余韻は少なく、後から熱さが臓腑の奥から突き上げてくる。
「旨いですね」
「そうか」
「どのような仕込みで」
「自家製の大麦を蒸留して、ミズナラから古い日本酒の樽に詰め替えた」
マスターはそれだけ言うと、小皿に持った木の実が差し出される。
油脂を感じさせる濃い目の木の実をつまむ。
私に詳しいことは分からない。ただ、この店で出る酒は一から十までマスターが手掛けている。要は密造酒だ。ただし、粗悪品ではなく最高級品。
巷に決して出回ることのない、ここでしか飲むことのできない限られた酒の旨味に酔いしれれば、明日からもまた頑張れるというものだ。
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