苦汁

青のキカ

(1)


 それは大抵、彼が仕事から帰宅後、夕食を済ませてから始まる。荒々しくソファに腰掛け、手招きをしたら合図だ。


 私が食器を洗っていようと、お風呂の準備をしていようと、遅れることは決して許されない。少しでも反応が遅れようものなら、強烈な右ストレートが飛んで来る。だから私はパブロフの犬のように、その合図を見ると即座に彼の前に跪く。



「歯は立てるなよ」


 彼は下卑た笑みを浮かべながら、私の頭を鷲掴みにし、上下に激しく動かした。


 苦しい。汚い。気持ち悪い。早く、終わってほしい。込み上げてくる吐き気をなんとか堪えながら、歯を当てないことと、鼻で息をすることだけに意識を集中させた。




ーー事の始まりは2年前だ。

 

 口論になった際に頬を思い切り殴り付けられたことがきっかけで、彼に別れを切り出した時、頼むから捨てないでくれ、と追いすがられたのだ。



「おれにはもう、お前しかいないんだよ」


 私は苦渋の決断を迫られたが、その潤んだ瞳と子犬のような姿が憐れに思え、結局、彼のもとに留まることを決めた。


 この人は、私がいないと死んでしまうかもしれない。たった一度の過ちで見放してしまうのは、あまりに可哀想ではないだろうか。そう思った。



 しかし、それが全ての間違いだった。

 

 彼は最初の数ヶ月こそ優しかったが、次第に私を激しく束縛するようになった。男の連絡先は全て消去すること、GPSアプリで常に位置情報を知らせること、一日の終わりにその日の行動全てを報告することなど、数え切れないほどのルールが課せられた。


 出先でスマホの充電が切れたり、報告内容に少しでも虚偽や矛盾が見られたりした日は、空がしらみ始めるまで、執拗に詰責きっせきされた。


 やがて束縛はエスカレートし、暴力へと形を変えた。そして今では、日常茶飯事のように私をいたぶり尽くすようになった。



 暴力による恐怖と、歪んだ愛で、私を支配できるとでも思っているのだろうか。


 こんなことをしたって、逆効果でしかないのに。きっと、人の愛し方が分からない可哀想な人なのだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る